プロローグ
「ここを…………右……だよね」
ある、よく晴れた日の早朝、羽谷川友希は期待と緊張とが入り混じった複雑な心持ちで歩みを進めていた。
「ここは……真っ直ぐ……? …………うん、真っ直ぐ」
友希は同年代の間では長身の部類に入る立派なその身体を、今は頼りなさげに縮こまらせて地図を凝視する。そうして不安を感じながらも、間違いないと自分に言い聞かせるようにして足を前に出した。
町の名は峯崎町、目的地はこの町にある藤城学園女子高等学校だ。友希はこの春からその高校に通うことになった新一年生であり、今日はその第一日目にあたる入学式が執り行われる日なのだ。新しい学校、そして人生初の独り暮らし。そんな、これまでとは全く違う環境に不安が募っていくのも仕方のないことだ。
だがそれだけではない。友希はこの進学に際して、一つ胸に期するものがあった。それもまた、友希にとっては人生初の試みだ。上手くいくかは未知数だが、成就の暁にはバラ色の学園生活が待っている。そのための準備も抜かりはないはずだ。友希は間近に迫るその未来に胸を躍らせることで、新生活への不安をどうにかこうにか打ち消しているのだ。
「……? あれ……なんだろう?」
そんな友希が信号待ちをしていると、横断歩道の向こうに見慣れない看板が立っているのが見えた。
道路標識か何かのようにも見えるが、遠目に見えるその色や描かれている内容からその看板がどうにも見慣れない物のようだということがわかる。
やがて信号が青に変わり、友希は横断歩道を渡った。渡りきったところで、その看板をはっきりと視認することが出来た。が――
「…………?」
そこに描かれていたのは記号化された単純な絵だった。
道路標識などであればそれだけでも内容を把握することが出来るのだろうが、その看板に関しては何を意図したものなのか今一つ理解できなかった。ちなみにそれがどんな絵かというと、ズングリと膨れ上がったシルエットから伸びる二本の角と牙、ボサボサの毛、それはまるで――
「なんだろうこれ……? 鬼? ……っていうか、怪物……かな?」
それが注意を意味する三角形に囲まれ、黄色と黒に塗られていた。すなわち、怪物注意。その看板は一見したところ、そんな突拍子もない注意を促すものだったのだ。
「冗談…………だよね」
誰かの悪戯、あるいは町ぐるみの催し物か何かと考えるのが妥当だろうか。なかなか面白い町のようだ、とそう思ったのも束の間だった。
「…………」
学校への道を進むにつれ、似たような看板がそこかしこに見られるようになってきた。形も様々で、中には“多数出没中”などといった注意書きが加えられた物まである。
「……………………冗談……だよ、ね?」
笑い飛ばそうとしたものの、しかし失敗して笑顔が引きつった。
冗談だと頭で思っても、それにしては行き過ぎているようにも感じてならない。まさか本当に怪物が出るとは思わないが、ここまでやられるとその“まさか”が起こり得るのではないかいという思いも徐々に膨らんでくる。そんな想いで見る看板は先ほどまでとはまた違った威圧感を放ち、今にもそこに描かれた怪物が這い出してきそうだった。
今や、来たるべきバラ色生活への期待は消えてなくなり、この町で生活していくことへの不安ばかりが友希の胸を埋め尽くしていた。
「ううん、ダメダメ! こんなんじゃいつもと一緒になっちゃう。自分を変えるためにここに来たんでしょ!」
友希は大きく頭を振ってその不安を追い出す。何事も始めが肝心、不安に潰されてその第一歩からつまずくわけにはいかない。
そう、第一歩だ。
「あっ……」
看板を見かけ始めてからやや俯き気味に歩いていた友希の目に、道を横切る細いレールのようなものが映った。
弾かれたように顔を上げると――
「…………ここ、だあ」
そこには、目の覚めるような白亜の建造物が建っていた。山肌に沿う形でたたずむ様は、その巨大さと相まってまるでお城か宮殿のようだ。もちろん、パンフレットなどでその建物自体は見知っていた。だが入学試験は遠隔地で受けていたため、実際に目にするのはこれが初めてだった。
「想像以上におっきいなあ…………なんていうか、すごい威圧感」
友希は学校を見上げてそんな第一印象を抱いた。これから毎日通うことを考えると、少々気後れを感じてしまうほどだ。
ここでもまた挫けてしまいそうになる。
が、ふとあることを思い出して、友希は振り返った。
「ふわあっ……!」
その光景に一瞬目がくらむ。
振り返った友希の目に飛び込んできたのは、陽光を弾いて煌めく一面の海原だった。
「きれい……」
その光景に友希はうっとりと目を細めた。
友希が思い出しこと、それはパンフレットに載っていた学校の空撮写真だった。海岸線からすぐになだらかな山の斜面へとつながる地形、それによって生み出されたのが美しい海をバックにして山の中腹に校舎がそびえるという光景だ。そしてその写真は、友希がこの学校を受験することをあと押しした物でもあったのだ。
「……………………うん」
それを思い出した友希は、笑顔のまま小さく頷く。その胸からは、友希が必死になって追い出そうとした不安はもはやきれいさっぱり消えていた。
そうして友希は、晴れやかな気持ちで高校生活の記念すべき第一歩目を刻んだ。
その瞬間――
「おはようございます!」
「――えっ?」
その一歩と同時に校門を踏み越えて、一人の少女が友希のすぐ横を駆け抜けていった。何を急いでいるのか、同じ制服を身に着けた後姿は見る見る内に遠ざかっていく。
「あ、あの……おは……」
当然、今更口にしようとした返事が届くはずもない。
「ああ……」
遠ざかっていくその背中を見送って、友希はしばらくその場に立ち尽くした。
校門を一歩またいだその状態のままで。
「…………よし」
友希はまたも気落ちしかけたが、そのつま先を見て思い直す。
その一歩は、先ほどの少女とともに刻んだのだ。そう思うと妙に心が晴れてくる。景色の美しさも合わせて不安を相殺、気分は上々だ。
友希はさらにもう一歩、踏み出した。
いつか会えるかもしれない、あの少女に想いを馳せながら。