臆病者の主張2
櫂と過ごす放課後の時間は、生徒会室に置いてある机の隅に二人で座って、思い思いのテキストを解く。
お互いに文系ではあるが、目指す大学や学部が違うので勉強する科目も内容も多少異なってくる。
学校の課題が出た時は里中と玲香も一緒に残り、同じクラスの櫂と里中、玲香と響子の二人組みで取り組むことが多い。とはいっても、それぞれ櫂と響子が残りの二人の手伝いをするようなパターンである。
里中と玲香は一人でこなすよりも、遥かに早く正確に終わるので、課題が出ると予定がない限りは残っていた。
カモフラージュとして協力してくれるとはいえ、彼らの時間を無闇に使わせてしまうのは心苦しいので、多少は二人の役に立っているという事実は響子の気持ち的にも正直助かる。
4人で居るときは、とても騒がしくなる生徒会室も、櫂と響子二人の時間は静かにゆっくりと流れていく。
特に言葉も交わさずに自分のペースで勉強をして、時間がくれば、先に響子が暇を告げて家に帰る。
櫂はその後、適当に時間をつぶしてから生徒会室を戸締りして帰るのだという。
響子は集中力はあるほうだと自負している。
正直、本を読んだり考え事をしている時に話しかけられても、全く聞こえないことも多い。玲香はそんな時遠慮なく響子の意識を引き戻すので、最近自分のそんな状態を自覚するようになった響子だが、もしかしたら過去、自分の態度が人を無視するように見えて誰かを傷つけたりしたことがなかったかと、ちょっとだけ心配になってしまった。
そんな集中力で勉強も始めると周りの動きや音が、全く響子の意識には入ってこなくなる。
櫂も同様らしく、勉強の切れ目にふと目を上げると真剣な表情で問題を解く櫂の顔が響子の目に飛び込んでくる。
本当にキレイだなぁ。
今まであまり至近距離で見る機会を持たなかった響子は、櫂の顔を見るたびに改めて思ってしまう。
櫂の意識がこちらに向いていないことをいいことに、まじまじと見てしまうことも多々あった。
櫂は恐らく平均的な日本人よりももっと強い黒をした髪をしている。日に当たっても茶色にならない真っ黒な髪。さらりとしたストレートの髪は、少し長めに襟足を掠めているが、他の男子が同じ髪型をしていたら、だらしないと感じるような長さでも、櫂がすると妙にかっこいい。
寝癖などはつけているのを見たことがないので、毎朝ちゃんと身だしなみを整えているのだろう。
寝癖を直すのも面倒で、ちょっとでも寝癖があるとすぐに髪を結んで誤魔化してしまう響子とは大違いだ。
櫂の瞳も黒い。そして、普通の人よりも黒目が大きいのではないかと思う。濃くて長い睫に、右の目元にある泣き黒子。きめの細かい肌は、髭の気配など微塵も感じさせない。
神様はなぜ、世の中の女の子達が喉から手が出るほど欲しいパーツを男子に与えるのだろうか。
正直、あまりに美人な顔に響子の女性としての自信は日々打ちのめされるばかりである。
響子はあまり化粧をしたり髪型に凝ったりするタイプではないけれど、普通に可愛くなりたいという願望は持っている。
ただ、彼女の分析好きな正確が、櫂のパーツと自分のそれをいちいち冷静に見比べて比較してしまい、必要以上のダメージを作り出すのだ。
想像の中で櫂と並ぶ自分があまりに不釣合いに映り、思った以上にがっかりしたりもする。
響子は客観的な思いで、櫂とカップルにするならこんな人、などという想像上のキャラクターを創り出して楽しんだりしたこともあったので、その自分の理想と自分自身を比較しなければならない状態に、くじけそうである。
美しいが、それでも櫂の整った顔は、女性には全く見えない。
男性を感じさせるのに、美しい。
ちょっとたれた眦が、櫂の表情をやわらかくして見せて、本当に王子様そのものである。
性格やら人生哲学やら、全く他の条件を勘案せずに容姿だけの好みを論じるのであれば、響子は非常にメンクイだと自覚がある。
芸能人やらアイドルやら、特定の誰かの熱烈なファンというわけではないのだが、それでも好ましいと思うのは、綺麗な整った顔立ちの正統派美形が多い。
ワイルド系やら、癒し系やらいろいろメディアが命名して、様々な価値観を創作しようと模索しているが、やはり正統派の美形にはかなわないと思う。
その情報が響子に及ぼす影響は皆無であるから、本人の性格が悪かろうが、ゲイの噂があろうが、全く気にならない。
やはり眺めるのならば、美しいものがいいと素直に思うのだ。
つまり、櫂の容姿は響子の好みのど真ん中なのだ。
が。
ブラウン管を通したり、10メートル以上もの距離から眺めたりするのと、1メートルもない距離で自分の側にいるのとでは、全く状況が違ってくる。
迫力があるというか、眩しいというか…とにかくなにやら「美」という見えないものが力を持って響子に迫ってくるのだ。
・・・あ。
しまった、と響子は慌てて眼を逸らす。
櫂が顔を上げた拍子に、視線が合ってしまったのだ。どうやら櫂も勉強がキリのいいところになったらしく、別のテキストに移るらしい。
今までは細心の注意を払って、そういった気配を察すると勉強へと戻ることにしていたのだが、櫂の顔を見ながら、ぼんやりとしていたらしい。
完全に視線が合ったのは、時間にして1秒ぐらいだろう。
響子の頭に血が上る。顔が真っ赤になっているのが分かる。
耳がドクドクいう血管の音で満たされる。
この状況をどうしたらいいのだろうか。
頭に血の上った状態で、完全にパニックになった響子は、完全にフリーズ状態だ。
視線は反射的に逸らしたものの、顔や身体、手は櫂の方向を向いたまま固まってしまう。
「勉強、終わったの?」
響子が何も言えない状況なのが分かったのだろうか、櫂が沈黙を破ってくれる。
顔が見られないので、確かではないが、声が多少の笑いを含んでいるような気がするのは、響子の気のせいなのだろうか。
「ううん、次は何を勉強しようかなーなんて、考えてた」
視線を逸らしたまま、嘘をつく。
素直に櫂の顔に見とれていましたなどと、言うような可愛らしい性格はしていない。
本来であれば、響子は嘘をつくのはかなり上手いほうだ。
視線を合わせて真顔で嘘をついたり、全く心当たりが無い振りをして興味を示さなかったり、いろいろな工作をして弟達に対しての絶対権力を作り上げてきたし。
大人たち相手に、礼儀正しい子供として振る舞い点数を稼いできたり。
やっかいそうなクラスメートに、自分は無害なのだとさりげなく伝えたり。
様々な状況をコントロールして生きてきた自負がある。
それなのに、櫂が相手だと調子が狂う。
第一、自分の顔はこんなにも色を変えるものだったのかというぐらい、赤面している気がする。
過去2年間の、顔見知り程度の関係であれば、いくら櫂相手であっても大丈夫だったのだ。
事実、生徒会で臨時メンバーとしてまれに関わった際も、櫂にも回りにも櫂への好意を悟らせなかったし、露ほどの興味も見せなかった。
響子の精神を不安定にさせるのは「両想いで付き合っている男女」であるという設定が二人の間にあるという事実である。
それを無視できるほど、響子は能天気な性格でもなければ、なにも考えない性格でもない。
むしろ必要以上に考えてしまう性格だと、胸を張って言える。
櫂に自分の「恋心」というものを認定されてなければ、あの告白だって展開が違っていたはずだし、普通の自分の気持ちを尋ねてくれるような告白であったとすれば、特に想ってもいなかった相手から好意をうける多少の困惑の演技とともに、お断りの台詞を上手に言えたはずである。
あまり興味を惹かれていないフリは、響子の得意技の一つだ。
あからさまに嘘をついている響子のそぶりに、櫂は多少の懸念をにじませて、聞いてきた。
「・・・こういう時間は、迷惑だったかな。普通の学校生活で二人きりになるのは状況的に難しいから、放課後に二人で過ごせるのはすごく嬉しいんだけど。無理させてた?」
櫂の懸念の表情が、だんだんと深刻さを増していく。
台詞自体は状況打破の為に利用できそうな内容であるのに、その表情を見てしまうと響子は「もう少し会う頻度を減らそうか」などとは言えなくなってしまう。
ちなみに、櫂の表情はちらちらと目線を泳がせる間に盗み見ている響子である。もちろん視線が合うのが怖くて目は見れないので、口元やらおでこやら、耳やら、とにかく確認できるパーツからの情報を総合的に判断して、櫂の顔色を読んでいる。はっきり言って響子にとっては非常に難しいスキルだ。櫂の表情が深刻になったと思ったが、正確に判断できている自信はない。
ただ、沈んでいく声のトーンから、間違ってはいないと、思う。
その状況にひたすら焦る響子は、先日とことん自分の心の中でした反省会の内容を全く活かしきれない行動に出た。
つまり。
「ううん。そんなことない。一人でやるより勉強がはかどるから、むしろありがたい、みたいな。うん、本当に受験勉強はかどってるよ。櫂くんと一緒にいっぱい勉強したら、志望校、楽勝かもね。図書館の学習室より居心地がいいなんて、びっくり」
櫂の落ち込んでいる空気をそのままにはしておけず、フォローを全力で行ったのだ。
冷静な響子の一部は、あわてて口走る自分の台詞を聞きながら、なんだかデジャヴを感じる展開だな、と冷や汗をかいていたのだが。
口にした言葉は回収することなどできず。
「よかった。実は休日も一緒にいれたら嬉しいな、と考えてたんだよね。たぶん響子さんが気に入ってくれる場所があるから、ぜひ明日デートしようよ。あ、もちろんちゃんと対策は練ってあるから安心してね。勉強、土日も頑張ろうね」
櫂が笑顔になって、響子に告げた。
その笑顔が、櫂のオーラを2倍増しにしている。
つまりは、迫力2倍増しだ。
響子はもちろん目など合わせられないが、その事実を誤魔化すために自分も目を細めて笑顔を作り、コクコクと頷いていた。
自分の危機的状況をさらに悪化させていることは理解していたが、それよりもなによりも、今この状況をなんとかしたかった、というのが本音である。
もちろん、なんとかいつも通り生徒会室を一人で出た瞬間から、初デートに対する自分の中の葛藤やら、「なにを着ていけばいいのー」という乙女な悩みやら、櫂の笑顔が自分の心に与える影響力についての考察やら様々な思考が頭をぐるぐると駆け巡っていたのは、言うまでもない。