お付き合いにいたるまで8
着いた先はやはり生徒会室だった。
扉を開けた里中に続いて室内に入ると、響子の想像通り櫂が一人で待っていた。
「じゃあ」
「ああ、ありがとう」
里中は櫂に挨拶をすると、そのまま生徒会室を出た。
出る際に扉のところで立ち止まっていた響子は慌てて道を譲る。
余裕のない表情の響子を見て、可笑しそうに「またね」と出ていった。
扉が閉まって、改めて櫂の方へ顔を向けると、窓際にいた彼が響子の側まで移動していて、ドキっとした拍子に肩が大きく跳ねてしまった。
「あ、ごめんね。急に呼び出したりして。教室から来てもらうよりも目立たないかと思って」
にっこり笑う櫂の笑顔は極上で、2年間を費やした”櫂ウォッチャー”の響子としては、こんな間近で見たらさらに鼓動が速くなってしまう。
間近で見る王子様の迫力ってすごすぎるわ…。
冷静だったはずの響子の脳が熱を帯び出す。
やばい、落ち着け、と繰り返す響子の脳をクールダウンさせてくれたのは、以外にも櫂であった。
「昨日はごめんね、テンション高すぎてちょっと引いちゃったでしょ。あの後すごく反省したんだよね。響子さんの顔、ちょっと強張ってたし」
眉尻を下げてすまなそうにほほ笑む櫂の顔は、それはそれで素敵なのだが、その表情を見た瞬間、響子の脳を駆け巡っていた血が落ち着き、一瞬にして冷静になった。
なぜならそれは、櫂がファンに見せるいつもの仮面の表情で、響子にも十分見覚えのあるものだったからだ。
「ううん、大丈夫。気を使ってくれてありがとう。正直、助かったよ」
この櫂であれば、響子は十分対応できる。
いつも通りの知り合いのテンション。相手が櫂ということで、ちょっと綺麗な顔にドキドキはするけど、別にお互いに特別な気持ちの交流があるわけではない、他のクラスメートと交わすような、ありきたりな日常の場面。
それは響子に安堵をもたらしたが、心のどこかがヒヤリとした。
小さな、小さな氷の粒。
それを自覚しながらも、響子は無視して目の前の櫂に意識を向ける。
櫂の表情が一瞬揺らいだ気がしたが、本当に一瞬のことだったので、響子の見間違いかもしれない。
「よかった。時間がないから、単刀直入にいっちゃうけど、生徒会の臨時コアメンバーとして、響子さんに入ってもらいたいんだ」
「え?」
プライベートな話かと思い気を張っていた響子は、自分の体から空気の抜ける”プシュー”という音が聞こえてきそうな気がした。
ただの業務連絡なら、意味深に中里が出ていかなくてもよさそうなものである。
「これから球技大会と文化祭で忙しくなるんで、規約内にある臨時コアメンバーの追加事項を使いたいんだけど、先に響子さんの了解が欲しかったんだ。ぜひ力を貸してほしいんだけど、駄目かな?」
「えっと、どれくらい忙しくなるのかな・・・?」
響子は高校3年になってバイトを辞めている。しかし、それは受験勉強をするためで、はなから推薦入試は検討していないので、あまり時間を取られるのは好ましくない。
いつも学校のために時間を割いているコアメンバーには悪いと思うが、響子にとっては高校生活よりも将来を決める大きな要因である大学受験のほうが大事である。
「週3日ぐらいかな。玲香からバイトしてないって聞いたんだけど」
「うーん、…受験勉強しようと思ってたんだよね」
あまり乗り気でないのを感じたのか、櫂の表情が曇る。あまり断られることを考えてなかったようである。
「あ、でも1時間から2時間で進行状況確認したら、あとは仕事割り振ったメンバーが実際動いてくれたりするから、その後はみんな結構好きなことしてるし。帰る人もいるから…」
「1時間から2時間かぁ。じゃあ4時か5時ぐらいには学校出れるよね?」
「あ、うん。もちろん行事前はそうとも言えなくなるけど。なんか用事ある?」
「あ、いや、早い日なんかは図書館行ったりしてたから、あまり遅くなると寄れなくなるなぁって…」
頑張っている人を前にして、やはり歯切れの悪い言い訳めいたことを続けていると、だんだん罪悪感がわきあがってきた。櫂のがっかりしたような表情も追い打ちをかける。
なぜだか失望されたくない、という思いが強く湧いてきて、気付いた時には言っていた。
「あ、でも週3回ぐらいなら…大丈夫かも」
とたんに櫂の表情がぱあっと明るくなり、響子はもう前言を撤回できないことを知った。
「ありがとう。じゃあ、もう時間だから、これで。放課後ここに来てくれる?」
「うん、分かった・・・」
「じゃあ、一緒に出たらまずいだろうから、先に行ってね。僕は後5分ぐらいしたら戸締りして出るから」
櫂に送りだされた響子は、やっぱり業務連絡だったなぁと、昨日のテンションとの違いに、ほっとするやら、ちょっとがっかりするやら、複雑な気持ちで教室に向かった。
教室に戻ると、もうそんなに時間がなかったので、玲香に挨拶をしたが、なにか聞きたそうな玲香を「放課後に」となだめて席に着く。
内容が内容だけに、響子の性格を知っている玲香はこういう時は無理強いしない。放課後に追及されるのは免れないであろうが。
特に連絡事項などないホームルームをぼんやりと終えて授業が始まると、響子の思考は昨日からのことへと向かっていった。
なんだか、疲れたな…。
響子の正直な気持ちである。もともと櫂と両思いだったという事実に、ほのかな嬉しさはあっても、圧倒的に驚きと不安、そして自分の手に負えない事態になっている焦りが大きい。
ついでに、櫂の態度や言葉にいちいち上がり下がりする自分のテンションも疲労感を増大させる。こんなに気持ちが動くことは、響子の日常において感動物の漫画や小説を読んだ時ぐらいである。
響子は話に引き込まれてしまうたちなので、読んでる時は登場人物に感情移入して、泣いたり、笑ったり忙しいのだが、やはりそれは創られた話の中の疑似体験にすぎない。
本当に…リアル体験って勘弁してくださいって感じ。
なんか…もうどうでもよくなってきたな。いちいち感情が振り回されるのも、メンドクサイ。
自分の感情があまりに酷いことを自覚している響子は、心の中にも関わらず、小声で呟く。このまま真剣に今の状況について熟考すると、人づきあい全てが嫌になりそうな自分の性格をよく分かっている響子は、もうなにも考えずに状況に流されることを、決めた。
状況に流されることにして、考えることを止めた響子の気はとたんに楽になる。
放課後まで待てなかったらしい玲香と、人気のない教室を選んで二人でお弁当を食べる間、玲香の恋バナにもいつものノリで対応できる。
「いや~、なんか普通だったよね。エリーの連絡網発動しなかったのかなぁ」
「みたいだねぇ」
「なんか、もっとこうドラマチックなイベントがあるかと思って楽しみにしてきたのになぁ」
「うーん、でも生徒会長もそこは考えてくれたみたいよ?」
「へ?」
「うん?」
「あ、昨日あの後、櫂と話したの?何話した?知りたい!」
玲香が目をキラキラさせて身を乗り出してくる。
墓穴を掘りました。
「えっと、結局電話はしてないんだけど、今朝生徒会室でね」
「うぁ、密室…」
「いや、別にただの業務連絡だったけど?」
「は?」
「なんか、臨時のコアメンバーになって欲しいって。昨日の連絡、それだったんじゃないの?聞いてない?」
「聞いてないわ。なにそれ」
「え?玲香聞いてないの?…あれ?」
「何をするって?」
「いや、そこまで詳しい話してない。朝だったから時間なかったし。とりあえず放課後、生徒会室行くから、一緒に行こうよ」
「……ま、いっか。そんなことより、初デートいつよ?」
「は?」
「そういう話してないの?」
「うん、全く。……っていうか、昨日も私、返事してないし」
「え?」
「いや、なんか今朝の生徒会長のテンションみてたら、なんか”付き合う”の意味違ってるのかも?って」
「え、だって、その後の言葉からしたら、それ以外の意味なくない?」
「うーん、そうかなぁ。……“お互いに好きでよかったね、そうだね”お終い、とか?」
「…小学生じゃないんだからさぁ。っていうか今日の小学生ですらデートとかするよ?」
「うそ…。小学生でって、登下校じゃなくて、休みの日にわざわざってこと?」
「するって。うちらの時代と違うんだよ」
「……そっか。……しなくちゃ駄目なのかな?誘われたら、断っちゃいけないのかな?」
「……あんた…」
玲香が絶句する。響子のテンションがあまり高くないことに、ようやく気付いたようだ。
「うーん、私スケジュールが埋まってる状態って嫌いなんだよね。適度に空白に日がないとなぁ。ていうか、これから週3日も会うんだったら、デートする必要ないんじゃない?」
玲香は信じられないものを見るような目で響子を見る。
「いや、だって天下の生徒会長と並んで歩けるような服とか持ってないよ。恐れ多い。バーゲンでしか服を買えない女よ、ワタクシ」
他の観点から言い訳を試みる。
なんとか理解してもらえないものか・・・。
まあ、玲香のお付き合いの話はそれこそ沢山聞いてるし、難しいかもしれない。でもお付き合いの仕方って人それぞれだと思うし、玲香のようなドラマなデートなんて響子にはできない自信がある。
なんだか話せば話すほど墓穴を掘りそうな予感がした響子は、玲香に「でもほら、まだ一日しかたってないし、どうなるか様子みてみようよ、ね?」と誤魔化して、昼休みを切り上げたのだった。