第三話
十分ほど前。
「間宮先生、いらっしゃいますか?」
友希は歩に連れられて地下の一室を訪れていた。
ジャンブルの出現に対して友希が“自分が行く”と申し出た時、歩は初めてその表情を崩して渋い顔をした。今のところは無関係の人間である友希に協力してもらうことに引け目を感じるのと同時に、一方ではそれが最良だと理解していると言ったところだろう。
ならば友希は、あと一押しするだけでよかった。
それで歩は折れ、案内されたのがこの部屋だった。
「いるわよ。どうしたの?」
奥から声が返ってきた。同時に姿を見せたこの長髪の女性が“間宮先生”なのだろう。緊急事態にも関わらず、妙にのんびりした調子だ。
「いくら切羽詰ってても、桐沢には使えないわよ。振り回されるだけ……って、そっちの娘は?」
とりあえずジャンブルが出現したことは把握しているようだがやはり態度は泰然自若。むしろ、友希の姿を見止めた時の方が驚いているくらいだ。
「そこまで無茶をする気はないのでご安心を。そのためにこの娘を連れてきたんです。友希さん、こちらは技術担当の間宮綾乃先生。普段はこの学校で数学を教えてもらっているわ」
「は、はじめまして。羽谷川友希です」
「はいはじめまして。私ちゃんと挨拶できる娘って好きよ。で、この娘が着るの?」
「えっ? 着る?」
「そうです」
「そうです……?」
自己紹介もそこそこに、話は友希を置き去りにしてどんどん進んでいく。意を決しはしたものの、やはり言いようのない不安が過る。
「あの……会長さん、話がよく……」
「詳しく話している時間はないわ。とにかく……」
「とにかくこっちに来なさい。百聞は一見に如かずよ」
「わっ? わっ!?」
言うが早いか、綾乃は友希の首をガッチリとホールドして奥へと歩き出す。
頭が状況についていかず、友希はされるがまま綾乃に従うほかなかった。
しばらくして元の場所に戻ってきた友希は顔を真っ赤に染め、身体をワナワナと打ち震わせていた。
「あの…………これ……は……?」
そのいずれも、原因は羞恥によるものだった。
「対ジャンブル用の強化スーツよ。微弱な電気パルスで筋力を強化して、神経伝達もサポートしてくれるわ。当人にもある程度の運動能力がないと扱えない代物だけど、桐沢が連れて来たんなら問題ないでしょう。あと電磁バリアもついてるから、大概の攻撃はそれが防いでくれるわ。素材も薄手の割に丈夫だから、ケガの心配はほとんどいらないわよ」
綾乃は立て板に水といった感じでスラスラとその強化スーツの説明を語ってくれた。どうやらかなりの優れ物のようだが、友希にはそれ以上に気になっていることがあった。
「でも……このデザインは……」
綾乃の説明にもあった“薄手”というその一点がどうしても気がかりだったのだ。
「あら、気に入らない?」
「気に入らないというか……」
友希はあらためて自分の姿を確かめる。
その強化スーツは確かに薄く、さらには友希のあまりにも象徴的なボディラインをくっきりと浮かび上がらせるほどの密着ぶりだった。一応ブーツやプロテクターらしき物、なんらかの機器類などが取りつけられているが、それらが占める比率は多くはない。コンパクトにまとめられていると思えばその技術力に感服するところだが、友希が見るにつけ、自身の凹凸をより際立させているようにしか思えなかった。
率直に言えば、こんな物を身に着けて出歩くことなど想像しただけでも恥ずかしさで身悶えしてしまいそうな、誰かにこの姿を目撃されようものなら穴を見つけて七十五日は引きこもりたくなるような、その強化スーツはそういう類の装備だった。
「は…………恥ずかしい……ですよ」
友希は消え入りそうな声でその率直な想いを控えめに伝えた。
「そうかしら? 女性の美しさと戦士として勇猛さを兼ね備えたいいデザインじゃない」
「こんな格好じゃ……外に、出られないですよ。それに……なんか妙にキツいし……」
「ああ、前の娘が使ってたまんまだからサイズが合わないのね。手直しは今度するとして、一年生にしてその立派な身体、自信持ちなさいよ。きっと道行く人みんなが振り返るわよ?」
「それじゃあ困るんですよおっ!」
「別に減るもんじゃないでしょ」
最後の方はほとんど泣き出しそうな勢いで声を荒げたが、綾乃の方は聞き入れてはくれなかった。いつまでも駄々をこねている時間はなかったが、それでもこの姿で外に出ることにはどうしても抵抗があった。
友希は真っ赤な顔のまま綾乃を見つめる、というより睨みつける。
「…………しょうがないわね」
そうすることで、綾乃はようやく友希の意見を聞き入れてくれた。
「そんなあんたのために、こういう物があるわよ」
しかしそう言って綾乃が取り出した物は、友希が期待していたような物とは違っていた。
「なんですかそれ……ゴーグル?」
「まあそんなところね。一応通信機その他諸々も兼ねてるわ」
「でも、そんなんじゃ……」
「いいから、百聞は一見に如かず!」
綾乃の座右の銘なのだろうか、先ほど同じ言葉を繰り返しながらヘッドセットと一体になったようなそれを友希に無理矢理被らせる。
しかし、確かにゴーグル部分はスモークがかったような感じだったが、それで隠せるのはせいぜい目元だけだ。これだけでは変装にもならない。
そう思っていると、綾乃が鏡を取り出して見せてくれた。
「ほら、これでどう?」
「え……わっ!?」
なんと、髪の毛の色が変わっていたのだ。色がすっかり抜け落ちてしまったかのような白髪だ。
「安心しなさい。ゴーグルを外せば元に戻るから」
「はあ…………でも、これだけじゃまだ……」
「説明は最後まで聞きなさい。そのゴーグルからはある種の催眠波が出ているの。これを着けているとあんたを見た人間の中で、他の人間とのイメージの結合を阻害することができるのよ」
「イメージの……結合?」
「ようするにあんたを知っている人間がそれを着けたあんたを見ても、双方のイメージが繋がらずに別人だと判断するってこと。ちなみにその逆もまたしかりね。イメージを繋げることができるのは、私たちみたいにはっきりと同一人物だと認識している人間だけ」
「それはまた……なんとも都合のいい……」
「世の中そんなもんよ」
綾乃はそう言うがいまいち不安を拭えない。もしかすると、いつまでも二の足を踏んでいる友希に言うことを聞かせるための方便かもしれない。しかしその効果を確かめる術も、時間もなかった。
「……………………これで…………バレないんですね?」
「バレない!」
綾乃は大いに胸を張ってそう請け負った。それを信じるしかない。
「そ…………それじゃあ、行ってきます……!」
友希は気合を入れるとともに羞恥心を振り払い、扉へと向かう。
「ちょっと待ちなさい」
しかしそこを綾乃に呼び止められる。せっかくの気合いがそがれる心境だ。
「な……なんですか? まだ何か……」
「そうじゃなくて、出て行くならこっち」
言いながら綾乃は壁と叩く。よく見るとそこにはこれまでの扉と同じようにパネルが備えつけられており、綾乃の一打に反応してその壁の一部が瞬時に口を開けた。
「へえ〜……こんな物まであるんですか……」
友希はその入り口に近づきながら物珍しそうに中を覗き込む。中は薄暗くてよく見えなかったがおそらくは隠し通路、きっとこういった道が学園中に張り巡らされているのだろう。
などと悠長なことを考えているすぐ傍らで、綾乃がその口の端を吊り上げた気がした。
「はい! 一名様ご案な〜い!」
「――へっ?」
綾乃に背中を押されて、友希はその隠し通路に押し込められる。
「リニアカタパルト作動! 射出口F!」
「――えっ? なっ? ちょっ……」
唐突な展開に戸惑う友希。通路内に明かりが灯りはしたが、見た感じは照明のそれではない。それがなんなのかを考えるヒマもなく――
「それじゃあ行ってらっしゃ〜い!」
「ひいいいいいいいやあああああああっ!」
綾乃の声が遠のいていくのを感じながら、友希は強い力に引っ張り回された。
***
そうして友希が放り出されたのは、確かに図書館近くの植え込みだった。あまりに勢いよく放出されたためもんどりうって植え込みに突っ込んでしまったが、この際気にしてはいられない。
友希はそこから急いで図書館へと向かう。
その途中に感じたのは、この強化スーツの効力だった。
身体がまるで羽根のように軽い。普段と同じ調子で出す一歩で、普段の何倍もの距離を移動できるのだ。筋力を強化すると言っていたが、同時に瞬発力も増してくれるようだ。植え込みに出てわずか数秒、友希は開け放たれたままの窓から図書館に飛び込んだ。
「――!」
そこで目の当たりにしたのはジャンブルの乱行、ではなく今にも倒れてきそうな本棚とその側に座り込んでいる明日音の姿だった。
友希は猛然と床を蹴った。
これまでに感じたことのない力で身体が前方に押し出され、難なく本棚の下に入り込むことに成功。本棚を支えて明日音を押し潰そうとする防ぐことに成功した。
「ふう……………………あっ」
しかし本棚を背負うように支えたため、そこでバッチリ明日音と目が合ってしまった。
瞬間、今の自分の姿とゴーグルの効果が友希の頭の中で交錯する。
(もし私がこんな格好してるって知られたら、もう顔合わせらんないよ……!)
そんなこの世の終わりとも思える想像が過ったが――
「――った……あだだだだだっ!?」
状況がそれを深く考える余裕を与えてはくれなかった。
本棚を保持する角度が深かったために収めてあった本が少しの振動で抜け落ち、友希を直撃したのだ。しかも連続で。
「……………………」
「……………………」
足元には大量の本が散乱し、先ほどとはまた違った気まずい空気が流れる。その気まずさに、友希の心臓は押し潰されてしまいそうだった。
しかし、しばらくして――
「あの…………大丈夫……ですか?」
その空気を先に破ったのは明日音だった。そしてその言葉は、友希に福音をもたらした。
(今……“大丈夫ですか?”って…………言った)
明日音は友希に対しては敬語を使わず、普通に話してくれる。敬語を使ったということはすなわち、今目の前にいる人物が友希であると認識していない証拠だ。
(間宮先生……疑ってすみませんでした)
心の中で平謝りしながら、友希は気持ちを切り替える。
まずは状況を立て直すべく、本棚を押し返そうと両手に力を込めた。
「よいしょっ!」
だが力の加減ができず、本棚は逆方向に倒れてしまった。しかもその向こう、そのまた向こうに立っていた本棚までもが、盛大な音を立ててドミノ倒しに次々と倒れていく。
結果、図書館のその一角は壊滅状態となり、再びなんとも言えない気まずい空気が流れ出す。
明日音が不安げな表情でこちらを見上げてくる。非常に決まりが悪い。が、そう何度も同じことを繰り返すわけにはいかない。
「こ……このままここにいて。ジャンブルは、私がなんとかするから」
「え? でも……」
「私は大丈夫。だから……ね、ここにいて」
友希は再度頭を切り替えようとしたが上手くいかず、なんとも複雑な心持で本を貪っているジャンブルを見据えた。しかし、こんな所で暴れるわけにもいかない。今は、色んな意味でこの場を離れることが先決に思えた。
友希は大きく息を吸い、両足にありったけの力を込める。
「――ったあああああああっ!」
腕を顔の前で交差させて全身全霊の突進。
ジャンブルの重量などものともせず前進し、ついにはその背後にあった窓をぶち破って図書館の外へとジャンブルを押し出した。
そこは空中。二階の窓から飛び出したのだから当然だ。
友希はジャンブルを突き飛ばすようにして距離取りながら着地し、改めてジャンブルと対峙した。友希が初めて目にするジャンブル、毛むくじゃらの巨大な球体はどこから愛らしささえ感じる。
「それにしても……やっぱりすごいな、このスーツ」
あらためてそう思う。あれほど重そうなジャンブルを苦もなく押しきることができ、二階の高さからも楽々着地できた。この恩恵はやはり計り知れない。
『そうでしょそうでしょ!』
などと考えていると、ヘッドセットから綾乃の嬉しそうな声が聞こえてきた。
「あ……間宮先生?」
『いやあ、よくわかってるじゃない。ベースをつくったのは前任者だけど、そこから今の状態にまでつくり上げるのには苦労したわよ、デザインも含めてね。でもその分、ジャンブル相手には少しも後れを取ることはないわ。さあ! 行ってぶちのめしてきなさい!』
「ぶちのめすって…………あの、具体的にはどう?」
『どうも何も、とにかく殴る! 蹴る! 頭突きだっていいわよ』
「そ、そんな無茶苦茶な……」
『まあ、ジャンブルの機能を停止させる“必殺技”があるのよ。でもそのためにはある程度相手を弱らせないとダメなの。だからとにかく行く!』
「行くって言っても、私殴ったり蹴ったりなんてしたことありませんよ……!」
『とりあえず適当でいいわよ! 強化スーツの性能ならそれでも十分!』
「ふえ〜っ!?」
友希は情けない声を上げながら言われるがまま地面を蹴った。
人はおろか壁すら殴ったことのない友希だが、とにかく拳を硬く握って大きく振りかぶり、それを――
「――えぇーいっ!」
思いきりジャンブルに叩きつけた。
手応えはそれほど重くはなかった。しかしその一打を食らったジャンブルは大きく後方に吹っ飛んで転がる。その様はまるで巨大なゴムボールだ。
友希はそれを見て呆気に取られる。この強化スーツの威力をもってすれば、こうも簡単にいくものなのか。
「できる……かも。よおしっ……!」
その一撃に自信を得た友希は再度ジャンブルに向かって駆け出した。先ほどと同じように拳を握ってそれを突き出す。
またもクリーンヒット、ジャンブルのボインボインとバウンドしながらその辺りを転がり回る。
「うん…………大丈夫……大丈夫! ちゃんとできる!」
友希は自分に言い聞かせるように何度も呟く。
自信は徐々についてきたが、それでも一種異様な存在であるジャンブルに対してどうしても腰が引けてしまうのだ。だからこのままがむしゃらに、一気呵成に戦いを終わらせたい、そんな想いだった。
そうして三度目の攻撃に移ろうとしたその時――
「――うひゃっ!?」
何かの気配を感じた友希はとっさにその場から飛び退いた。
その感覚に間違いはなく、猛然と振るわれたその何かがそれまで友希が立っていた場所を打ち据える。
それは、ジャンブルの毛だった。束ねられてロープほどの太さになった毛を鞭のようにして攻撃してきたのだ。地面にはその跡が深い溝としてありありと刻まれており、その威力が窺える。見るとジャンブルは同じような毛の鞭をいくつもつくり出し、ザワザワと蠢かせている。その姿はイソギンチャクのようであり、可愛らしさなどもはや微塵もなくなってしまった。
同時に表情などないそのジャンブルから、滲み出るような怒りを感じた。
「あ…………うぅっ……」
それを感じ取った途端に、友希の足がすくみ始めた。
「うぅ〜っ…………っ!」
それでも友希は足を前に出した。
対するジャンブルは無数の毛の鞭を激しく振るった。
友希の動体視力、そしてゴーグルに備わっているのだろう視覚をサポートする機能とをもってすれば、その動きを見切ることは難しくなかった。
しかし腰が引けてしまった友希は、そのプレッシャーに足を止めてしまう。
その隙を突いて、鞭の一本が友希の足に巻きついた。
「――えっ? きゃああああっ!?」
そのまま宙につり上げられ、思いきり振り回される。
目が回る、なんてものではない。気分は脱水中の洗濯物だ。
「――ああああああああああああ〜……うぎゃっ!」
そうして十分に振り回されたところで、友希は校舎の壁に向かって投げつけられた。
その頑丈な外壁に大きな穴が開く。それほどの衝撃ではあったが、電磁バリアが作動してくれたおかげでそれほど痛みはなかった。またも強化スーツに助けられた格好だ。
「はえ〜……」
頭の上でヒヨコが踊っている。そんな意識のまま友希は瓦礫をどかしながら身体を起こす。
『ちょっとちょっと、大丈夫?』
「は……はいぃ、なんとか」
綾乃の言葉にどうにか答えるが、状況は芳しくない。
今の反撃でなおさら気後れしてしまった友希にとって、これ以上戦意を持続することは難しい。こんな状態ではこの立派な装備も豚に真珠だ。
気づけば、毛を器用に足代わりにして移動していくジャンブルが見えた。今の攻撃に手応えを感じたのか、あるいは戦意がないことを悟ったのか、もはや友希のことなど眼中にないといった風情だ。
友希はその様子にグッと息を詰める。そうして見ていることしかできないのが今の友希の心境だった。
(あれ……? で……も……)
しかしハタと思い至る。ジャンブルはどこへ何をしに行くのか、ということに。
ジャンブルは図書館で食事をしていたのではなかったのか。だとすればジャンブルはそこへ戻るだろう。そこにあるのは建物一杯のごちそう、そして一人の少女。
(――! もしかして……)
明日音はジャンブルと遭遇したにもかかわらず逃げた様子はなかった。それどころか立ち向かった節さえある。しかも友希は先ほど、“ここにいて”と言い残してきたのだ。その言葉通りあの場に居残っている可能性は存分にある。
ならばまた、同じことの繰り返しだ。そして明日音は再び危険にさらされる。
(私は……なんのためにこんなスーツまで着けてここに来たの?)
そもそもの発端は初めてできた友達を救い出すため。こんな所でコソコソしていていいはずはない。
「やらなきゃ……やらなきゃ……」
友希は、ほとんど自己暗示でもかけるかのように何度もつぶやいた。
それでも足りず――
「――ふんっ!」
手近な瓦礫に思いっきり頭を打ちつけた。
自分で打ちつける分には電磁バリアとやらは働かないのか、その衝撃は稲妻のように友希の脳を突き抜ける。今度はヒヨコではなく、星が飛び散った。
「っ〜……………………よしっ!」
友希はその衝撃から立ち直ると気合を入れ直し、敢然と立ち上がった。
これでもかと息を吸い、力一杯拳を握り、決死の想いでジャンブルを睨みつけ――
「――でええええやあああああああっ!」
一心不乱に突っ込んでいった。
そのまま一撃。それによって弾け飛んだジャンブルを追ってさらに飛び蹴りを見舞う。
背後からの不意打ちにダメ押しの追撃。よくよく考えると卑怯千万もいいところだが、それを考えている余裕すら今の友希にはない。
その攻撃に、ジャンブルの方も黙ってはいなかった。
「――うっ!?」
先ほどと同じように毛の鞭を無数につくり出し、繰り出してくる。
友希は腕をかざして防御する。やはりダメージはないがそれで大きく後退させられる。強化スーツのおかげで力は増しても重量差は否めない。ジャンブルにとっての友希が、友希たちにとっての犬猫も同然という事実は、散々振り回されたことからもよくわかる。
「うぅっ……思い出しちゃった……」
記憶を反芻するだけで吐き気まで込み上げてくる。
そんなことはさておき、ではどうするか。攻撃を受けると防御したとしても押し戻されてしまい、有効な反撃ができない。ならば攻撃を受けない、という選択肢しかない。
ジャンブルの攻撃をかわすのだ。
友希はジャンブルに向かって一直線に駆けた。
そこを毛の鞭が迎え撃つ。友希は冷静にその軌道を見極めながら水平に薙ぎ払われた一本目を跳び越し、垂直に打ち下ろされた二本目を空中で身を捩って回避した。着地した時にはすでにジャンブルの懐だった。
「――てええええいっ!」
振り上げた足がジャンブルを捉えた。その身体が大きく舞い上がり、落ちる。サッカーの試合なら喝采が沸き起こりそうな見事なキックだ。
友希は間を置かずにジャンブルを追った。今の友希ならばジャンブルの攻撃を避けることに苦はない。そしてこの踏み込みのスピードならばそういくつも避けるまでもなく、ジャンブルに接近できることがわかった。
何より今の友希は足がすくむこともなく、頭も冷静に働いている。
友希は今、この上なく集中しているのだ。ジャンブルと戦うことに、そうすることで大切な友達を守るということに。
もはや友希が負ける要素はなくなった。
「――たああああっ!」
そうして何度目かの攻撃がジャンブルを捉えた。
「はあ、はあ、はあ……」
『羽谷川聞こえる? そろそろ行くわよ』
「えっ……? 行くって……」
間合いを取って呼吸を整える友希の耳に綾乃の声が届いた。
『言ったでしょう? “必殺技”があるって。そろそろいい頃合いよ』
「そ、それじゃあどう……ひゃっ!?」
同時にジャンブルの攻撃も届く。当然のことだが、友希たちの会話などお構いなしだ。
友希はその攻撃を軽妙にかわしながら綾乃の声に耳を傾け、綾乃もこんな状況も黙殺して話を続ける。
『いい? 手甲部分の真ん中に球面があるでしょう? それを叩くとエネルギーチャージが始まるわ。三秒もすれば使用可能状態になるから、あとはそれをこれまでと同じようにぶん殴って叩き込む! それでジャンブルを撃退できるわ。ただし、エネルギーは一発分しかチャージできないわ。つまりは左右合わせて二発しか打てない。そもそも身体に負担がかかる武器だから、なるべく一発で決めなさい』
「……はい、わかりました」
言われた通り慎重にことを運ぶため、友希は一旦大きく距離を取った。
呼吸を整え、しっかりとジャンブルの姿を視界に捉え、そして右の手甲を叩いた。
「うっ……!?」
光が奔る。
継ぎ目からわずかに開いた手甲の隙間に淡い光が灯った。そして、それが徐々に強まっていく。
綾乃が言っていたチャージ時間は三秒、それがカウントダウンだ。
「三……二……一……!」
光が最高潮に達する。と同時に友希はあらん限りの力を込めて地面を蹴った。
その危険を感じ取ったのか、迎撃の鞭が乱れ舞う。しかし友希はその中に飛び込み、次々と鞭を潜り抜けていく。
紙一重の所をかすって空気を切る、空振りして地面を打つ、そんな鞭を尻目に、友希はジャンブルの懐へと踏み込んだ。
「――っ!?」
が、そこへ一本の鞭が振り下ろされた。別の鞭の死角になっていて反応が遅れ、よけられない。
しかし、友希は退かなかった。
「――たあっ!」
空いた左手でそれを払いのける。
真正面から受けようとしなければそれも可能だった。多少バランスは崩したがそれも瞬時に立て直してあらためて右拳に力を込める。
そして――
「――てやあああああああっ!」
ジャンブルの中心部を貫くかのようにそれを突き込んだ。
手甲の光がジャンブルに伝播して弾ける。
友希は、物言わぬジャンブルの断末魔を聞いたような気がした。
「……………………」
直後に静寂が訪れる。あれだけしきりに蠢いていたジャンブルの毛も、今は写真のように静止していた。友希もまた、それに同調するようにして身動き一つしなかった。
そこへ、風が吹いた。
凪いだ水面を揺らすように、その風が静寂を揺り動かした。
ジャンブルが毛先の方からチリのようになって宙に霧散していく。一度始まってしまえば、その現象は急速にジャンブルの全身に広がっていった。
そうして数秒経った頃には、その存在は完全に無へと帰してしまった。
「……………………はあ」
友希はそこでようやく息を吐き、緊張を解いた。
「終わった…………やっと…………」
ジャンブルを撃退、これで友希の役目は終わりだ。
達成感よりもまずは途方もない疲労感、戦っている最中には忘れていた恐怖、そして今更ながらとんでもない格好で大立ち回りを繰り広げていたのだという恥ずかしさが込み上げてきた。
とにかくそのようなさまざまな想いが入り混じった結果、友希の頭がオーバーヒートする。
「うぅ〜っ……」
そんな頭に唯一明確な意志として浮かぶのは、一刻も早くこの場を離れて歩たちがいる地下室に戻りたいという想いだけだった。
その想いに素直に従った友希は、生徒会室の位置を思い浮かべながら振り返った。
「――!」
しかし振り返ったその場に立っていた人物が友希の足を止めた。
図書館にいたはずの明日音が、この場所まで下りてきていたのだ。
「あ、あのお……」
明日音がオズオズと口を開く一方で、友希の頭の中で恥ずかしさが一気に沸点にまで達した。
頭が沸騰し、顔がこれ以上ないほど上気する。身体が動かず、声も出ない。明日音が目の前の自分を“友希”だと認識していないとわかっているが、それでもこの格好で明日音の前に立つことは羞恥の極みだ。先ほどはジャンブルとの戦いを控えていたためうやむやだったその感情が、今は友希の全身をも支配しているのだ。
対する明日音は、一旦口を開きはしたものの何を言うべきか迷っているように俯いていた。よって友希の限界までテンパった様子は目に入っていないようだ。
このまま明日音が顔を上げる前にこの場を去りたい、そんな衝動に駆られる。しかし無視するのも気が引ける。
友希はそんな板挟みの結果として結局は身動きが取れないまま、明日音の方が先に顔を上げた。
「あの……どなたかは存じませんが……」
その口から紡がれ始めた言葉に友希の心臓は縮み上がった。
いかがわしい格好をした人物への疑念、そして不審者としての取扱い。明日音の口からそんな言葉が飛びだしてくるのではないかと戦慄した。
「本当に……」
「――っ!」
「ありがとうございました」
だが、そんな友希の妄想は取り越し苦労もいいところだった。
「…………へっ?」
「……ありがとうございました。助けてくれて、ジャンブルを追い払ってくれて。どんなに感謝しても……しきれません」
「…………」
明日音の澄みきった瞳が友希を映す。そこに込められていたのは、純粋な感謝の気持ちだった。
事前に最悪のシナリオを想像していた友希は、一瞬返す言葉に詰まった。しかし死に物狂いで失いかけた平静を取り戻し、明日音に応えた。
「いえ…………あなたの方こそ、無事でよかった」
明日音から返ってくる言葉はなかった。ただ、満面の笑顔が返ってくる。
その笑顔に、友希の胸は心地よく高鳴った。
「……それじゃあ、私はもう行くね」
「はい。本当にありがとうございました」
すれ違いざまに友希もまた笑顔を返し、大きく跳躍した。
疲労、恐怖、恥ずかしさ。直前までそれだけしかなかった友希の胸に、達成感とともに温かい安らぎが広がっていた。
***
「や〜お疲れお疲れ」
数分後、地下室に戻った友希をまずは綾乃が出迎えた。
「お帰りなさい。無事でよかったわ」
続いて歩からも声をかけられる。例によって表情一つ変えないが、その声音にはどこか安堵のようなもの滲んでいた。
「どう? 大丈夫だったでしょう?」
「……はい。すごいんですね、これ」
「そうでしょう! 存分に尊敬しなさい」
「は、はあ……それはそうと、これ、早く脱ぎたいんですけど……」
「え〜? もう少しいいじゃない、このままで」
「いえ、一刻も早く」
「む〜……はいはい、わかりました」
口を尖らせる綾乃にピシャリと言い放つ友希。そうすると綾乃は渋々といった風情で歩み寄ってくる。その様子は、こんな最新鋭の強化スーツをつくり上げた人物とはとても思えない。
すると今度は歩が口を開き始めた。
「お疲れ様。あなたには迷惑をかけてしまったわね」
「いえ、そんな……」
「本当に感謝しているわ。ありがとう」
歩はそう言って易々と腰を折った。
上級生であり生徒会長である歩が、入学したばかりの一年生に頭を下げたのだ。
「か、会長! 本当にそんな……大したことじゃないですから。顔を上げてください」
「いいえ、あなたは自分の危険を省みずジャンブルに立ち向かってくれたわ。そういう立場でないにもかかわらず。ジャンブルに対抗しなければならない立場である私たちが不甲斐ないばかりに招いてしまった状況を、あなたが打ち破ってくれた。これはどれだけ感謝してもし足りないことよ」
「あ、うぅ……」
歩はそう言って顔を上げない。ここまで言われては、これ以上口を出すことは野暮というものだろう。
よって友希はこの状況を甘んじて受け入れる。何より、歩の感謝の言葉は間違いなく嬉しかった。いたたまれない気持ちの一方で、確かな充足感が友希を包み込む。明日音の言葉を聞いた時と同じように。
「会長さ……っわ!?」
しかしこの場にいるもう一人の人物は、その充足感に浸らせてはくれなかった。
「な、何をしてるんですかっ!?」
「何って、脱ぐんでしょう? ジッパー下げてあげてるんじゃない」
こともなげに言いながら胸元のジッパーを下げようとする綾乃に、友希はとっさに身を引く。
「こんな所でしないでくださいっ! というか、前のジッパーくらい自分で下げれますから」
「まあまあそう言わずに。疲れてるでしょう?」
綾乃の手がワキワキと、妙にいやらしい手つきで動く。その動きに友希は身の危険を感じた。
「やっ……ちょっ…………止めてください……!」
「まあまあまあ……」
「間宮先生……!」
抵抗を試みる友希ではあったが、綾乃の手も巧妙にそれをすり抜ける。スーツの強力さを知って手加減しているとはいえ、その動きは本当にただの教師かと訝るほどだ。歩の制止も効果なし。
そうして――
「――あっ!」
軍配は綾乃の方に上がった。
「よしっ! 私の勝ちい!」
「――ひゃあっ! ……もう、どうしてこんなことするんですか……!」
友希は露わになりかけたたわわな胸元を両手でガードしながらうずくまる。そうして恨みがましい視線を綾乃に浴びせるが、少しも悪びれた様子はない。この教師はいつもこうなのだろうか。
「ちょっとおちゃめなスキンシップじゃない。このくらいで目くじら立ててるとモテないわよ」
「誰にですか、まったく……」
ぶちぶちと不満を呟く友希だったが、その頭にはしっかりと明日音の顔が浮かんでいた。モテない云々はさておくとして、こういったところで面白みがないのも問題なのだろうか、とも思ったりする。
が、ともかくいつまでも半脱ぎ状態では始末がつかない。友希は奥へ行って着替えようと立ち上がり、一歩踏み出した。
そんな時、異変は起こった。
「――うっ」
友希は、ブルリと一つ身震いをして足を止める。
「ん……?」
「どうしたの、羽谷川さん?」
その異変に綾乃と歩はそろって不審そうな視線を向けてきた。
しかしそれを気にしている余裕は今の友希にはなかった。
友希が着るには明らかに小さなサイズだったこの強化スーツ。ジッパーを下ろしたことによって圧迫から解放されたからだろうか、お腹の底から何かが込み上げてくるのを友希は確かに感じた。常にはないほど激しい運動をしたことや、胃を痛めそうなほどの緊張感も関係しているのかもしれない。
いや、そんなことはどうでもいい。
今重要なのは、目の前に迫る惨劇だ。
「…………」
「羽谷川……さん?」
「……………………」
「どうしたの羽谷川? 体調でも悪くなった?」
綾乃のその心配は当たっている。
友希は状況を伝えるべく、震える唇を必死に動かした。
「……………………吐きそう」
「――っ!」
「――なっ!?」
「…………うぷっ……」
その端的な一言が友希の口から紡がれて瞬間、歩たちの間に戦慄が奔った。綾乃はもちろん、あの歩ですら表情を一変させる。
友希はその一言を言ったきり口を両手で押さえて目を白黒させる。これ以上、少しでも口を開けば暴発は必至だった。
「も、もう少しだけガマンしていなさい! 早く何か……」
「ババババケツ!? いやゴミ袋!? ああどこにあったっけ……!」
危急の事態に慌てふためく歩たち。一方の友希になす術はなかった。ただじっと息を詰めて身を硬くし、ジャンブルと戦っていた時にも負けないくらいの気合いをもって込み上げてくるものを抑え込むのみだ。
しかし、心身ともに疲労した友希にとってその状態を維持することすら難しく――
「――うっ! ぷっ……!」
「待ちなさい! もう少し、もう少しだから……!」
「――ちょっ! まっ! たっ! やっ!」
最後の瞬間に友希の頭を過ったのは、昼休みに食べた弁当の中身だった。