第7話:黄昏の王都と、偽りの聖なるパン
監獄島ヴェスペルが希望の香りに包まれている頃。
ソリスティア王国の王都は、不気味なほどの静寂と倦怠に沈んでいた。
王宮の豪華な広間では、昼食会が開かれている。
だが、そこに並んでいるのは彩り豊かな馳走ではない。
透き通った硝子の皿に無造作に置かれた、真っ白な四角い板。
最高級の魔力を凝縮した「エーテル・ウェハース・プレミアム」だ。
王太子ジュリアンは、目の前の白い板を力なく指で摘み、口へと運んだ。
「……ふう。やはり、砂を噛んでいるようだ」
ジュリアンが呟く。
彼の一人称は「僕」だ。
かつては精悍だったその顔は、今や土気色を帯び、自慢の金髪も艶を失ってバサついている。
一口食べれば一日の活動エネルギーを得られるはずの魔力パンだが、それを食べても、彼の体からは鉛のような重だるさが消えることはなかった。
「殿下、そんな弱気なことを仰ってはいけませんわ」
隣に座る聖女エレンが、鈴を転がすような声で微笑む。
彼女の一人称は、幼さを残した「私」だ。
エレンがジュリアンの手にそっと触れると、淡い白光が彼を包み込んだ。
「さあ、私の浄化魔法を。これで体の疲れも、不浄な澱みもすべて消えてなくなります」
「ああ……エレン。君の魔法だけが僕の救いだ」
光に包まれた瞬間、ジュリアンは一時の高揚感に包まれた。
だが、それは麻薬のようなものだった。
エレンの浄化魔法は、体内の毒素と一緒に、細胞が必死に蓄えていた僅かな微量栄養素まで削ぎ落としてしまう。
魔法を受けた直後こそ元気が出るが、数時間後には前よりも酷い倦怠感に襲われる。
それが、王都を蝕む「魔力栄養失調」の正体だった。
そこへ、視察から戻ったユースタス男爵が、這いずるようにして広間へ入ってきた。
「で、殿下……! 戻りました、戻りましたぞ!」
「ユースタスか。監獄の様子はどうだった。あの毒婦、セシルはさぞかし惨めな姿で泣き喚いていただろう?」
ジュリアンが嘲笑気味に尋ねた。
しかし、ユースタスの反応は予想外のものだった。
「それが……殿下、信じられないことに……! セシル様は、あんな不毛の島で、王宮の誰よりも豊かな食事をしていたのです!」
「何だと……?」
「泥を食っているかと思いきや、見たこともないほど分厚い赤身肉を焼き、芳醇な香りのパンを頬張り……。私も一口いただきましたが、あれは……あれは魔法の板など比較にならない、命の味でした!」
ユースタスは涙を流しながら、ヴェスペルで食べたローストビーフの衝撃を語り始めた。
肉汁が溢れ、噛むたびに活力が漲り、視界が晴れ渡ったあの瞬間のことを。
「肉だと? パンだと? そんな野蛮なものを……」
ジュリアンは動揺を隠せない。
自分たちが「高貴な者の証」として誇ってきた魔力パン。
それが、監獄の囚人が食べている「本物の食事」に敗北したというのか。
「殿下、そんな者の言葉を信じてはいけませんわ」
エレンが冷たい声で割って入った。
「物質に頼る食事は、魂を汚す卑しい行為です。セシル様はきっと、魔物と契約して禁忌の術を使っているのでしょう。私たちが正しい道を進んでいることを、証明しなければなりません」
「……そうだね、エレン。僕たちは選ばれた人間だ。あんな最果ての島で、泥にまみれて肉を喰らう女に負けるはずがない」
ジュリアンは自分に言い聞かせるように、再び不味い魔力パンを口に押し込んだ。
だが、一度芽生えた疑念は消えない。
いくら魔力パンを食べても、エレンの魔法を受けても、胃の奥にある「空虚」が埋まることはなかった。
「アラリックに伝えろ。セシルが開発したその『レシピ』とやらを、すべて王都へ差し出せとな。それは本来、僕たち王族が管理すべきものだ」
ジュリアンは青白い拳を握りしめた。
彼の体は、無意識のうちに悲鳴を上げていた。
一椀のスープを。
一筋の肉汁を。
血肉となって自分を支えてくれる、本物の栄養を求めて。
王都の光が陰り、偽りの聖女の祈りが虚しく響く中、ジュリアンは決断した。
武力を持って、監獄島にある「命の源」を奪い取ることを。
その頃、ヴェスペルではセシルが夜のテラスで、アラリックと共に静かな晩餐を始めようとしていた。
王都に迫る危機の足音など、まだ誰も知らない。




