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第一話

 「……………………はあ」

 友希は、賑やかな喧騒の中で密かにタメ息を吐いた。

 明るい気配に満ちた教室にあって重く沈んだ空気を背負った友希は、周りからは小さくしぼんで見えたかもしれない。人よりあらゆる意味で立派なその体格が、逆にそのもの悲しさを増大させている。

 午前中最後の授業を終えた教室は、昼休み特有の解放感に包まれていた。クラスメイト達は各々昼食を求めて動き出しているというそんな中で、友希は一人肩を落としてうつむいていたのだ。

 友希は横目にクラスメイトの様子を観察する。二つ隣の席に弁当を持った数人が集まり、そのまた向こうには連れ立って教室を出ていく一団も見て取れた。いずれにしても一人でいる生徒はおらず、二人以上のグループをつくってこの憩いのひと時を楽しんでいるようだ。

 それがとても羨ましい。

 「うう……………………はあ」

 クラスメイトを観察する視線にいじましい気持ちを織り交ぜながら、再度タメ息。

 友希には現在、あんな風に昼休みをともに過ごすクラスメイトはいない。つまり、友達と呼べる存在がいないのだ。

 友希は生来気が弱く、引っ込み思案で人見知りをしがちな性格だった。自分から周りに話しかけることもできず、話しかけられても上手く言葉を返せない。これまでまともに友達がいたこともないのだ。

 いつまでもそれではいけない、と一念発起したのは高校受験を考え始めた時だ。高校進学を期に引っ込み思案な自分を変えて、勇気を出して友達をつくるのだと。要するに、高校デビューを図ったのだ。

 あえて実家から遠く離れたこの学校を受験し、見ず知らずの土地での不安に満ちた独り暮らしを始めたのも自分を追い込むためだ。後頭部の真ん中でおさげを結わえてあるリボンも明るい赤色。制服のスカートも規定より短い。太ももの半分近くが露わになるこのスカート丈もまた友希の人生最大のチャレンジであり、そうして形からでも自分の気持ちを解放的にしよう、という目論見だ。

 が、現状は何も変わらない。そうまでして自分を追い込んでも、いざ誰かに話しかけるとなると途端に二の足を踏んでしまう。

 (ああ…………我ながら情けない)

 落ち込んでいても何も変わらない、そうわかっていながらそれしかできないものまた相変わらずの性格だ。入学してから一週間、周囲は早くもそれぞれお決まりの顔ぶれをつくりつつある。そうなればなおさらその中に入っていくのは難しくなり、ますます勇気を出せなくなってしまう。行動は早い方がいいというのにそれでも踏ん切りがつかない。

 そして今日もまた、“一緒に食べよう”の一言を言えないままに友希は席を立つ。手には自前の弁当、しかし賑やかなこの教室で一人寂しく食べる気にはなれず、屋上で昼食を取るのが習慣になってしまっていた。

 「そういえばまた出たんだってね、ジャンブル」

 「――!」

 そうして腰を浮かせた時、賑やかな一角から気になる単語が飛んできたのを友希は聞き逃さなかった。

 「ああ、うん……街路樹の葉っぱだけをひたすらむしり取る奴だっけ? 別にそれでどうってわけじゃないけど、迷惑は迷惑だよね」

 “迷惑”と口にする一方で、そのクラスメイトはコロコロと笑っていた。

 ジャンブル。

 それは“寄せ集め”という意味を持つ、この町にのみ出没する怪物の名前だった。入学式の日に通学路で見た“怪物注意”の看板、あれはこのジャンブルを指していたのだ。

 その存在について知らされたのは、まさにその入学式においてだった。

 曰く、八年前にとある科学者が開発したナノマシンが流出したのだそうだ。そしてそのナノマシンは周囲の物質を吸収しながら自己増殖し、ある特性を持った怪物へと成長する。

 壇上に立つ校長先生の口から語られたこの話は、友希のように外部から入学した生徒たちにとっては常識が覆されるほどド肝を抜かれるものだった。しかし元からこの町にいた者たちにとってそれはもはや常識らしく、大した実害がないということもあってある種の慣れとともに受け入れられているようだった。

 あの日の“まさか”が、まさかまさかの現実の話。友達をつくろうとして選んだ学校がそんな町にある学校だったのだから、我ながら不遇な星巡りだ。

 「……………………はあ」

 そんな自分に嫌気がさしつつ、友希はもう一度タメ息を吐いて教室を出た。


 所在なさげに廊下を歩く友希はやはり憂鬱だった。

 すっかり歩き慣れてしまった廊下には教室と同じく多くの生徒でごった返していた。皆一様に笑顔を浮かべて昼休みをともにしている。そんな周囲の生徒たちに羨ましげな視線を送りながら歩くのもまた相変わらずだ。

 そう、友希自身は中学までと何も変わっていない。

 だが自身を取り巻く環境を変えたのだから、何から何まで昔と同じではない。そうして変わったものの中には、わずかながら友希にとって嬉しいものもあった。

 (あ……)

 今しも、その一つが友希の目の前に現れた。

 短いツインテールを弾ませながら近づいてくる、一人の少女。

 「あ、羽谷川さん。今からお昼?」

 「う……うん。緒野さんも?」

 「うん、そうだったんだけど……お財布忘れちゃって。今から取りに戻るとこ」

 その少女の名前は緒野明日音(おのあすね)

 入学式の日に一緒に(と言うべきか微妙なところだが)校門を潜ったあの少女だ。なんという運命のいたずらか、友希とその明日音は同じ新入生で同じクラスだったのだ。明日音の方も友希のことを覚えていたらしく、教室で初めて声をかけてくれたのがこの明日音だった。以来顔を合わせれば一言二言交わす程度の仲ではあるのだが――

 「羽谷川さんって、いつもどこで食べてるの? 学食じゃ見かけないけど」

 「私は…………屋上、で」

 「ふーん、そうなんだ。あ、友達待たせてるから、また教室でね」

 「あ、う……うん」

 いつもその一言二言で終わってしまう。別に必ず屋上で食べなければならないわけではないのだから、このタイミングでこそ“一緒に”と申し出るべきなのにそれができない。

 その原因の一つは、今の友希の状態が物語っていた。

 (はあ〜……)

 友希は遠ざかっていく明日音の姿を見送りながら、ホッコリとした笑顔を浮かべていた。

 たったあれっぽっちの会話でも、友希は十分に満足してしまっているのだ。それが当初の高校デビュー計画を達成していないことは明らかなのに、これでもいいと思い始めている。なんとも意志薄弱ではないか。

 とはいえ、明日音とのやり取りがこの不安だらけの新生活において一種の清涼剤になっていることも確かだった。今はまだこの関係を崩したくない、とそう思う。

 「小さなことからコツコツと…………うん、そうだよね」

 友希はそう自分に言い聞かせる。実際には軟弱者の日和見主義的な考えだが、それを許容してしまう辺り、友希のこれまでの人生と現状も当然と言えるだろう。もちろん、コツコツと小さいことを積み重ねるばかりで先に進まないからこその現状だ。

 ――ガタンッ

 「……?」

 そんないつも通りの言い訳をしていた友希の耳に、聞き慣れない物音が届いた。

 音のした方を見てみると、その出所は廊下の壁だった。そこにかけられている大きな掲示板が不自然に傾いている。

 そのすぐそばを――

 「――!?」

 ちょうど明日音が通りかかろうとしていた。

 「緒野さんっ!」

 「えっ……?」

 思わず上げたその声はかえって事態を悪化させてしまった。友希の声に反応した明日音が、あろうことか掲示板の目の前で足と止めてしまったのだ。

 同時に、二度目の鈍い音とともに掲示板が完全に支えを失い、明日音目がけて倒れ込んできた。

 このタイミングでは叫んでも間に合わない。

 「――っ!」

 気づけば友希は思いきり廊下を蹴っていた。

 明日音の姿が急速に近づいてくる。

 「んっ……!」

 「――きゃあっ!?」

 友希はすかさずその身体を明日音と倒れてくる掲示板の間に割り込ませた。

 支えを失った掲示板を、代わりに友希がその背中と足で支える。

 「……………………」

 その友希を明日音が見上げていた。割り込んだ時に弾き飛ばしてしまったようで、その場にへたり込んでいる。

 問題は、その明日音がポカーンと大口を開けていたことだ。その様子を目撃した近く生徒たちも、同じように唖然として二人を見守っている。

 友希はハッとして今の自分の状態を思い返した。

 掲示板に潰されようとしていた明日音の側に瞬時に駆け寄り、それを簡単に支えて見せた。しかも友希に支えられた掲示板は空中でピタリと静止して揺らぎもしない。

 友希は今、自身の尋常ならざるバカ(ぢから)を明日音や周りの生徒たちに披露しているのだ。

 「あ……あ……ああ……」

 好奇の視線が四方八方から突き刺さり、友希はそれを理解した。途端に頭が茹で上がり、まとも働かなくなる。顔も真っ赤に紅潮する。

 その頭に浮かんできた考えはただ一つ――

 「あ……う……」

 この場から逃げ出したい、それだけだった。

 「あの、羽谷川さ……ひゃっ!?」

 友希は背負っていた掲示板をドスッ! とその場に下ろした。それをまた倒れて来ないように壁に立てかける。その程度の冷静さは、この時点ではまだあった。

 しかしそこからは冷静さも何もない。

 あと先のことなど考えず、ただこの場から遠ざかりたい一心で――

 「――あっ!」

 友希は一目散にその場をあとにした。

                       ***

 「…………」

 猛スピードで駆け去っていく友希を、明日音は呆然と見送った。

 それはまさに、嵐のような出来事だった。あまりにも唐突に通り過ぎて行ったために頭が追いつかず、明日音は未だに目を白黒させている。

 「大丈夫?」

 そんな明日音にそっと差し伸べられる手があった。いつまで経っても立ち上がろうとしない明日音を見かねたのだろう。

 「あ、ありがとうございます」

 その手を取って、明日音はようやく立ち上がった。そうしてあらためて手を差し伸べてくれた相手を見て、明日音は面を食らう。

 その相手の顔に見覚えがある一方で、こんな場所ではお目にかかれないだろうと思っていた人物だったからだ。

 「あなたは……」

 「災難だったわね。ケガはない?」

 「え……あ、はい、大丈夫です」

 それを確かめようとした言葉は相手にヤンワリと遮られた。感情に乏しい能面のような表情だが、眼鏡の奥の瞳には明日音の身を案じる気持ちがわずかに滲んでいるように思える。相変わらず不思議な人だ。

 「あとは私に任せてもらえるかしら。早くしないとお昼休みが終わってしまうわよ」

 「……そうですね。そうします」

 明日音は笑顔でうなずく。この人が“任せろ”と言うのはこの人がそういう立場だからだ。少し心苦しくはあるが、自分が手を出しても邪魔になるだけだろう。それに、その人の言葉で一つ思い出したこともある。

 (そういえば瑞穂ちゃんのこと待たせっ放しだった。早く行かないと……)

 つき合いの長いあの友達のことだからあまり待たせるとあとが怖い、と歩き出そうとしたその時だった。

 「あれ?」

 ふと廊下に転がっているある物が目に留まった。

 それが何かを理解した途端、頭の中で全てが繋がる。なぜそんなものが廊下に転がっているのか。

 「…………うん!」

 明日音はしばし悩んだ末にそれを拾い上げた。

 もう片方の手はポケットの中の携帯電話に伸び、早くも着信履歴から待ちぼうけを食っているだろう友達の名前を探し出していた。

                       ***

 「……………………はあぁ〜」

 気持ちよく晴れた空の下、屋上のベンチに座った友希は重いタメ息を吐いた。屋上では周りを気にする必要もないので教室にいる時よりも盛大だ。それで何が救われるわけでもないのだが。

 「また…………やっちゃったあ……」

 考えるのは先ほどの出来事だった。

 明日音を助けたことにはなんの後悔もない。しかしその助け方が問題なのだ。

 気弱で人見知り、そんな性格とは裏腹に友希にはある能力が天から与えられていた。ある意味でその立派な身体に似つかわしいバカ力がそうだ。加えて類稀な瞬発力。友希はこと身体能力に関しては、周囲が目を見張るほどのものを持っているのだ。

 だが、その“目を見張るほど”という点が友希にとっては余計なのだ。

 これまでにもその身体能力を披露する場はあったが、その反応は称賛よりも“思いっきり引かれる”と言う方が正しかっただろう。当然だ、独りでいることがほとんどで普段は言葉を発することも少ない友希が恐るべき身体能力を見せるのだ、その姿はあたかも珍獣の如し。そんな印象が元々の性格と相まって、なおさらに友希の周りから人を遠ざけてしまうのだ。

 「やっぱりダメなのかなあ……」

 そんな記憶を思い出せば、天を仰いでの嘆き節も出てくるというものだ。

 明日音は、この学校で始めて友達になれるかもしれなかった相手だ。そんな明日音にあのバカ力を見られてしまった。もはや頼みの綱は切れてしまったと言っていい。

 友希の計画はまたふりだし、しかしそこから再スタートを切る気力はしばらく湧いてきそうもない。

 「はあ……とりあえず、お弁当食べよう」

 その気力を少しでも補充すべく、友希は弁当箱に手を伸ばした。

 「あ、あれ?」

 しかし、目当ての物がどこにもない。手近な所を探してみても影も形もない。

 「あ……れえ……?」

 どれだけ探しても弁当箱は見当たらない。ならばと友希はこれまでの行動をよくよく思い返してみた。側にないということは、どこかに置いてきてしまったということだ。

 「教室を出る時は…………確かに持ってた。それから廊下で緒野さんと会って話してた時もあったし、そのあと…………あぁっ!」

 一つ一つの記憶を確かめていった結果、友希はようやく答えに辿り着いて声を上げた。

 明日音を助けた時に、無我夢中で手にしていた弁当箱を放り出してしまったのだ。その上明日音を助けたあとも逃げるようにその場を離れたので、弁当箱は廊下に置き去りのままだ。

 「は……ははは…………」

 友希はまたもや晴れ渡った天を仰ぐ。口から出てくるのはもはやタメ息ではなく乾いた笑いだけだった。

 普段からなんでも上手くいっているとは言えないが、今日の惨状は目も当てられない。高校デビュー計画再スタートどころか、生きる気力が根こそぎ奪われてしまった心地だ。

 「神様あ……私何か悪いことしましたかあ? …………それとも私のこと嫌いなんですかあ?」

 とりあえず、その恨みがましい気持ちを視線の先におわすのだろう神様にぶつける。だがもちろん、それで神様が哀れな子羊である友希を救ってくれたりはしない。そのくせバチだけはしっかり当てくれるのだから夢も希望もあったものではない。

 「ははははあ……………………はあ」

 そうして結局はタメ息に戻ってくる。

 そんなことをしている内に弁当箱を取りに行くなり購買にパンを買いに行くなりすればいいものを、足に力を込めるのも億劫だ。

 (もう……チャイムが鳴るまでこうしてよう)

 そう決め込んだ友希は、もう何もしたくないと言わんばかりにガックリとうなだれた。何やら意識も朦朧としてきて、昼休みの喧騒も遠くに感じられる。

 そんな時だった。

 「あ、いたいた」

 もはや死に体といった風情の友希の耳に、その声はっきりと届いた。

 「え? あ……え? 緒野…………さん?」

 勢いよく顔を上げて声をした方を見てみると、見知ったクラスメイトの姿があった。柔らかな微笑みを浮かべて、ゆっくりこちらに歩み寄ってくる。

 「どうして……こんな所に? お友達と食堂じゃあ……」

 「うん。でも今日は急用につき予定変更、ってところかな」

 「急用?」

 「はいこれ」

 そう言いながら、明日音はキョトンとしたユキの目の前に右手を差し出してきた。その手にあった物は友希にとってこの上なく見慣れた物、そして今の友希が何よりも必要としていた物だった。

 「これって私のお弁当…………急用ってもしかして、これを届けてくれるのが?」

 「それだけじゃないよ。さっき助けてくれたでしょ? そのお礼もまだ言ってなかったし……というわけで、さっきはありがとう。おかげでケガなかったし、助かったよ」

 「お礼なんてそん……な…………あっ!」

 嬉しい。弁当箱を届けるついででもあるとはいえ、わざわざお礼を言いに屋上まで追いかけてきてくれた。そのことが友希にとっては感動で涙が噴き出すくらい嬉しかった。

 が、感動で舞い上がりかけたその瞬間、同時に思い出した。今日まで周囲を引かせ続けてきたバカ力を、明日音にも見られてしまったということをだ。

 「…………」

 友希は思わず口を閉じて身を硬くした。

 明日音の続く一言で自分の高校生活の行く末が決まる、なんの根拠もなしそう思ったのだ。

 「ところで羽谷川さん……」

 「――っ!」

 そんな友希の心境を、明日音はもちろん知る由もない。これからの運命を占う構えの友希とは対照的に、明日音は世間話でもするかのように(実際、明日音にとっては世間話なのだろうが)口を開く。友希はその瞬間ことさらに身体を硬直させる。

 明日音の口から飛び出した、その運命の一言は――

 「すっごい力持ちだよね。なんかやってたの?」

 「へっ……?」

 そんな、なんということもない一言だった。

 覚悟をあまりにも下回ったその言葉に、友希は間抜けな声を上げたきり閉口してしまった。ただし、実際に口そのものはポカーンと半開きになっているが。

 「あれ……? 私、何か変なこと言ったかな?」

 「あ……ううん、そんなことない。ええと…………私は、特に何もしてないよ。なんていうか私……生まれつき身体が強いの」

 「へえ〜羨ましいなあ。部活とやらないの?」

 「部活は、あんまり向いてないっていうか……」

 「そうなんだ。もったいない…………あ、隣いいかな? 一緒に食べよう?」

 「ど、どうぞどうぞ……!」

 明日音の提案に友希はそそくさと身体をズラしてベンチを開けた。明日音はそこに座って嬉々としながら購買で買ってきたのだろう包みを開いた。そんな明日音を横目に見ながら友希も弁当を開いてつつき始める。

 その間中も、友希は不思議で仕方がなかった。

 今も明日音は、普段と変わらない様子でパンにかじりついている。友希のあんな姿を目の当たりにしたにもかかわらずだ。今まで友希のあのバカ力を見てこんな反応をした人はいなかった。友希にとっては嬉しい反応ではあるはずだが、同時に戸惑いもする。

 「ん……? 何?」

 「――!?」

 その視線に気づいた明日音がニッコリと笑う。凝視していたという後ろめたさ以上に、その不意討ちの笑顔があまりにも可愛く見えて友希は口に放り込んだ玉子焼を詰まらせそうになる。

 「う……ううん、なんでもない」

 “う”でどうにか玉子焼きを飲み込んだ友希は同時に動揺も飲み込む。

 が――

 「そう……? そういえば羽谷川さんって、なんで屋上でお昼ご飯食べてるの?」

 「えっ? あー……それは……」

 「もしかして眺めがいいから? ここからなら海もよく見えるし、晴れてたら気持ちいいよね」

 「いや……そうじゃなくて…………確かに、眺めはいいけど……」

 「あっ、それじゃあもしかして、独りの方がよかったとか? だとすると私って羽谷川さんの邪魔しちゃった?」

 「そ、そんなことない! 私なんかと一緒にお昼食べてくれて、嬉しい」

 「そう? それじゃあ……」

 明日音の口からは淀みなく次々と言葉が出てくる。それは明日音にとっては何ら特別なことではないのだろう。だが友希にとっては、親以外の人間とこれほど言葉を交わすことは年に一度あるかないかだ。友希は、明日音の問いかけにたどたどしく答えるのが精一杯だった。

 一方の明日音は友希が屋上にいることが本当に不思議がっているようで、二度に渡る不正解を言い渡されてからは宙に視線をさ迷わせながら答えを探している。

 (どうしよう……話しちゃおうかな……?)

 そうしなければきっと明日音の追及は昼休みが終わるまで続く。その間しどろもどろになりながら耐え忍ぶという選択肢もあるが、誰かがこれだけ話しかけてくれることなど滅多にない。何より、そんな明日音をかわし続けるのは失礼ではないだろうか。

 (よし……! 言おう!)

 今こそ、勇気の出しどころだ。

 「あの…………ね」

 「え……?」

 「言いにくいんだけど……実は…………教室に居辛くって」

 「居辛いってどうして…………はっ! まさかいじめとか……!?」

 またも明日音は勘違い。勘が鈍いのだろうか。

 「そうじゃなくて……私、人見知りで友達いないからその……周りを見ちゃうといたたまれなくて…………そのくせどこかの輪に入っていく勇気もなくて……」

 言いながらかなり情けないことを告白しているのではないか、それでまた明日音によろしくない印象を与えるのではないかということに気づく。そこで高校デビューを画策していたことに関しては言い止まる。

 だが一旦出た言葉を引っ込めることはできず――

 「その……私いつもこんな感じで、さっきみたいなバカ力見ちゃうとみんな引いちゃって……それで話しかけてくれる人もいなくなって……話しかけてくれても、まともに返せないことの方が多いし……」

 恥の上塗りをするかのごとき解説を苦し紛れにつけ加えてしまうのは、気が動転しているからだろう。

 それに気づいた友希は尻すぼみになった言葉尻のまま黙り込んだ。そうしてチラリと明日音の様子をうかがう。

 「そっかあ……でも今は普通に話せてるよ?」

 「う……ん。奇跡的に」

 「奇跡的に……なんだ」

 「かなり……」

 さらにテンパっていく心の内とは対照的に、言葉数はどんどん少なくなっていく。

 その様子を見た明日音は苦笑いを浮かべている。

 (やっぱり…………話さない方がよかったかな……?)

 明日音の表情を見ていると、そんな後ろ向きの思考が頭を過った。話した内容と話している時の自分を省みると、明日音はもう自分に話しかけてくれないのではないかと考えてしまうのだ。そういうネガティブ思考こそが友希の現状を生んでいるのだとわかっているのだが、どうにもできずにここまで来てしまった十五の春である。

 友希が、そんな風に自虐的に肩を落としていた時だった。

 「それじゃあ明日からは一緒に食べようか?」

 一瞬、何を言われたのかわからなかった。

 「…………………………………………えっ?」

 目をまん丸に見開いた友希は頭にハテナマークを大量に浮かべながら明日音を見つめた。

 「あれ、聞こえなかった? 明日から、お昼一緒に食べようって言ったんだけど……」

 明日音のその言葉は、二度目でようやく友希の脳へと浸透していった。

 しかしあまりにも思いがけなかったその言葉に二の句が継げない。

 その沈黙を拒絶と取ったのか、明日音の表情が不安げなものに変わる。

 「あ……えっと…………嫌、だった? 余計なお世話だったかな?」

 「そんなことない!」

 それが引き金となって友希の口から想いが迸った。

 「それより私なんかが一緒でいいの!? いい雰囲気をぶち壊しにしちゃうかもしれないし、周りからも変な目で見られちゃうかもしれないよ!? ううん! きっとそうなる!」

 迸ったのはとてつもなくネガティブな想いだったが、ともかく友希はそんな懸念を明日音にぶつけた。これまで様々な理由で友達ができなかった自分にそんなことを言ってくれることが信じられなかったのだ。

 「そうかなあ……?」

 明日音は平然とそれを受けて見せた。

 「今だって、別に変な雰囲気になってないよ?」

 「だから、それは奇跡のなせる業で……!」

 「今はそうだけど慣れれば奇跡じゃなくなるよ、きっと」

 「慣れればって……その間は?」

 「そのうち何とかなるんじゃないかな?」

 「周りの目とか……!」

 「羽谷川さんは、すごくいい娘だと思うよ? ちゃんと話せるようになれば、みんなわかってくれるよ」

 明日音はことごとく友希の不安を退ける。

 そのあまりの所業に、さすがの友希のネガティブ思考も在庫が切れ始める。

 「あ…………あんなバカ力、変じゃ……」

 「私はそれに助けられたんだよ? 全然変なんかじゃない」

 「えっと…………あの……」

 何も言えずに口をパクパクさせる友希を見て、明日音はまたニッコリと笑った。

 「そうだよ、羽谷川さんは私を助けてくれたんだよ? あんなとっさで身体が動くってことは、羽谷川さんがいい娘だっていう証拠だよ。そんな羽谷川さんを、誰も嫌ったりしないよ」

 「――っつ!」

 それが止めの一言になり、その無垢な笑顔とともに友希の胸を突いた。

 ネガティブ思考にはブレーキがかかり、代わりに夢の中にいるようなフワフワした感覚に捕われる。

 そして、顔が尋常でないほど熱を持つ。友希は自分の顔がありえないほど真っ赤になっていると直感し、それを隠すように俯いた。

 「い……いいの? 私なんかが混ざって……」

 「もちろん! 羽谷川さんさえよければいつでも」

 「っつ〜……!」

 その言葉は今の友希にとって、何よりも感動的に聞こえた。

 友希はその感動を明日音にばれないよううつむいたまま噛み締める。しかし頭の中ではリーン! ゴーン! と鐘が鳴り響き、紙吹雪が舞い、純白の鳩が乱れ飛んでいた。

 あまりはしゃぐとそれが原因でまた敬遠されるかもしれない、とも思った。

 が、友希の我慢も限界だった。

 「ありがとうっ!」

 「――うわあっ!?」

 溢れる感動を抑えきれなかった友希は、思わず明日音の両手を取ってズイッと詰め寄っていた。

 それでも明日音は――

 「…………うん、これからよろしくね」

 友希の勢いに驚いたようであったものの、すぐに笑顔を取り戻して頷いてくれた。

 春が来た。

 世間はとっくの昔に春だが、友希にもようやく心の春がやって来たのだ。

 「それはそれとして……ちょっと、痛いんだけど……手」

 「――うわあっ! ご、ごめんなさい!」

 前途多難、という気がしないでもないが。


 「ふうん…………それで、私が一人寂しく親子丼を食べてる間に親交を深めてきたと?」

 屋上から戻った友希と明日音を出迎えたのは、一人のクラスメイトの冷たい視線だった。

 大野瑞穂(おおのみずほ)。明日音の中学時代からの友達で、いつも昼食を共にしている相手だ。ただし今日は友希との一件があったために明日音が約束を取り止め、独りぼっちの昼食となった。それを非難する視線は当たり前だ。

 ただその視線は、春爛漫状態の友希の頭を一気に真冬にしてしまうほどの威力があった。そんな視線を受けた友希は当然のように萎縮しきってしまう。

 一方で――

 「うん!」

 明日音は満面の笑みでそれに答えた。

 「あ〜ん〜た〜は〜!」

 どんよりとした怒気を立ち昇らせながら、瑞穂はそんなノンキ極まりない明日音の頭をガシッと両手で鷲掴みにする。

 「それが人との約束をドタキャンした人間の態度!? 少しは悪びれなさい!」

 「――ひゃわわわわっ!」

 そうして明日音の頭を前後左右に激しく揺さぶった。

 明日音の悲鳴が教室にこだまする。その恐るべき仕打ちを、しかし友希は戦々恐々としながら見守るほかなかった。

 十秒ほどそうしていて少しは気が晴れたのか、瑞穂は明日音を解放してフンッと鼻を鳴らす。

 「はわあ〜」

 しばらくそうして目を回した明日音を睨みつけていた瑞穂だったが、今度はその視線を唐突に友希へと向けた。その視線には、まるで友希を刺し貫かんばかりの威圧感がこもっている。

 「――ひっ」

 友希は思わず短く叫んでおののいた。

 それでも瑞穂の視線はお構いなしに友希の心臓を圧迫してくる。それも、ひたすら無言で。それがなおのこと心臓に悪い。

 「み、瑞穂ちゃん……! 羽谷川さんは人見知りする娘なんだから、そんな風ににらんじゃだめだよ」

 いつの間にか復活した明日音が救いの手を差し伸べてくれるが、それでも瑞穂の眼力は少しも衰えない。情けないとわかっていても、友希は自分より小柄な明日音の背後に隠れようと肩をすぼめた。

 「ほら、怖がっちゃったじゃない。明日から一緒にお昼食べるって約束してるんだから、瑞穂ちゃんも快く迎え入れてよね」

 「へえ〜……私の意見はまるっきり無視?」

 「うっ、それは……」

 瑞穂の鋭い指摘に明日音は手もなくたじろいだ。瑞穂の視線の鋭さも増し、三人を重い空気が包み込む。

 友希はその身体をさらに縮こまらせながら、水風船並の強度しかない自分の心臓の限界を悟った。このプレッシャーに耐えられるような心臓ならば、友達をつくれないことに悩んだりはしない。

 明日音に対しては心苦しいし、何より残念ではあるが、ここは自分が身を引くのが最善策なのだ。

 「あ、あの……」

 そんな想いを今にも消え入りそうな声で切り出そうとした時――

 「私、やっぱり……」

 「まあいいけど」

 「――ってえぇっ!?」

 はっきりとした瑞穂の声がそれを掻き消した。

 そのあっけらかんとした答えに、友希と明日音はそろってずっこけそうになった。

 「み、瑞穂ちゃん……!」

 「私は私の知らないところで物事がトントン拍子に進んでたのには頭に来てるけど、ご飯仲間が増えるのは別に構わないわよ」

 サラリと言ってのける瑞穂はしてやったりと言わんばかりに笑う。対する明日音の方が、数秒前の瑞穂のように憎々しげな視線を送っていたが、瑞穂は平然とそれを受け止めていた。どうやらこの二人の関係は瑞穂の方が一枚も二枚も上手のようだ。

 そんな感想を思い浮かべていると、瑞穂が不意にその笑顔を友希に向けた。

 「そういえば羽谷川さん、この娘のこと助けてくれたんだよね?」

 「――へっ!? あ、いやその……偶然その場にいて……」

 「私からもお礼言っとくね。この娘の見た通りドン臭いから、結構危なっかしいのよね」

 「ちょっと瑞穂ちゃん! 見た通りって何? 第一私ドン臭くないよ!」

 「自分じゃ気づかないでしょうけど、明日音からはいっつもポヤヤ〜ンとしたオーラが迸ってんのよ」

 「だからって……!」

 「ドン臭くない人は、学食で人の波に流されておかず取れずに弾き出されたりしません」

 「むう〜……」

 明日音の恨みがましい視線が強まる。が、瑞穂はスルー。

 「ま、そういうわけだから、明日音ともどもよろしくね」

 「…………うん、よろしく」

 「声が小さい!」

 「――! よろしくお願いします!」

 勢いよく腰を折った友希は慌てて口を塞いだ。瑞穂は楽しそうにカラカラと笑っている。乗せられたと気づいた時にはあとの祭りだった。

 「あはははは……羽谷川さんって、結構面白いじゃない」

 「もう……! そういうことしちゃダメだって。あ、それでせっかくだから、今日の帰りにどっか寄ってこうかなって思ってるんだけど」

 「――えっ?」

 「あー……ごめん、今日は私用事があって一緒に帰れないのよ」

 「そうなんだ……残念」

 「二人で行ってきたら? お昼一緒にした仲なんだし、とりあえず私はいなくても平気でしょ?」

 「――えっ!?」

 「んー…………そうだね」

 「――えぇっ!?」

 「……って、さっきからなんなの?」

 「あ、いや……別に……」

 二人の会話が進むたびに驚きの声を上げていた友希にようやくツッコミが入った。友希はぎこちなく視線を逸らしながらも胸を躍らせる。

 当然、二人には友希が何にそれほど驚いているのか皆目見当もつかないだろう。しかし友希にとって、その内容は耳を疑うほどのものだったと言っていい。

 放課後に友達と一緒に寄り道をする。

 それは、友希が高校デビューを成功させた暁に是が非でも経験したかった重要イベントの一つだったのだ。

 放課後、友達と連れ立って学校を出る。周りには同じような友達連れが大勢いて、自分もその賑やかな風景の一部となって街を歩く。そうしてファーストフード店でも、喫茶店でもいい、ゆったりと腰を落ち着けて甘い物でも食べながらその日にあったことを楽しく語らうのだ。

 そんな夢にまで見たイベントが、友達ができた早々に舞い込んできたのだ。これが驚かずにいられようか

 (やっぱり友達ってすごい。友達って素晴らしい! 友達最高! …………だけど)

 思いがけない幸運にすっかり有頂天の友希だが、さりとてあまり手放しで喜べないことも事実だった。

 友希の計画ではこのイベントは、友達をつくってしばらく慣れてからの予定だったのだ。果たして今の友希に、しかも友達になりたての明日音と二人っきりで、無事にこの重要イベントを成し遂げることが出来るだろうか。下手をすれば、せっかく友達になれた明日音に見放される恐れだってある。

 (うぅ〜……それでも……)

 友希はチラリと明日音を見る。

 「それじゃあ放課後、一緒に帰ろう」

 (はあ〜……)

 明日音の笑顔を見ていると、そんな懸念はどこか遠くへと吹き飛んでいく。我ながら便利な頭だ。

 「楽しみだね」

 「…………うん」

 来たるべき放課後に想いを馳せて再び有頂天となった友希は、あまりにもまぶしい笑顔の明日音にコックリとうなずいた。

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