検品令嬢はヒロインにはなりません。
いつもよりドライな作品です。
アイリス・シュタインは、目を覚ました瞬間に理解した。
――ああ、私、転生したんだ。
それは雷に打たれたような衝撃ではなく、異物が正しい棚に収まるような、奇妙に静かな確信だった。
貧相な天蓋付きのベッド。軋む床。窓から見えるのは、手入れの行き届いていない庭。
ここは間違いなく、前世の自分が暮らしていた世界ではない。
そして同時に、思い出した。
前世の自分――四十歳。製薬会社の品質管理部門に勤め、原料から製品まで、すべてに「合格」「不合格」の判断を下す仕事をしていた。
誰からも感謝されないが、誰よりも厳密でなければならない仕事。
最後の記憶は、横断歩道。
赤信号。
そして――。
「……交通事故、だったわね」
アイリスは小さく息を吐いた。
今世の自分は、貧乏男爵家シュタイン家の令嬢。まだ学校にも入学していない年齢だが、ここが乙女ゲームの世界であり、自分が“正規ヒロイン”であることも、なぜかはっきりと理解していた。
そして理解した瞬間、即座に結論を出す。
(――不合格)
理由は明確だ。
本来のヒロインと中身が違う。
そんな状態で王子の隣に立つ資格はない。
王妃? 冗談じゃない。責任と政治と社交の塊なんて、品質管理の比じゃないストレスだ。
「アルベルト・ロセッティ王子……あなたにとって今の私は不合格。」
そう呟き、アイリスは心の中で自分自身に『不合格』タグを貼り付けた。
*
王子と出会わないための行動指針は、三つ。
一、学校では目立たない。
二、貧乏令嬢らしく、社交界に出ない。
三、婚約イベントが起こりそうな場所には近づかない。
完璧な計画だった。
その一方で、現実的な問題がある。
――シュタイン家は、貧乏だ。
「このままだと、数年後には屋敷を売るらしいわよ」
使用人のひそひそ話を聞いた時、アイリスは静かに頷いた。
(じゃあ、稼がないと)
前世で培った知識は、この世界では異端だった。
病気は「神罰」か「体液の乱れ」。治療は祈りか民間療法。
例えば、高熱の場合は「氷水に浸した布で全身を叩き、魔を追い出す」。
咳が酷い場合は「乾燥したカエルの肺を粉末にして、ワインで流し込む」
前世の知識からすればとんでもない対処療法。
それにワインなんて子供には毒でしかない。
薬という概念はあっても、成分や用量、再現性という発想がない。
だからこそ。
(需要はある。私が品質を保証できる“薬”が作れれば)
入学までの五年間。
アイリスは、ヒロインとしての魅力を磨く代わりに、抽出した液体の沈殿物と対話し、温度計を自作し、液体の透過率を記録し続けた。
「お嬢様、また夜通し……そんなにお勉強がお好きなんて、将来はきっと素晴らしいお妃様に……」
「黙って。私は今、この試薬の安定性を確認しているの。妃の仕事より、一貫した品質の方がよほど崇高だわ、暇ならあなたも手伝ってよ。」
アイリスは、自分の肌が薬草の蒸気で少し荒れたことも、美容的な観点ではなく「実験環境の不備」として処理した。
そして、彼女が作り上げた「容量用法を守ればよく効く解熱剤」は、
やがて貧乏男爵家の家計を支えるどころか、
噂を呼び、本来出会うはずのない「私にとって危険な王子様」の耳に届くことになる。
*
私の趣味と実益を兼ねた「金儲け」の研究は、期待以上の成果を上げた。
解熱剤、咳止め、うがい薬、そして携帯に便利なドロップ状ののど飴。
自室の片隅で始まった小さな検品作業は、今や量産のための小さな工場と専用の販売店を持つまでに拡大し、傾きかけていたシュタイン男爵家を文字通り「再建」させた。
家計のV字回復。供給ラインの安定。
一連のタスクを完了させた私は、来週に迫った貴族学校への入学を前に、安堵の溜息をつく。
(よし。これで学費の心配はないし、ヒロインとしての貧乏属性も排除できたわ)
卒業までの三年間、私のミッションは明確だ。
一、王子アルベルトには決して接触せず、イベントを発生させないこと。
二、そして、私と「互換性」のある婚約者を見つけること。
私が求めるのは、燃えるような恋などではない。
適切な距離感を保ち、互いの領域を侵さず、不測の事態にも冷静に対処できる、一貫した品質を保てる殿方。
……そう、例えるなら、年中無休で正確に稼働する「優秀な管理職」のようなパートナーが理想だ。
(さすがに理想が高すぎるかしら。。。贅沢は言わない。せめて『感情で論理を上書きしない人』がいい。)
「お嬢様、入学の準備が整いました。……あの、最近街で噂になっている『黒い外套の公爵様』が、お嬢様の作ったのど飴を買い占めているという話はご存知ですか?」
使用人の言葉を、特に気にせず
「ただのバルク買い(まとめ買い)でしょう。在庫は十分にあるから問題ないわ」
予定通り、準備は整った。
私は自作のスケジュール帳に、入学式のタイムスケジュールを細かく書き込む。
だが、この時の私はまだ知らなかった。
私が「素敵な婚約者」に求めていた『優秀な管理能力』と私には無縁の『執着心』を、最悪な形で兼ね備えた男が、私の工場に目をつけているということを。
私の考えて考え抜いた計画は、入学初日の朝、校門をくぐるよりも先に「不合格」を突きつけられることになる。
*
(――誰よ、この座席表を承認したの)
私の席は、新入生代表であるアルベルト王子の真後ろだった。
本来、貧乏男爵家シュタインの席次はもっと末席、出口に近い「避難しやすい場所」であるべきだ。
それが、なぜよりによってメインステージ正面の特等席に据えられているのか。
(本来の順番じゃない。……誰かが、意図的に手を入れた)
私は無表情を装いながら、脳内チェックシートの「安全確保」の項目に、迷いなくバツ印をつけた。
だが、事態はそれだけでは終わらなかった。
背後から、凍てつくようでいて、どこか熱を帯びた「視線」の圧力を感じたのだ。
恐る恐る振り返る。
そこには、黒い制服を完璧に着こなしたエリオット・ヴァレンタイン公爵が、頬杖をつきながらこちらを見下ろしていた。
(……なぜ、わざわざ私に?
私は目立ちたくないって、散々――)
「公爵様」
声を潜めて声をかける。
「私の席ですが……配置、間違っていませんか?」
エリオットは一瞬だけ目を細め、それから即答した。
「いや、妥当な配置だよ。君の家が納めた寄付金――つまり、薬の収益の一部だね。その金額と、現在の学園への貢献度を照らし合わせれば、君がこの席に座ることに何ら不備はない」
彼は楽しげに続ける。
「学園側が、出資者に対して正当な敬意を払った。それだけのことだ」
「……計算上は、そうなるかもしれませんけれど」
私は一拍置いて、言葉を選んだ。
「私が求めたのは、保護ではありません。背景に溶け込む権利です。目立ちたくないんです」
だが、公爵はあっさりと首を振った。
「残念だが、君のような特級品を背景に配置するようなセンスは、僕にはないね」
……やはり、会話が噛み合わない。
(……この人にだけ、薬の卸しを止めてやろうかしら)
彼は私の合理性を理解したうえで、それをさらに大きな「独占」という枠組みで上書きしようとしている。
その時、壇上にアルベルト王子が登壇した。
陽光を反射する金髪。慈愛に満ちた微笑。
周囲の令嬢たちが一斉に息を呑む中、私は冷静に手元の時計へと視線を落とした。
(所作の美しさは綺麗だけど、やっぱり今の私には不釣り合い……)
私は王子のスピーチを聞き流しながら、チェックシートの裏面に「緊急脱出ルート」を書き込み始めた。
予定では、式の終了と同時に人混みに紛れ、そのまま図書館の閉架書庫へ隠れるはずだった。
しかし、スピーチが終わる直前。
王子がこちらを向いて、誰にでもなく、けれど確信を持って微笑んだ。
「――今年の新入生には、私の命を救ってくれた『薬』の作り手がいると聞いている。後ほど、ゆっくりと礼を言わせてほしい」
会場がざわめく。
私の「目立たない」という第一指針が、王子の無自覚な一言によって木っ端微塵に粉砕された。
(終わった……完全に終わった……!)
白目を剥きそうになる私の肩を、後ろからエリオットの冷たい手が押さえた。
「王子が来る前に、手を貸してあげようか?」
壇上には光害のような王子。
後ろには死神のような公爵。
私が夢見た「優秀な管理職」との平穏な婚約者ライフは、入学初日の午前十時十五分、完全に「回収不能な不良債権」と化した。
*
「王子が来る前に、手を貸してあげようか?」
その声に、反射的に頷いてしまった。
――それが本日最大の判断ミスだった。
エリオットは迷いのない足取りで、人混みを避けるように私を導いた。辿り着いたのは、校舎裏にひっそり残された古い温室だ。今は使われていないらしく、ガラス越しの陽光が、埃の舞う室内を静かに照らしている。
「ここなら、王子の視線も届かない。……少しは落ち着いたかい、アイリス」
「……はい。助かりました。ありがとうございます、エリオット様」
壁に背を預け、乱れた呼吸を整える。
エリオット・ヴァレンタイン公爵。
彼は、私の薬の“安定性”にいち早く目をつけ、高値での取引を持ちかけてきた数少ない人物だ。
(論理が通じる。話が早い。
……だから、ビジネスパートナーとしては「合格」だと思っていたのに)
「それにしても、王子の発言は想定外だったね」
エリオットは温室の棚に置かれた、手入れされていない植物の葉に指先を滑らせながら言う。
「君の薬が公になれば、もう“表に出ない作り手”ではいられない」
「……ええ。私の“目立たない計画”は、完全に破綻しました」
肩を落とした私に、エリオットは一歩、距離を詰めてくる。
「アイリス。以前、君は僕に頼んだね。寄付の仲介をしてほしい、と」
「確実な手続きを求めただけです。それが何か?」
「あの時、確信したんだ」
彼が振り返る。
商談の場で見る冷静な目とは違う、熱を帯びた視線だった。
「君は、自分の価値を“成果”でしか測っていない。……だが、僕にとっては違う」
(……嫌な予感)
「君の才能が、王家の思惑に使われるのは我慢ならない。だから提案しよう」
エリオットは私のすぐ隣に立ち、逃げ道を塞ぐように壁に手をついた。
「学園にいる間、僕が君の盾になる。君は研究だけに集中すればいい」
「……それは、契約の話ですか?」
「いいや」
即答だった。
「個人的な話だ。君を、他人に渡す気はない」
「君が欲しいのは、邪魔されない時間だろう? なら、僕のそばにいるのが一番効率的だ」
彼は楽しそうに微笑む。
温室の外が、わずかに騒がしくなる。
誰かが、興奮した声で話しているのが聞こえた。
「――王子が、薬の作り手を探してるらしいぞ」
その一言で、背筋が冷える。
エリオットは、まるで最初から分かっていたかのように微笑んだ。
「だったら選ぶといい。僕の庇護下で、静かに生きるか。それとも、王家に見つかって振り回されるか」
(……どちらも、私の望んだ未来じゃない)
私は目を閉じた。
逃げたかっただけなのに。
目立たず、研究して、静かに生きたかっただけなのに。
学園生活初日。
私はもう、自分の意思だけでは動けない場所に立たされていた。
*
(――選択肢が二つしかない、なんて誰が決めたのかしら)
私は目を閉じたまま、深く息を吸った。
思考を感情から切り離す。
前世で何度もやってきた作業だ。
条件整理。
・王子アルベルト
→ 王家の思惑、政治利用、可視性100%。
→ 研究環境としては未知。
・エリオット・ヴァレンタイン
→ 保護は強固、管理能力は一級品。
→ ただし「私の意思」が仕様書に含まれていない。
(どちらも、仕様不適合だ)
私は静かに目を開けた。
「……エリオット様」
「何かな?」
彼は余裕のある笑みを崩さない。
私が追い詰められていると、完全に理解している顔だ。
「あなたの提案、合理的です。
ですが――前提条件が一つ、抜けています」
「ほう?」
私は一歩、彼から距離を取った。
温室の壁から離れ、自分の立ち位置を確保する。
「私は“庇護される対象”としての契約を、一度も望んでいません」
エリオットの目が、わずかに細くなる。
「私が欲しいのは盾ではなく、裁量権です」
「……つまり?」
「対等な取引です」
私は、はっきりと言い切った。
「学園在学中、私は王家ともあなたとも、専属契約を結ばない
ただし――」
指を一本立てる。
「研究成果は、条件付きで提供します」
「条件?」
「一、研究内容と進捗は私の判断でのみ公開
二、製造・販売・流通に関しては、あなたが管理責任を負う
三、私の身辺に干渉しない。――婚約も、感情も、含めて」
一瞬、沈黙。
温室のガラス越しに、誰かの足音が近づいては遠ざかる。
エリオットは――
初めて、即答しなかった。
「……それはつまり」
彼はゆっくりと口角を上げる。
「君が、自分自身を“最高機密の研究者”として扱え、と言っているわけだ」
「ええ。
私の価値は、私が一番正確に把握していますから」
(感情評価:不要
成果評価:可)
エリオットは小さく笑った。
「はは……本当に厄介だな、君は」
彼は顎に手を当て、しばらく考え込む。
「王家に対する牽制としては、これ以上ない条件だ
君を囲えば囲うほど、君は逃げる
手放せば、王子に取られる可能性がある」
(正解です)
「……分かった」
その言葉に、私はわずかに目を見開いた。
「その契約、受けよう
だが一つだけ、こちらの条件を足そう」
「何ですか?」
彼は一歩近づき、しかし今度は逃げ道を塞がない位置で立ち止まった。
「君が自分を“不合格品”だと思っているその評価
――それを覆す権利は、僕に残してもらう」
私は一瞬、言葉に詰まった。
*
正直に言おう。
――混乱している。
入学式の壇上から見えた彼女、アイリス・シュタイン。
噂の「命を救った薬」の作り手。
控えめな装い、華美でない佇まい。
だが、視線の置き方、背筋の角度、周囲との距離の取り方。
(……この人、妙に落ち着いている)
貧乏男爵家の令嬢だと聞いていた。
もっと緊張し、怯え、あるいは期待に目を輝かせていると思っていたのに。
違った。
彼女は、壇上の私よりも、会場全体を“俯瞰”していた。
だからだろうか。
思わず、スピーチの中で名前も出さずに触れてしまった。
――礼を言わせてほしい、と。
善意だった。
純粋な感謝だった。
彼女の作った薬がなければ、あの冬を越せなかったのは事実だ。
だが。
式が終わった後、彼女はどこにもいなかった。
「……いない?」
控室に戻る途中、何人もの令嬢に呼び止められた。
微笑み、言葉を交わし、祝辞を受け取る。
けれど、頭の片隅にあったのは、
壇上から一瞬だけ見えた、白くなりかけた彼女の顔だった。
(体調が悪かったのだろうか)
心配になった。
それだけだった。
少なくとも、その時点では。
「王子殿下」
側近が声を落として言う。
「薬の作り手ですが……エリオット・ヴァレンタイン公爵と共に、校舎裏へ向かったとのことです」
「……公爵と?」
胸の奥に、わずかな棘のような感覚が生まれる。
(なぜ、彼と?)
エリオットは有能だ。
だが、同時に――油断ならない男でもある。
「追おう」
「殿下、式後のご挨拶が――」
「後でいい」
気が急いていた。
理由は、まだ自分でも言語化できていなかった。
校舎裏。
使われていない温室。
扉の前に立った時、聞こえてきたのは――
低く、落ち着いた、交渉の声だった。
どうやら、エリオットと専属契約を結ぶらしい。
彼もまた、彼女の研究内容の有用性を正しく理解しているようだった。
王家としても当然、その研究には関心がある。
……だが今は、それよりも。
(なぜだ。研究よりも、彼女自身が気になって仕方ない)
どうやら専属契約を結んだだけのようだ。
婚約の話は、断られたらしい。
――ということは。
(まだ、決まったわけではない)
彼女は、誰のものにもなっていない。
王家にも、公爵にも。
ならば、今日は一旦引いて出直そう。
(私にも、まだ選択肢は残されているはずだ)
それが「善意」なのか、「好奇心」なのか、
それとももっと別の感情なのか。
この時の私は、
まだ正確に区別できていなかった。
*
翌日から、私は「普通」に過ごすつもりだった。
朝は決められた時間に起き、授業を受け、空き時間は図書館。
昼食は混雑を避け、人気のない席で済ませる。
放課後は研究棟の資料室へ直行。
誰とも、必要以上に関わらない。
――完璧なスケジュールだった。
それが崩れたのは、二限目と三限目の間。
廊下の人通りが一瞬、途切れた時だった。
「アイリス嬢」
呼ばれて、足を止める。
聞き覚えのある声。
振り返ると、アルベルト王子がそこにいた。
側近を一人だけ連れ、距離を保って立っている。
(……廊下での接触。最悪)
「おはようございます、殿下」
一礼。
視線は合わせない。
王子は、少し間を置いてから切り出した。
「改めて、話す時間をもらえないだろうか」
アルベルト王子のまっすぐな瞳。
私は心の中でため息をつき、どうやって角を立てずに「ノー」を突きつけるか、
脳内の論理回路をフル回転させた。
「……申し訳ございません、殿下。次の講義まで残り五分を切っております。ですので、その――」
「五分あれば、私の感謝を伝えるには十分だ。それとも、私との会話は講義よりも価値が低いだろうか?」
王子の微笑みは、どこまでも無垢で残酷だ。
前世の取引先だったら「お言葉ですが、価値の基準が定量的ではありません」と即座に突っぱねるところだが、相手はこの国の第一継承者。力ずくで排除すれば、男爵家という私の大切な「生産拠点」が危機に陥る。
逃げ場がない。 そう確信し、私が一歩後退した時だった。
「――殿下。廊下で令嬢を引き止めるのは、少々マナーに欠けるのではありませんか?」
背後から、凍てつくような、けれどどこか聞き慣れた落ち着いた声がした。
振り返るまでもない。
私の契約相手、エリオット・ヴァレンタイン公爵だ。
彼は音もなく二人の間に割り込むと、私の肩に手を置く一歩手前で止まり、王子に対して優雅に、けれど冷徹に一礼した。
「エリオット……。君こそ、授業はどうしたんだ」
アルベルト王子がわずかに眉をひそめる。
エリオットは涼しい顔で、私の持っている教科書をチラリと見た。
「私は彼女の『研究管理責任者』ですから。彼女のスケジュールが滞ることは、私との契約違反に繋がる。……アイリス、三限目は移動教室のはずだ。このままでは開始時間に間に合わない。あとは私が引き受けるから、君は先に行きなさい」
「……あ」
これだ。 この、感情を一切挟まない、事務的かつ合理的な介入。
私が求めていた「優秀な管理職」の動きそのものだ。
「ありがとうございます。……では殿下、失礼いたします。閣下、後はお願いいたします」
私は王子の返事を待たずに、事務的な一礼をしてその場を駆け出した。
背後で王子が何か言いかけた気配がしたが、エリオットがそれを巧みな言葉で遮るのが聞こえた。
(……判定、公爵の介入によるリスク回避。成功)
助かった。 やはりエリオット・ヴァレンタインは、私の事をよく理解している。
「感情」ではなく「契約」で動く彼は、この混沌とした学園生活において、最も信頼に値する「盾」だった。
……ただ、一つ。 走り去る直前、背中で感じたエリオットの視線が、昨日温室で言っていた「君の評価を覆す権利」という不穏な一言を孕んでいたような気がして少しゾッとした。
(……ふぅ。セーフだわ)
角を曲がり、王子と距離が離れてから、私はようやく一つ息を吐いた。
手元の時計を確認する。三限目開始まで残り三分。
早歩きを維持すれば、一分三十秒の余裕を持って着席できる計算だ。
「……やっぱり優秀、公爵閣下」
あのタイミングでの介入。
そして、私に言い訳の余地を与えつつ、王子を「マナー」という論理で縛り付けた手腕。
前世の職場で言えば、無理難題を言ってくる役員から部下を鮮やかに守り抜く、理想のプロジェクトマネージャーそのものだった。
(あの人と『中立の契約』を結んだ判断は、我ながら合格ね)
予定通り。 すべては管理下にある。 私は安堵し、三限目の領地経営の教室のドアを開けた。
*
私が向かったのは、校舎の屋上へ続く階段の踊り場。
事前のロケハンで見つけた、人通りがほぼゼロ、かつ風通しが良い最高のスポットだ。
「よし。ここならランチタイムの安全は確保できるわ」
私は手作りの持参した質素なサンドイッチを広げた。
ふかふかのパン。
適量な塩分。
一定の厚み。
これこそが私の求めていた「一貫性のある平穏」だ。
しかし、その平穏は、わずか三口目で「物理的な光」によって打ち砕かれた。
「――アイリス嬢。こんなところにいたのか」
階段の下から現れたのは、もはや私の人生の不法侵入者と化したアルベルト王子だった。 彼はなぜか、豪華な装飾が施された重箱を抱えている。
「……殿下。なぜ、ここを特定できたのですか?」
「君の髪から、ほのかに薬草の香りがしたからね。それを辿ってきた」
(判定:野生の嗅覚。……あるいは、ストーカー……)
「君が食堂に来ないから心配したんだ。さあ、一緒に食べよう。我が家のシェフに、君の体の滋養になるものを特別に作らせたんだ」
王子が重箱を開ける。
そこには、金箔が散らされたローストビーフや、見たこともない宝石のようなマリネが詰まっていた。
「お気持ちだけ頂戴します、殿下。私は自分の食事で十分ですので」
「遠慮しなくていい。君はもっと大切にされるべきなんだ。君の才能、君の献身、そして……」
王子がぐいっと距離を詰め、私の手を取ろうとしたその時。
カツ、カツ、と。 硬く、冷徹な靴音が踊り場に響いた。
「――殿下。王族が、許可なく学園の備品(踊り場)を私物化するのは感心しませんね」
階段の上から見下ろしていたのは、エリオットだった。 いつの間に先回りしていたのか、彼は手すりに寄りかかり、手にはなぜか私が工場で使っているものと同じ「検品用クリップボード」が握られている。
「また君か、エリオット。私は彼女と食事を……」
「彼女の午後のスケジュールは、私との新薬の臨床データ確認(ただの雑談)で埋まっています。
殿下の『贅沢すぎる配給品』を摂取して、彼女の消化器官に負担をかけるわけにはいかない」
エリオットは階段を降りてくると、私のサンドイッチをそっと取り上げ、中身を確認した。
「アイリス、僕が用意した『栄養学に基づいた完璧なランチ』に切り替えなさい」
(お前も持ってきたんかい!)
右からロイヤルな重箱、左から公爵家の機能性弁当。
挟まれた私は、手に持っていた最後の一切れのサンドイッチを、虚無の目で見つめる。
「……あの、お二人とも。私の『昼休憩』という名の法定休日はどこへ消えたのでしょうか」
「僕の隣だ(エリオット)」 「私の隣だよ(アルベルト)」
二人の声が重なり、踊り場の空気がバチバチと火花を散らす。
私は静かにサンドイッチを口に押し込み、空を見上げた。
目立たず、貧乏令嬢らしく、イベントを避ける。
三つの行動指針は、入学からわずか数時間で、最高権力者たちによる「上書き保存」によって完全に消滅していた。
私は、手元のスケジュール帳の「ランチ」の欄に、震える手でこう書き込んだ。
【ステータス:昼休憩消滅。王子と公爵に挟まれ中。……誰か、私を不合格にして……】
*
二人の視線が火花を散らす中、私の胃はすでに限界を訴えていた。
(……もう、この場からログアウトしたい)
私が虚無の目で震えていると、ふっとエリオットが表情を消した。
彼はアルベルト王子の重箱を冷ややかな目で見やると、私の手首を驚くほど静かに、けれど確実に掴んだ。
「彼女は今、感謝や贅沢ではなく、静寂を求めているのがわからないのですか?」
「エリオット、君に何がわかる。私は、彼女を誰よりも尊重して――」
「いいえ。あなたは彼女を『救世主』として崇めているだけだ。……アイリス、行こう。君に必要なのは、王族の接待ではない。……そうだな、『視察』でもどうだ」
エリオットは私の返事も待たず、なかば引きずるように私を連れ出した。
*
連れてこられたのは、学園の最上階にある、防音魔法が施された個人用の特別研究室だった。
バタン、と扉が閉まり、施錠される音が響く。
「……閣下? ここは許可がないと入れないはずでは」
「僕が個人の寄付金で維持している部屋だ。ここなら、王子の声も、令嬢たちの騒音も、一切届かない。……君が望んでいたのは、こういう場所だろう?ここでゆっくり『視察』でもするといい」
エリオットは私をソファに座らせると、自分はすぐ隣に腰を下ろした。
いつもなら保たれていた「最低三十センチの互換距離」が、今はゼロだ。彼の体温が、制服越しに伝わってくる。
「……近いです、閣下。これは『身辺に干渉しない』という契約に抵触します」
「ああ、そうだったね。だが、今の君の顔色はほっとけない。顔色が悪すぎる。……これを飲みなさい」
彼が差し出したのは、銀の瓶。 中身を検品しようとした私の手を、彼の手が力強く包み込んだ。
「僕が調合させた特注品だ。君の工場のレシピをベースに、よりリラックス効果を高めてある。……アイリス。君は他人の管理には厳しいが、自分を大切にすることに関しては、ひどく杜撰だ」
彼の指が、私の唇をそっとなぞる。 それは、もはや「管理職」の配慮ではなく、壊れやすい精密機器を独占しようとする「所有者」の指つきだった。
「君を守るためなら、僕は契約すら書き換える。……たとえ君に嫌われても、君を壊すノイズからは、僕がすべて遮断してあげるよ。……ねえ、アイリス。ここにいれば、誰も君を傷つけない。僕の管理下だけで、笑っていればいい」
違う。 それは「善意」という名の、最も強固なセキュリティ(監禁)だ。
彼は、王子の無自覚な熱から私を守るために、私を自分だけの箱の中に閉じ込めようとしている。
エリオットの瞳は、どこまでも澄んでいて、狂おしいほどの「正義感」に満ちていた。
それが一番、性質が悪い。 彼は本気で、これが私にとっての「合格点」だと信じているのだ。
(判定:一線越え。……というか、これ、デバッグ不能なバグじゃない……?)
【ログ:生存戦略の全面見直しが必要。……公爵の善意が、致死量を超えています。助けて。】
扉の外では、私を探す王子の叫び声が、微かな振動となって防音壁を叩いていた。
*
エリオットの瞳に宿る熱は、もはや「契約」という枠組みを超えていた。 彼は本気で、私をこの無菌室に閉じ込めることが正解だと信じている。その純粋すぎる「善意」は、私にとってはどんな毒薬よりも劇物だった。
(判定:致命的な規格外。……正気に戻さないと、私の人生が強制終了するわ)
私は、唇をなぞる彼の指を、震える手でしっかりと掴み返した。
「……閣下。一つ、指摘をよろしいでしょうか」
「何かな? 僕の保護に、何か不備でも?」
「大ありです」
私は努めて冷徹な、前世の「鉄の検品官」だった頃の声を絞り出した。
「あなたが調合したその薬。リラックス効果を高めるために、サンダルウッドの配合を三%増やしましたね? そのせいで、今のこの部屋の空気は、私の基準値から外れた『過剰な鎮静状態』にあります。……論理的な判断を奪うのは、管理ではなく『改ざん』です」
エリオットが、わずかに目を見開く。
「……さらに。あなたが私をここに閉じ込めることは、私の『研究者としての市場価値』を殺す行為です。情報の入らない研究者に、明日の成果は生み出せません。……閣下。あなたは優秀な経営者のはず。これほど『非効率』な投資を、あなた自身が許せるのですか?」
私の言葉は、鋭いメスのように、彼の暴走した善意を切り裂いていく。 エリオットの指から力が抜け、その瞳から濁った熱が引いていった。
「……非効率、か。確かに……君の言う通りだ。僕は、君という資産を保護することに執着しすぎて、運用(自由)を阻害していたようだ」
彼は力なく笑い、ゆっくりと私から距離を取った。 ようやく、いつもの「互換性のある」ビジネスパートナーの顔に戻る。
「……すまない、アイリス。君を『管理』しているつもりが、僕の方が自分を制御できていなかったらしい。……不合格、かな?」
「ええ。大幅な減点です。……ですが、即座に修正できるなら、契約破棄(お別れ)までは致しません」
私がそう告げた瞬間、背後の扉が轟音と共に吹き飛んだ。
「――アイリス嬢! 無事か!!」
現れたのは、聖剣でも抜いたかのような形相のアルベルト王子だった。
壊れた扉の破片を背景に立つ彼は、間違いなく物語のヒーローだったが、私とエリオットは揃って深いため息をついた。
「殿下。器物破損は、王族であっても始末書ものですよ」
「殿下。もう少し、低刺激な登場をお願いします」
王子は呆然として立ち尽くした。
彼が夢見た「囚われの令嬢を救う」イベントは、当の令嬢による冷ややかな品質チェックによって、開始一秒で「不採用」となったのだ。
*
静かになった研究室で、私は一人、机に向かっていた。
壊れた扉は修理され、防音魔法はしっかり設定されている。
誰の声も聞こえない。
それが、今の私には一番ありがたかった。
(……結局)
私はペンを止め、今日一日のログを見返した。
王子の光。
公爵の善意。
どちらも「私を想っている」という点では、同じだった。
けれど――。
(違うのは、“私の意思”が考慮されていたかどうか)
王子は、私を「救うべき存在」として見ていた。
公爵は、私を「守るべき資産」として管理しようとした。
どちらも優しく、どちらも正しく、
そしてどちらも、致命的に同じ欠陥を抱えている。
「……なるほど」
私は小さく笑った。
助け船だと思った相手が、実は最大のバグだった――。
この乙女ゲーム世界の仕様は、思った以上に理解しやすい。
この物語における不具合の原因は、
王子でも、公爵でもない。
“善意なら、相手の人生に介入していい”
そう信じ切っていること自体が、最大のバグなのだ。
公爵エリオットの善意が厄介なのは、
私の拒否や違和感を「一時的な誤作動」と判断し、
守るためなら修正していいという結論に、迷いなく辿り着いてしまう点にある。
彼の善意はあまりに完成度が高く、
私の「嫌だ」という意思は、いつの間にか仕様書から削除されていた。
それでも――
その欠陥を理解した上で会話を交わす時間を、
私が思ったより楽しんでしまっている事実だけは、否定できなかった。
私はスケジュール帳の最後のページに、はっきりと書き込んだ。
【最終判定】
・王子アルベルト:仕様外(過剰な光属性)
・公爵エリオット:要修正(善意による暴走)
・私、アイリス・シュタイン:――合格
守られなくてもいい。
選ばれなくてもいい。
私は、私の人生の品質管理者だ。
誰かの善意で完成する製品なんて、
最初から不良品に決まっている。
いずれ、私はどちらかを選ばなければならない時が来るのかもしれない。
その時、果たして私は論理と数値だけでこの難問を解き切ることができるのだろうか。
――判定は保留。現時点では算出不能
窓の外では、夕暮れの光が静かに差し込んでいた。
それは眩しすぎず、私の作業を邪魔しない、ちょうどいい明るさだった。
「……さて」
私は新しい薬の配合表を開く。
この世界は欠陥だらけで、バグも多い。
でも――だからこそ、修正しがいがある。
私は今日も、淡々と、正確に、
自分の人生という製品に
「合格」の印を押し続けるのだった。
『「君が自分を“不合格品”だと思っているその評価
――それを覆す権利は、僕に残してもらう」』
あら、これだと当初の公爵の言う通りになってしまったわね。
それは癪だからまだ選んであげない。
これはこれで綺麗に終われたと満足です。
時間がある時にしっかり続編書きたい短編です。




