第8話:月下の晩餐と、監獄長の秘めたる傷
監獄島ヴェスペルの夜は、波の音だけが支配する静寂に包まれていた。
断崖の頂上、海を一望できる石造りのテラス。
そこには、監獄という場所には似つかわしくない、真っ白なリネンが敷かれた小さなテーブルが置かれていた。
セシルは厨房での忙しさを終え、今夜は「一人の客」のために、特別な一皿を用意していた。
「お待たせいたしましたわ、監獄長。今夜は少し趣向を変えてみましたの」
セシルが差し出したのは、島で獲れたばかりの「銀鱗海竜」のポワレだ。
皮目は魔法の火加減でパリパリに焼き上げられ、身は驚くほどふっくらと仕上げられている。
その上には、島で自生する野草と白ワインを煮詰めた、爽やかな緑色のソースがたっぷりとかかっていた。
アラリックは無言で席に着き、ナイフを手に取った。
彼の一人称は「俺」だ。
かつては王国最強の騎士団長として戦場を駆け抜けた彼だが、今は一人の男として、目の前の料理に向き合っている。
「……いただきます」
銀色の鱗が輝く身を一口、口に運ぶ。
舌の上で魚の身がホロリとほどけ、濃厚な海の旨味とソースの程よい酸味が溶け合った。
魔法で閉じ込められた水分が口の中で弾け、心地よい清涼感が鼻を抜ける。
「美味いな……。セシル、君の料理を食べるたびに、俺の体は自分が生きていることを思い出させられる」
アラリックはポワレを三口、四口と食べ進め、最後に添えられた「月の実のタルト」に手を伸ばした。
サクサクの生地に、魔法で甘みを凝縮した木の実がぎっしりと詰まっている。
「月の実……。これは戦場では、ただの硬い木の実として扱われていたな。こんなに甘く、優しい味がするものだったとは」
アラリックの瞳に、少しだけ寂しげな色が宿った。
彼はタルトを最後の一口まで味わうと、海を見つめながら静かに語り始めた。
「俺はかつて、最前線で戦い続けていた。そこには『食』などなかった。あったのは、ただ生き延びるための魔力パンと、体力を無理やり引き出す聖女の加護だけだ」
「……それが、あなたの味覚を奪った原因ね」
セシルの言葉に、アラリックは頷いた。
「ああ。戦友たちは次々と『魔力栄養失調』で倒れていった。だが、俺は倒れることさえ許されなかった。魔法で感覚を麻痺させ、空腹を忘れ、ただの戦闘機械として剣を振るった。味覚が消えた時、俺は心まで死んだと思っていた」
アラリックは空になった皿を見つめ、それからセシルを真っ直ぐに見据えた。
「だが、この島で君に出会い、君の作る料理を食べた時……俺は初めて、自分が守りたかったものが何だったのかを思い出した。俺が守るべきは国ではなく、こうした『温かな食卓』だったのだな」
セシルは静かに彼の言葉を受け止めた。
彼女の一人称は「私」だ。
「監獄長、料理人は食べる人の明日を作る仕事です。あなたが明日もまた美味しいものを食べたいと思ってくださるなら、私はどこへも行きませんわ」
二人の間に、穏やかで温かな沈黙が流れる。
アラリックがセシルの手に、そっと自分の手を重ねようとした、その時だった。
「報告します! 監獄長閣下!」
ルドの声が、テラスの静寂を破った。
彼は息を切らし、一枚の羊皮紙を掲げている。
「王都から緊急の早馬……いえ、早船です! 王太子殿下より、セシル・アストレイの身柄引き渡しと、島で開発された全レシピの提出を命じる勅命が届きました!」
アラリックの顔から、先ほどまでの柔らかさが消え、氷のような監獄長の表情に戻った。
彼はルドから羊皮紙を奪い取るように受け取り、その内容を一瞥した。
「……レシピを差し出せば、セシルの罪を免じ、王都の宮廷料理人として迎えるとあるな。だが、従わぬ場合は『反逆罪』としてこの島を包囲すると」
「あら、随分と勝手な言い分ですわね」
セシルは皮肉な笑みを浮かべた。
自分を泥の中へ突き落とした者たちが、今度は自分の料理を求めて頭を下げて……いや、脅してきているのだ。
「どうする、セシル。君が王都に戻れば、贅沢な暮らしが待っているだろう」
アラリックの問いに、セシルは立ち上がり、エプロンの紐を強く結び直した。
「監獄長。私は、私の料理を『卑しい』と切り捨てた人たちのために、腕を振るうつもりはありませんわ。それに、ここの方が食材も新鮮で、何より……食べてくれる人が誠実ですもの」
セシルの言葉に、ルドが感激の声を上げ、アラリックは誇らしげに口角を上げた。
「……そうか。ならば、俺の答えは一つだ」
アラリックは勅命の紙を、テーブルの上のキャンドルの火で燃やした。
炎が黄金色の麦の実を象った印章を焼き尽くしていく。
「ヴェスペル島はこれより、王太子の不当な要求を拒絶する。ルド、ヴェラを呼べ。迎え撃つ準備を始めるぞ」
「はいっ!」
暗闇の向こう、水平線の彼方には、王都の艦隊の灯りがかすかに見え始めていた。
美食を巡る最後の戦いが、幕を開けようとしていた。




