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ホームセンターでのアルバイトにも、人間関係にもほんの少しだけ慣れてきた頃、店長に他店への応援に行ってほしいと頼まれた。場所的にも遠くなかったし、断ることが出来ないぼくはすぐに返事をしてしまったら、明日から一週間と告げられ、途端に鼓動が乱れだした。
ただでさえ、対人関係が苦手なのに、明日から全く知らない職場で働くことを考え出したら、不安だけが高まって、その日一日中仕事が手につかなくなってしまい、自宅に戻ってからも、夕飯に食べたものも味が分からず、観ていたテレビも上の空で、怖くて逃げ出したい思いにぼくの心は支配されていた。
これは、ずっと子供の頃からあった症状で、どうあがいても克服できなかったものの一つでもあった。
この状態になると、もう恐怖だけが広がり、職場でミスをする自分、人間関係に失敗して嫌われたり、いじめにあったりする自分しか想像できなくなってしまう。
恐怖のあまり、死んでしまうことまで考える思考に達すると、やや救われる自分を感じる。死ぬことまで辿り着くと、心が少しだけ落ち着ける自分は間違いなくまともな考え方をしていないと、今のぼくならどうにか客観視出来るまでにはなっていたけど、この襲いかかる恐怖を鎮める方法はまだ知らない。
これまで通りに眠れないと分かっていながらも布団に入り、何度も寝返りを打ちながら朝が来るまで恐怖に耐えるしかなかった。
死んだら明日行かなくていい。そう思うときだけわずかに心が緩むのを感じながら、こんな人生ならもう本当に死んでしまった方がましな気がする。そうなると、自殺の方法を考えなければならない。
首つりは無理だ。そんな度胸ない。いまから電車に、と思ったが体が動かないし、もう電車も走ってない時間帯だから無理だ。硫化水素はここにはない。
そんな風にして、どうやっても無理という結論に向かうのも、本当は死にたくないからだというのも、ぼく自身認めていた。ぼくはずるい人間だ。そのことも長い時間をかけて理解した。だから結局明日初めての職場へ行くしかない現実も本当は心の隅で認めていた。
明日職場が火事になったり、ぼくが通勤途中で怪我したり、やっぱり行かなくていいと連絡が来たりなんてことがあり得ないことも、悔しいけど知っている。
でも、怖い。どうしても知らない場所へ向い、知らない人達と働くのは怖かった。誰か、この症状を治す方法を知っているなら教えてほしいと、心の底から叫び訴えたかった。
知らないから恐怖に脅えるしかないんだ。方法さえ分かれば自分で解決するための努力は惜しまない覚悟はある――。
その瞬間以前に誰かが言っていた台詞が頭の中に浮かんできた。自分は世界の主役ではない、という類の言葉が、どうして今浮かんできたのかは分からないけど、その通りだと、今なら納得できる。
ぼくなんかどうでもいいのだ。誰もぼくに期待などしてはいない。応援に行くといっても、ぼくが重要な仕事を任されるわけではない。今までのように、アルバイトとしての仕事をこなすだけだろう。
それなのに、プレッシャーを過度に抱え、ミスすることを恐れている。それも異常なまでに。
ぼくは世界の主役ではない。ぼく一人の判断が地球の未来を左右するなんてことはあり得ない。ぼくはせいぜい自分という人間の主人公でしかないのだ。自分の人生の主人公――。
それも困りものだな、とまたふさぎ込む。この間の役者達みたいに、役を演じるわけではない。ぼくの人生は現実だから、あらかじめ場面にふさわしい台詞が用意されているわけではないし、先の展開を知っているわけでもない。
だから、この自分の人生の主役という考え方はぼくには馴染まなかった。そういえばずっと前にもこうやって現実から逃げる自分を説得しようとしたことを思い出した。
そうだった。これは失敗した思考だった。気づけばもう朝の五時だった。あと一時間で眠るなんて無理だと分かっていても、ぼくは布団から離れようとはしなかった。ずっとこの場にしがみついていたかった。