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監獄へ追放された悪役令嬢、絶品料理で冷徹監獄長の最愛の人になる。  作者: 月雅


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第9話:逆襲の王太子と、風に乗る黄金のポトフ


監獄島ヴェスペルの海域を、数十隻もの魔導軍艦が埋め尽くしていた。

王国の紋章が刻まれた帆が、冬の潮風を受けて不気味に翻る。

旗艦の甲板に立つ王太子ジュリアンは、震える手で望遠鏡を握りしめていた。


「……あそこだ。あの島に、僕を救うレシピがある」


ジュリアンの顔は、もはや生者とは言い難いほどに削げ落ちていた。

重度の魔力栄養失調により、彼の情緒は極限まで不安定になっている。

隣に立つ聖女エレンもまた、その輝かしい金髪がくすみ、必死に浄化魔法を自分にかけ続けていた。


「殿下、あのような不浄な島、一気に焼き払ってしまいましょう。レシピさえ手に入れば、セシルなど不要ですわ」


エレンの刺々しい声が響く。

だが、その時。

島の断崖の上に、一人の男が姿を現した。


「これ以上の接近は警告なしに攻撃とみなす。直ちに退去せよ」


監獄長アラリックの声が、魔導拡声器を通じて海上に轟いた。

彼の一人称は「俺」だ。

その傍らには、銀髪をなびかせたヴェラと、槍を握りしめたルドが並んでいる。


「ふん、たかが監獄長が僕に逆らうか! 全艦、魔導砲の準備を……」


ジュリアンが命令を下そうとした、その時だった。

風向きが変わった。

島の方から、温かく、そして抗いがたいほどに芳醇な「香り」が、海風に乗って艦隊へと流れ込んできたのだ。


「……っ!? なんだ、この匂いは」


一人の兵士が鼻をひくつかせ、魔導砲の手を止めた。

それは、じっくりと時間をかけて煮込まれた肉の脂の甘みと、大地に根ざした根菜の力強い香りが混ざり合ったものだった。


その頃、島の厨房では、セシルがかつてない規模の調理に挑んでいた。

中庭に据え付けられた巨大な大釜には、島で収穫されたばかりの「大地の恵み根」と、ヴェラが狩ってきた「剛毛猪」の塊肉が、溢れんばかりに投入されている。


「さあ、仕上げよ。魔導調合・全域拡散。この飢えた魂たちに、本物の食事を届けてあげなさい」


セシルが釜に手をかざすと、黄金の光がスープの中に溶け込んでいった。

彼女の一人称は「わたくし」だ。

魔法によって気化されたスープの粒子は、風の魔法と結びつき、艦隊の隅々にまで「栄養の記憶」を運び届ける。


「おい……オイラ、お腹が鳴っちゃったよ。これ、絶対にセシルお嬢様のポトフだ!」


崖の上で、ルドが喉を鳴らした。

ヴェラもまた、鼻をひくつかせながら不敵に笑う。


「あたいもあのご馳走のために、この島を守り抜くよ。……見てな、王都の連中、もう戦う顔をしてないよ」


ヴェラの言葉通りだった。

艦隊の兵士たちは、次々と武器を落とし、甲板に膝をついていた。

彼らもまた、王都で質の悪い魔力パンばかりを与えられ、慢性的な倦怠感と空腹に苦しんできた被害者なのだ。

風に乗って届くポトフの香りは、彼らの細胞に刻まれた「生存本能」を激しく揺さぶった。


「温かい……。お母さんが作ってくれたスープのような、優しい匂いだ……」

「魔力パンなんて、もう見たくもない。俺は、あの島のご飯が食べたい!」


兵士たちの間で、すすり泣くような声が広がる。

戦意は瞬く間に霧散し、艦隊は機能停止に陥った。


「何をしている! 撃て! 早くあの島を焼き払え!」


ジュリアンが狂ったように叫ぶが、誰一人として動かない。

それどころか、小舟を下ろして島へと漕ぎ出そうとする者まで現れ始めた。


「無駄ですよ、ジュリアン殿下」


断崖の上に、セシルが姿を現した。

彼女の手には、一本のお玉が握られている。


「あなたの兵士たちは、魔法の力に屈したのではありません。彼らは、自分の体が求めている『本物』に気づいただけなのです。食べること、生きること。それを忘れた者に、私を裁く資格はありませんわ」


「黙れ! 黙れ黙れ! そのレシピを僕に寄越せ!」


ジュリアンが自ら魔導砲に手をかけようとした瞬間、アラリックが崖から飛び降りた。

重力魔法を駆使した一撃が、艦隊の旗艦の甲板を激しく揺らす。


「俺が言ったはずだ。この島の聖域を侵す者は、俺が斬ると」


アラリックの剣が、ジュリアンの喉元に突きつけられた。

背後では、島へ上陸した兵士たちが、セシルの用意した温かなポトフを一口食べ、涙を流しながら降伏の意思を示している。


「……美味い。ああ、神様、こんなに美味しいものがこの世にあったなんて……」


一人の重装歩兵が、地面に座り込んでポトフを啜る。

その横で、ルドが誇らしげに胸を張った。


「だろ? セシルお嬢様の料理は世界一なんだ。あんたたち、もう無理しなくていいんだよ」


ジュリアンは、跪く兵士たちの姿と、ポトフの暴力的なまでの香りに圧倒され、その場に崩れ落ちた。

彼の腹が、これまでに聞いたこともないような大きな音を立てて鳴った。


「……僕も……僕にも、それを……食べさせて……」


王太子のプライドが、空腹という名の本能に屈した瞬間だった。

美食を巡る戦いは、一滴の血も流れることなく、一椀のスープによって終結した。


だが、セシルにとってこれは終わりではない。

彼女は、この監獄島をさらなる理想郷へと変えるため、次の一皿をすでに思い描いていた。


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