第二話
「それじゃあ二人とも、せいぜい楽しんできなさいよ」
友希はそんな発言をした瑞穂を恐る恐る見やった。何やらご機嫌斜めだ。
「なんでそんないきなり刺々しくなってるかな……?」
続いてその目を明日音へ。いつも笑顔という印象のある明日音だが、今は胡乱げに目を細めている。
「時間が経つにつれて私だけのけ者なのに腹が立ってきたのよ」
「そんな勝手な……用事があるって言ったのは瑞穂ちゃんじゃない」
「でも……ねえ……」
放課後。その日の全ての授業を終えた教室は昼休みの時とはまた違った解放感に包まれていた。
そんな中、用事があるという瑞穂を見送ろうとその席までやって来た友希と明日音、しかしその瑞穂の様子が芳しくなかった。そんな瑞穂と、顔を突き合わせた明日音との間の空気が重さを増していくように感じる。さりとて口を挟めない友希はオロオロと二人を見比べるしかないという体たらくだ。
が――
「……………………ぷっ」
「……?」
「あっはははははは……! 冗談よ冗談、別に腹なんて立ててないって」
瑞穂は突然お腹を抱えて笑い出した。その目はいつの間にか明日音ではなく友希に向いていた。
「…………もう、瑞穂ちゃん……!」
「ごめんごめん。つい反応が面白くってさ。でもあんたも気づいてて乗ったでしょ?」
「それはまあ……」
明日音が悪戯っぽく微笑む。友希はそこに来てようやく、昼休みと同じようにからかわれたのだと悟った。しかも今度は明日音もグルだ。
「………………………………はあ〜」
友希は海よりも深いタメ息とともにガックリと肩を落とした。
「あぁ〜! ごめん、ごめんね!」
明日音はすかさずその肩を揉むような感じでご機嫌を取りにくる。しかし今回のダメージはかなりのものだ。生半可では立ち直れない。
「わかった! シュークリームおごってあげるから。それで許して! ね?」
「――!」
シュークリーム。
その世にも甘美な響きに友希はピクリと反応を示した。
友希とて乙女の端くれ、その名前を出されて胸を躍らせないわけにはいかない。
「……………………いいの?」
「もちろん! だから……ね?」
友希が受けたダメージは計り知れないものだった。生半可なことでは立ち直れないほど。
「……………………うん」
スイーツという力の偉大さをあらためて思い知る。
我がことながら安上がりだとは思う。だが、もちろんそれだけではない。
「それじゃあそういうことで」
友希が頷くと明日音はパアッと表情を明るくした。これだけでも自分を無理矢理立ち直らせるには十分だ。それにシュークリームが加わったとすれば重い気持ちなど遠く彼方へ吹き飛ぶというものだ。
「はいはい、私も今度なんかおごってあげるわよ。じゃあ私はそろそろ行くわ」
「あ、うん。気をつけてね」
「そんな危ない所に行く予定ないわよ。また明日」
「また……明日」
期せずして瑞穂とも後日の約束を取りつけ、この日は別れることとなった。廊下に出て瑞穂を見送ることしばし、その背中が見えなくなったのを確認すると友希と明日音は顔を見合わせた。
「私たちも行こっか」
「うん」
明日音とともに歩き出した友希は、胸の高鳴りを抑えることが出来なかった。
「それでどこ行こっか? ……って、シュークリームごちそうする約束だったんだよね。だとすると……」
「あ、私は……どこでも…………シュークリームじゃなくても、いいし……」
昇降口へ向かう道すがら、二人の話題はこれからのどこに寄り道するかだった。
この近辺で最もにぎわう市街地には通学路を少し外れれば行くことが出来る。学校帰りの寄り道としてはこの辺りが適当だろうが、しかしながらこの町に来てそれほど経っていない友希としては何がどこにあるかはよく把握していない。友達と寄り道していくようなスポットとなればなおさらだ。なので場所に関しては、地元民である明日音にお任せということになる。
「そう? ん〜……友希ちゃんって好き嫌いとかある?」
「あ……か、辛い物は、ちょっと…………それ以外なら、なんで……も……?」
「そっかあ……」
明日音は再び思案に暮れ始める。ぼんやりと宙を見つめながらもしっかりと足を前に出している辺りはなかなか器用だ。
が、友希はそれどころではなかった。
口をポカーンと空けて唖然とする友希。
何か、信じられない言葉を聞いたような気がしたのだ。
「あれ? 友希ちゃんどうしたの?」
それを見止めた明日音が何事かと問いかけてくる。その言葉で、先ほど友希が聞いた言葉もやはり聞き間違えではなかったと確信する。
「あの…………えっと……」
「ん?」
「今、その……私のこと…………“友希ちゃん”って……」
「あぁ……!」
ボソボソと蚊の鳴くような声でどうにかその心境を表す。
明日音は合点がいったように相槌を打った。
「友達だし、名前で呼ぶ方が普通じゃない? あ……名前で呼ばれるの、嫌だった?」
「そう…………じゃ、なくて……」
明日音としてはごく当たり前の考えなのだろうなんの気なしにそう聞いてくるが、友希にとってはそうではない。
友希は明日音の顔をまともに見れず、うつむく。
「嫌じゃない……んだけど、その…………そういう呼ばれ方、慣れなくて……びっくりして……」
家族以外の人間に名前で呼ばれるなど、果たして何年ぶりのことだろうか。それがとてつもなく恥ずかしいことのような気がして、友希はことさらに萎縮する。
しかし、明日音はそんな友希の様子など一切意に介することはなかった。
「なあんだ。それじゃあこれから慣れたらいいんじゃない?」
「え……?」
「私のことも名前で呼んでね」
「そそそそれは!?」
「だって、私だけ名前で呼ぶのは変じゃない?」
「そっ……うだけど……でも……」
「ほらほら、屋上でのことを奇跡じゃなくするんでしょ?」
「うぅ〜……」
友希は萎縮したり慌てたりまたヘコんだりと近年まれに見る忙しなさで表情を変えた。とはいえ、そんなことをしても何の解決にもならないことは目に見えている。
明日音はニコニコ微笑みながらこちらを見ている。逃げ場はない。
いや、そんなことを考えている自分自身がなんだか疎ましく思えてきた。
(…………この提案は、きっと私のためなんだよね)
明日音の言った通り、奇跡的に行われた屋上での会話を奇跡ではなくする。そのためにと、明日音は友達になってくれたのだ。
(ついさっき知り合ったも同然の私のために、ここまで考えてくれて……)
あるいはそれは明日音特有の気質なのかもしれないが、だとしても感謝しきれない想いだ。
(ここで逃げちゃったら私…………もう緒野さんのこと友達だなんて言えない)
そして、ほかの友達だってできるはずがない。
(そもそも、私はこういうことをしたかったはずじゃない……!)
そう決意して高校生活への準備を進めてきた、そのはずだ。
(……………………よしっ!)
以上のような長い物思いを友希は数秒の内に頭の中で繰り広げ、覚悟を決める。
こっそりと深呼吸、そして――
「あっ……………………明日、音…………ちゃん」
持てる勇気を総動員して明日音の名前を呼んだ。
途切れ途切れで視線も廊下に落とされていたが、確かに呼んだ。
しかしそれが限界だった友希は、そのまま顔を真っ赤にして硬直する。そこからどうしていいかわからない。しかも、明日音の方はいやに無反応だ。
しばしの間、廊下を歩く二人分の足音だけが聞こえてくる。このまま無言で家まで帰り着いてしまうのではないかと思えるほどだ。
(あ…………え……? うぅ……)
友希は思考すらままならず、しかしこのままでは埒が開かないという思いだけは確かにギギッギッと錆びついたボルトさながらのぎこちない動きで明日音の方を見た。
「――っ!?」
そんな友希を、先ほどよりさらに笑顔を深めた明日音が出迎えた。
そして――
「なあに? 友希ちゃん」
「――っっっ!」
明日音の甘い声が友希の耳から頭に入って炸裂した、ような気がした。
ともかく頭が弾け飛ぶような衝撃を受けた友希の意識を朦朧とし、耳まで赤く染まった顔からは蒸気が吹き出し、足元はフラフラで覚束ない。
「ゆ、友希ちゃん大丈夫!? やっぱり“友希ちゃん”って呼ぶのは早かったかな? それとも名前で呼ばせたのが…………ねえ友希ちゃんしっかりして! 友希ちゃん!」
そんな、脳にただならないダメージを負った友希を案じて明日音がその肩を揺さぶる。
思いのほか動転しているのだろう、ダメージの原因の一つである“友希ちゃん”を連呼しながら。その度に友希の頭は過熱していき、二次爆発も時間の問題だ。
「ゆ……」
「あなたたち、少しいいかしら?」
「え……?」
そうしてトドメの“友希ちゃん”が放たれようとしたその時、この状況においては場違いなほど涼しげな声が友希たちを呼び止めた。
同時に身震いするほどの冷気を感じた友希はにわかに正気を取り戻し、明日音とともに声のした方を振り向いた。
そこに立っていたのはいかにも知性的な細いフレームの眼鏡をかけた、その奥の瞳にそれに違わない知性的な輝きを宿した一人の女生徒だった。
「あ……こ、こんにちは」
「こんにちは。昼間は災難だったわね」
どこか見覚えのあるその相手に、明日音が先んじて挨拶をする。
女生徒は物腰柔らかに返してくるが、その表情は少しも崩れない。まるで石膏か何かで塗り固めているかのようだ。
「あ……明日音、ちゃん…………この人は?」
「見覚えない? この学校の生徒会長さんだよ」
「か、会長さん……?」
「うん。生徒会長の、桐沢歩先輩。昼休みに友希ちゃんに助けられたあと、ちょっとね」
どうやら知り合いであるらしい明日音に顔を寄せてこっそり尋ねてみると、そんな驚きの答えが返ってきた。その上で思い返してみると、なるほどあの顔を見たのは入学式の壇上だったように思える。普段はどんな相手にも物怖じしない明日音が珍しく緊張気味なのもうなずける。
さて問題は――
(顔、近い…………それにまた“友希ちゃん”って……)
自分でやっておきながら無駄にのぼせ上がる友希の桃色脳、ではなく――
「少し話がしたいんだけど、いいかしら?」
そんな生徒会長様が、友希たちに一体何の用があるのかということだ。
「話って…………私たちにですか?」
「いいえ、そちらの…………羽谷川さんに話があるの」
「私……ですか……!?」
「ええ。それで、しばらく時間をもらいたいんだけど……」
歩はあろうことか友希を名指ししてきた。友希は二度目の驚愕とともに我が身を省みる。
(生徒会長に呼び出されるなんて、そんな心当たり…………まずい、ある)
それこそ、昼休みのあの出来事。やましい行為ではないにしろ人目につくことに変わりはない。明日音の話によればその場に居合わせていたらしいので、あの場面から目撃していた可能性は高い。あの行動が、何か生徒会長様の琴線に触れてしまったのだろか。
そしてさらに、もう一つの問題が発生していることに気づいた。
「私……だけ、ですか?」
友希はすぐ隣に立つ明日音に視線を流す。
歩はすぐにそれを察したようにうなずく。
「ええ。あまりほかの生徒には聞かれたくない話だから、そちらの……えっと、あなたのお名前は?」
「あ、緒野明日音と言います」
「ありがとう。そちらの緒野さんには遠慮してもらいたいの」
やはり友希の懸念は当たった。つまりはここで明日音とはお別れだということだ。折角友達になって一緒に帰れるチャンス、それも夢にまで見た寄り道コースをふいにしなければならないのだ。いくら生徒会長の呼び出しとはいえ、果たして従うべきだろうか。
「…………」
友希は決断を下せないまま、気づけば浮かない表情でうつむきっ放しになっていた。歩も歩で無理やり引っ張って行こうという気はないらしく、黙って友希の返事を待っている。
「……行ってきなよ、友希ちゃん」
「えっ?」
そこへ一石を投じたのは、この場においては第三者である明日音だった。
「大事な用事みたいだし、行った方がいいよ」
「でも……せっかく……」
「大丈夫。ちゃんと終わるまで待っててあげるから」
「そんな……私の個人的な用事で待っててもらうなんて……」
「いいよ、どうせ私もヒマだし。一緒に帰りたいのは私も同じだしね」
「うぅ〜……」
正直、気が進まなかった。歩の話を聞くのも、明日音を待たせるのも。
だがここまで言われてその気遣いを無駄にするのは女がすたる。
「……………………うん、わかった」
散々迷ったあげく、友希はようやく首を縦に振った。
「助かるわ」
「それで、私は……」
「一緒に来て。話はそれからよ」
「はい…………なるべく、早く戻るから」
「うん。図書館で本でも読みながら待ってるよ」
友希は歩き出した歩のあとに続きながら、明日音に向かって小さく手を振った。
これでしばしの別れ、そう思うと急に物寂しくなり――
「すぐ! 終わったらもうすぐに行くからね!」
気づけば廊下中に響き渡るような声でそう叫んでいた。
明日音は、最後は苦笑いしながら見送ってくれた。
友希は、黙々と廊下を歩いた。
先を行く歩もまた、一言も口を聞かずに歩いている。真っ直ぐに伸びた背中や一定のリズムで響く靴音が、そのいかにも生真面目そうな気質を如実に物語っている。そんな歩の背中が友希の口を塞いでいたのだ。
そんなことを考えながら、やはり黙々と歩を進めていると――
「手間を取らせてごめんなさいね」
歩が唐突のその口を開いた。
「……いえ、構いません」
「ところで、一つ注意しておくことがあるわ」
「注意?」
「これから行く場所のこと、そこで話すこと、全て口外しないで欲しいの。これから話すことは……そうね、秘密の場所での内緒話と言ったところかしら」
「秘密の内緒話……ですか」
「そう。話を聞いてどうするか、それは強制しないわ。自分で決めて」
その言葉と同時に、歩は一つの扉の前で足を止めた。
「ここは……生徒会室?」
趣のある木製の扉の上に掲げられたプレートには確かにそう記されていた。もっとも、生徒会長が足を運ぶ場所としてはなんら不思議のない場所ではある。
「ええ。こっちよ」
歩はその扉を潜りながらなおも先に進んでいく。立派な机や応接用だろうソファーなどが並ぶ部屋の中で再び足を止めたそこには、壁の一面を埋めるようにしてそびえる大きな本棚があった。
歩は、そこにある本のいくつかを引き出してはまた戻しを繰り返し、そうして何冊目かの本を引き出したその時、ピピッという小さな電子音を皮切りに低く呻るような音が鳴り始めた。
「え……………………えぇっ……?」
すると見る見るうちに正面の本棚の一角が奥へ後退し、さらにはそれが持ち上がった。
そうして本棚の向こうから、大きな自動ドアが姿を現した。生徒会室の扉とは対照的な、機械的な重厚さを感じる扉だ。
「あの……これは……?」
「見ての通りよ。さっき私が言ったことの意味……少しは飲み込めたかしら?」
平然と言ってのける歩。一方で、友希の背中からは冷や汗が噴き出して止まらなかった。廊下を歩く間おぼろげに感じていた不安が、今では明確な形を成して友希の神経をすり減らす。
「ちなみに…………もし、このことをどこかで話したら……?」
「私からはなんとも言えないわね」
返ってきた曖昧な返事にかえって不安が加速する。聞かなければよかった即座に後悔するが、後悔先に立たずというのが世の常だ。
友希はことさらに表情を強張らせながら歩の次なる行動を見守る。
歩が自動ドアに設えられたパネルを何やら操作すると、音もなくその扉が開いた。そこにあったのは小さな個室、どうやらエレベータのようだ。
「さあ、どうぞ」
友希は歩に誘われるままエレベータに足を踏み入れた。扉が閉まり、一瞬の浮遊感とともにエレベータが下がり始める。階数表示などは見当たらないが、これは地階を通り越して地下へと向かう勢いだ。
そうして数秒後、チーンというありふれた音ともに目的に到達した。
再度開いた扉の向こうに広がっていた光景を見て、友希は我が目を疑った。
「…………!?」
そこは廊下だった。ただし地下とは思えないほど明るく、整然とした気配が漂う未来的な廊下だ。
遠い宇宙の果てを目指す宇宙船か、はたまた来たるべき脅威に備える秘密基地といった風情だ。
その第一印象が当たらずとも遠からずだったことを、友希はのちに知ることになる。
「ところで羽谷川さんは、ジャンブルについては聞いているわね?」
畳みかける起こった事態にフリーズしかかっている友希に対し、歩は質問を投げかけながら歩き出した。左右にはいくつもの扉が並んでいたが、歩の目的地はこのさらに奥のようだ。
「……はい、ある程度は。ナノマシンが周囲の物質を吸い寄せて生まれる怪物……ですよね」
「その通り。人間に対してそれほど害になるものではないけれど、平穏を乱す存在であることに変わりはないわ。にもかかわらず、この市に設置された対策部署の動きが鈍いことは知っている?」
「い、いえ……どうしてなんですか?」
「峯崎町を含むこの近辺がいわゆる研究学園都市で、ジャンブルを害獣としてではなく、研究対象として見ている節があるからよ。ジャンブルが現れても行動の観察や周辺データの計測を優先して、捕獲や処分はあと回しというケースが多いわね」
「気持ちはわからなくはないけれど」とくくった歩であったが、その背中から沸き立つ気配はどこか不機嫌そうだった。
「ただ……」
歩がそう続けたのと同時に、二人は一つの扉に突き当たった。エレベータの時と同じようにパネルを操作すると、その扉は音もなくスライドしていく。
そして――
「そういう人間ばかりじゃない、というのも確かよ」
扉を潜った友希はあんぐりと大口を開け、両目をこれでもかと見開いて愕然とした。
教室ほどの広さのその部屋でまず目を引いたのは、壁一面を占める巨大な映像ディスプレイだ。画面は細かくコマ分けされており、そこに映し出されていたのは学園内や町の風景。おそらくは監視カメラか何かの映像だろう。その正面にはコンピュータ端末が埋め込まれた大きなデスク。他の壁面にもそういったデスクが備えつけられており、いずれも普段友希たちが使うパソコンなどとは一味違う趣だ。
「武田さん、様子はどうかしら?」
「異常なしです会長」
歩が問いかけると中央のデスクに座っていた人物が即座に応じた。友希たちと同じ制服を着た彼女もまたこの学校の生徒のようだ。胸のリボンの色が違うので、おそらく二年生だろうか。
「あいつらはいつどこに出てくるかわからないわ。引き続きお願いね」
「了解です! ……それで、そっちの娘は?」
「新しい候補よ。正式に加入が決まったら紹介するわ」
歩たちがそんな会話をしている間も、友希は未だに状況を飲み込めないでいた。今自分の目の前に広がる光景、交わされる会話がとても自分の見知った世界のものとは思えない。
まさに、学園の地下深くに転がり落ちた友希の前に広がっていたのは見ず知らずの別世界、と言ったところだろうか。
「大丈夫?」
「――はえっ!? あぅ…………は、はい大丈夫……です」
いつまでも立ち直れない友希を見かねて歩が声をかけてくる。それでどうにか正気に戻りはしたが、未だに目の前の光景が信じられないという思いは変わらなかった。
「そう…………まあいいわ。ともかくこれが、私たち藤城学園生徒会のもう一つの顔よ」
そんな友希の状態をわからないはずないだろうが、それでも問題ないと判断したようで歩はそのまま話を続ける。ただ口を動かしながら、部屋の隅っこに積んであった椅子を一脚持ってきてくれた。歩自身は端末つきのデスクの後方に設えられた、こちらはなんの飾り気もないデスクの椅子に座る。
「もう一つ…………の、顔……? ですか?」
友希も椅子に座りながら聞き返す。
「ええ。学園と町に監視網を敷いてジャンブルの出現を一早く察知し、それを迅速に撃退する……それが私たちの役目よ」
「げ、撃退する……!?」
「小さなものとはいえ、ジャンブルによる被害と住民の不安は増す一方。そんな状況を憂えたこの学園の理事長が結成した秘密組織、それが私たち――アテナの園よ」
「秘密…………組織……?」
「学問を志す女生徒が市民を脅かす怪物と戦う……それをギリシャ神話の知恵と戦いの女神、アテナになぞらえたそうよ」
「はあ……」
歩の口から出た言葉に友希はまた仰天した。今日一日で、もう一生分は驚いたのではないだろうか。
だがわずかに残った友希の冷静な部分が、歩の台詞の中に気になる点を見つけた。
「あの、でも…………いいんですか? 監視カメラをこんなにたくさん。これって、プライバシーの侵害じゃあ……」
思い切ってそれを指摘してみた。が――
「バレなければ問題ないわ」
ものの見事に一蹴された。そのあまりにも堂々とした態度に思わず平伏したくなる。
「…………そ、それで……私には、一体……どんな、ご用で?」
「さっきも言った通り、私たちの役目はジャンブルの警戒と撃退。ただジャンブルも、普通の人間が相手にできるほど弱くはない。撃退するにはそれなりの装備と、それを扱う有能な人員が必要になるわ」
「そ……う、なんですか? それで、その方は?」
「いないわよ」
「へっ……?」
「現時点で唯一の戦闘要員は、先月から入院しているの。先輩たちは卒業してしまったし、今年入ってくる一年生に一人心当たりがあったのだけど、事情があってまだ学校に来られなくて……だから今の私たちの中には、ジャンブルを撃退できる人間が誰もいないのよ」
「誰……も……」
例によって歩は堂々と言ってのける。
だがそれを聞いた友希は不安しか湧いてこなかった。友希は青褪めた顔を歩に向ける。
「一人も…………ですか?」
「一人も…………よ」
しばしの沈黙が流れる間に友希は小刻みに震え出す。
歩の話から導き出される答えは一つ、友希にとっては最悪の答えのみだ。想像するだに恐ろしくて声も出ない。
その間隙をついて、歩がついにそれを口にしてしまった。
「あなたを、その戦闘要員として迎え入れたいのだけど……どうかしら?」
「――――――――!」
声なき叫びが友希の心に木霊する。
友希の頭は思考停止。歩は答えを待っている。二人を再びの沈黙が包む。唯一、歩に武田と呼ばれた女生徒だけが聞き耳を立てている気配がある。
そうすることしばし、友希は思考を取り戻す。
しかし――
「無理ぃいいいいいいいいいいいいーっ!」
今度はその口から実際に叫びが迸った。
「無理無理無理ですっ! そんなこと、私には絶対にできませんっ!」
椅子を蹴った友希は勢いよくあとずさり、しかしすぐに壁に突き当たる。
「そこをなんとかできないかしら? ほかの二人とも、まだ合流できる目途が立っていないの」
歩は友希があとずさった分即座に詰め寄ってくる。
追い詰められた友希に逃げ場はない。
「先日出現したジャンブルにも対処ができなかったわ。ジャンブルが大通りの街路樹の葉をむしり取ったという話、聞いてないかしら? ジャンブルはいつ出現するかわからない。また同じようなことが起きる前に、準備しておきたいの」
“強制しない”とは言っていたが、あくまで自分の意思を伝えることには余念がない。
「あ…………うぅ……」
友希はまた声が出せなくなる。今度は歩のその威圧感ゆえに。
「でも……………………やっぱり、私には……無理ですよ、そんなの」
「そうかしら? 私はそうは思わないわ」
「確かに……バカ力なのは認めますけど、私は本当にそれだけで…………こんな性格だし、戦うなんて……とても……」
「私は、あなたの力だけを見込んで選んだわけではないわ」
「えっ……? それって……」
「あの時あなたは、緒野さんを助けるためにとっさにその身を挺した。頭で考えたことではなく身体が自然と反応した、私にはそう見えたわ。そんなあなただからこそ、私は選んだ。生徒のために力を尽くす生徒会にふさわしいと思って」
思わぬ言葉に友希は戸惑う。
友希に対してそんなことを言ったのは、明日音に続いて二人目だ。
しかしその戸惑いも、歩の誘いに対する懊悩も、一瞬にしてかき消されてしまった。
「――えっ!?」
一際甲高い電子音が、室内に鳴り響いたからだ。
「どうしたの……!?」
「ジャンブルの反応がありました。これは……学園内!? 図書館の近くです!」
その報告を聞いた瞬間、友希はこの一日でもことさらに頭が真っ白になるのを感じた。
「通報と、校内放送での避難誘導をお願い。急いでね」
「了解しました」
にわかに緊張感が高まり、歩は即座に指示を下す。
しかし考えてみると、現状で打てる手はここまでではないだろうか。戦える人間がいなければジャンブルを撃退することはできないのだ。
「全校、避難を開始しました。放課後でしたし、生徒への被害は心配なさそうですね」
「……いいえ、図書館の中は映せるかしら?」
「中……ですか? わかりました」
「あの時確か……緒野さんは図書館で待っていると言ったわよね」
「は……はい」
「すぐに避難していてくれればいいけど……」
そうなのだ。図書館では明日音が友希の帰りを待ってくれている。こともあろうかジャンブルは、その図書館の近くに出現してしまったのだ。
「…………あっ! いました!」
モニターに図書館の中の様子が映し出される。そこには、確かに明日音の姿があった。今まさに立ち上がり、どこかへ移動しようとしているところのようだ。
逃げ出そうとしているようでホッとしかけたのも束の間、デスクに着いていた女生徒が声を上げた。
「――! だめよ、そっちに行っちゃ!」
「どうしたの?」
「あっちにあるのは出口じゃなくて窓です。しかも、そっちからジャンブルが来て……」
「――っ!?」
「なんですって……?」
理由はわからないが、明日音は逃げようとしていなかった。それどころかジャンブルが現れた方に向かっている。
「まずいわね。これまで人間が直接襲われた例はほとんどないけど……」
「も、もしかして……気が動転してて出口がわからないんじゃ……」
「それもありうるわね。羽谷川さん、緒野さんの携帯電話の番号は知らないの?」
「あっ……! まだ……聞いて、ません」
「そう…………仕方がないわね」
歩は言うなり踵を返し、部屋の出口へと向かって歩いていく。
「会長……!? どちらへ?」
「誰かが行くしかないでしょう? あなたはここで監視を続ける必要があるし、今日はほかに誰もいないわ」
「でも、危険ですよ!」
「あの娘も危険なのよ。私たちはそれを守るためにいる」
歩は頑として自分の意見を曲げようとしない。しかし歩の言う通り、ほかにいない。歩しかいないのだ。
(他にいない…………本当にそう……?)
友希は、あらためて自分がここに呼ばれた意味を考える。
(私が呼ばれたのは……それができるから)
できる。友希ならば。明日音を守ることが。
そして友希は、今日ようやくできた友達を守りたい。どうしても。
(それじゃあ、私は……)
その決心は、明日音の名前を呼ぶこととどっちが簡単だっただろうか。
「あの…………会長」
「あなたはここにいて。あなたはまだ……」
「いえ、私が行きます」
「えっ……?」
「私に…………行かせてください!」
***
「何……?」
突然の警報音にページをめくろうとした指が止まる。
友希を待つために図書館に入り、本を読み始めて十分経ったかどうかという頃だった。その警報音はなん前触れもなく鳴り響き、図書館内に緊張が奔る。
『学園内、図書館付近にジャンブルが現れました。付近の生徒は速やかに避難してください。繰り返します……』
続く放送がジャンブルの出現を告げる。周りの生徒はそれを聞くとすぐさま席を立って図書館から出て行った。あとに残ったのは明日音だけだった。
「ジャンブル……」
明日音は、逃げようとはしなかった。それよりもまず、気になることがあったからだ。
明日音は席を立って、出口ではなく手近な窓に駆け寄った。ジャンブルが出現した正確な場所はわからなかったが、とにかくその姿を確かめたかった。
そうして、明日音が窓を開け放った瞬間だった。
「――ひゃあっ!?」
得体の知れないものが、明日音が開いたその窓から踊り込んできたのだ。
「いたたた……」
驚いて尻もちをついた明日音は腰をさすりながらその何ものかを見た。
「うわっ、何これ……」
とはいえこの状況で、しかも二階の窓から入り込んでくるような人間がいるはずもない。
それはまるで、巨大な毛玉だった。
その直径は明日音の身長とほとんど変わらない。それが本棚の前でその巨体を揺らしている。間違いなくジャンブルだ。
そのジャンブルが次に取った行動は――
「――えぇっ!?」
毛を器用に操って本棚から本を抜き取り、大きく開いた口にそれを放り込むことだった。
「ちょっ……ちょっと止めて!」
その行為にストップをかけるべく、明日音は思わず飛び出した。理由は、そのジャンブルが陣取っている場所がなんの棚かということに気がついたからだ。
ジャンブルが次々と口にしている本、それは大ぶりの百科事典や辞書の類だったのだ。ジャンブルとしても食べる物は大きい方がいいのかは知らないが、ともかくそうこうしている内にジャンブルの胃の中に消えていった本の総額を考えると背筋が凍る想いだ。
(別に私が払うんじゃないんだけど……)
そうは思いつつも、明日音はどうにかしてジャンブルを止めようと毛を引っ張ったり力一杯押してみたりしたがびくともしない。
背の高さは同じぐらいでも、横幅は明日音の数倍はある。体重差は明白であり、人並み以下の腕力しかない明日音にはなす術もない。そのほか体当たりをしてみたりテコの原理に頼ってみたりお菓子で誘ってみたり、色々と試しては見たがすべて空振り、無駄な努力に終わった。唯一の収穫はそのジャンブルの毛がなかなかの肌触りだったということくらいだろう。
しかし、それでも明日音の行動がわずらわしかったのか――
「――きゃあっ!」
明日音はジャンブルの毛に絡め取られた上、放り投げられてしまった。落下地点に何もなかったのはよかったが、それでも痛いものは痛い。
「あたた……うわっひゃあっ!?」
身体を起こそうとしたところにさらなる追撃、明日音はマヌケな悲鳴とともに身をかがめた。
明日音の頭上をかすめたそれは盛大な音を立てて背後の本棚にぶつかって落ちた。見るとそれは大きな百科事典。どうやら手(毛?)にしていたその一冊を投げつけてきたようだ。
「あっ……ぶないなあもう……って、えぇ?」
悪態をつく余裕はあった明日音だったが、その背後でさらなる異変が発生する。
百科事典がぶつかった本棚が、前後に大きく揺れ動いている。
その揺れは収まるどころか、今にも倒れてきそうなほどだった。
「そっ……ちょっ……待っ……!?」
明日音がいる場所はギリギリ本棚の射程範囲内、しかもとっさのことで身体が動かない。
そして本棚は、不運にも明日音を目がけて倒れ込んできた。
「――っ!」
明日音にできたのは両手で頭を覆いながらうずくまることだけだった。
来たるべき痛みに備えて、歯を食い縛る。
が――
「……………………?」
痛みは、いつまで経っても襲ってはこなかった。
不思議に思って倒れてきていたはずの本棚を見上げてみる。
すると驚くべきことに、本棚は傾いた状態のまま静止していたのだ。
「あ……れ……?」
明日音は奇妙に思いながら徐々に視線を下げていく。
そこにはいた。
風変わりなスーツに身を包んだ人物が、明日音を救うために本棚を支えていたのだ。