第6話:傲慢な視察官と、震える赤身肉の洗礼
監獄島ヴェスペルの桟橋に、王都の紋章を掲げた一隻の魔導船が横付けされた。
船から降りてきたのは、豪奢な毛皮を羽織った小太りの男、ユースタス男爵だ。
彼はかつて社交界でセシルを熱烈に追い回し、彼女の失脚と共に手のひらを返して罵倒した、王太子の側近の一人である。
「ひどい風だ。こんな不浄な島に、聖女様の代理として来なければならないとは……。おい、案内しろ。あの毒婦はどこで野垂れ死んでいる?」
ユースタスはハンカチで鼻を覆いながら、迎えに出たアラリックを睨みつけた。
だが、彼の顔は土色で、目の下にはどす黒い隈が刻まれている。
指先は常に微かに震え、時折ポケットから魔力パンの欠片を取り出しては、焦ったように口に放り込んでいた。
「セシルは今、厨房におります。ご案内しましょう、男爵」
アラリックは冷ややかな声をかけ、彼を案内した。
ユースタスは、中庭を通る際に目を見開いた。
そこには、泥にまみれながらも生き生きとした顔で畑を耕す囚人たちと、瑞々しい緑を湛える菜園が広がっていたからだ。
「な、なんだこれは……。監獄の中に庭園だと? 規律はどうなっている!」
「規律なら守られていますよ。彼らは、美味しいものを食べるために働いているのです」
アラリックの言葉を無視し、ユースタスは厨房へと足を踏み入れた。
そこには、純白のエプロンを身に纏い、優雅に包丁を握るセシルの姿があった。
「お久しぶりですわ、ユースタス男爵。相変わらず、不健康そうな顔色をなさっていますわね」
「貴様……! 囚人の分際で、その口の利き方は何だ! 聖女エレン様がお慈悲で様子を見てこいと仰ったから……」
ユースタスの怒声は、セシルがまな板の上に置いた「塊」によって遮られた。
それは、島で狩られたばかりの魔導牛、紅蓮バッファローの太腿肉だ。
燃えるような赤身に、魔法で丁寧に処理された白い筋が美しく走っている。
「ちょうどいいところへ。王都の貧相な食事に飽きていらっしゃるでしょう? ヴェスペル特製のローストビーフを、毒見させて差し上げますわ」
「ふ、ふん! 魔物の肉など、野蛮な平民が食うものだ。私には最高級の魔力パンが……」
ユースタスは強がったが、セシルが肉に魔力を通した瞬間、その言葉が喉に詰まった。
ジュウッ、という官能的な音と共に、肉から溢れ出した脂が熱い鉄板で踊る。
セシルの魔法「魔導調合」によって、肉の強固な繊維が瞬時に解け、内側に閉じ込められた肉汁が魔力と一体化して黄金色の輝きを放ち始めた。
立ち込めるのは、野性味溢れる濃厚な肉の香りと、数種類の薬草が織りなす爽やかな芳香。
「……っ。な、なんだ、この匂いは。胃の奥が、熱い……」
ユースタスは無意識のうちに喉を鳴らした。
重度の魔力栄養失調にある彼の体は、細胞レベルでこの「本物の栄養」を求めていた。
セシルは肉を厚く切り分け、自家製の星屑麦パンを添えて皿を出した。
ユースタスは拒絶しようとしたが、その手は勝手にフォークを握っていた。
彼は肉の一片を、口へと放り込む。
「――――!」
衝撃が、ユースタスの全身を突き抜けた。
歯を立てた瞬間、肉汁が飛沫を上げて溢れ出し、口内を熱く満たした。
噛むたびに溢れる肉の旨味は、魔法の板とは比較にならないほどの質量を持って彼の舌に絡みつく。
「美味い……美味すぎる……! なんだこれは、肉というより、命の塊を食べているようだ!」
ユースタスは王族の代理であることも忘れ、なりふり構わず肉を頬張った。
一口、二口と食べ進めるごとに、彼の土色だった肌に赤みが差し、震えていた指先がピタリと止まる。
「ああ、視界がはっきりしてくる……! 慢性的に続いていたあの倦怠感が、嘘のように消えていくぞ!」
隣で見ていたルドが、たまらずセシルに耳打ちした。
「お嬢様、アイツ、さっきまであんなに偉そうだったのに、今は泣きながら肉を詰め込んでるよ……」
「当然ですわ。私の料理は、魔法でごまかされた偽りの満足感ではなく、身体そのものを満たすのですから」
セシルは冷たく微笑んだ。
ユースタスは皿を舐めるようにして完食すると、空の皿を見つめて呆然と呟いた。
「王都の食事は……魔力パンは……ゴミだ。私は、あんな砂のようなものを最高級だと思い込まされていたのか……?」
「その通りですわ。男爵、王都へ戻ったら王太子殿下にお伝えなさい。セシルは監獄で、あなたたちよりもずっと贅沢な生活を送っている、とね」
ユースタスはがっくりと肩を落とし、監獄を去る船の中で、二度と手に入らないであろうローストビーフの味を思い出して涙を流した。
だが、この視察の結果は、セシルの予想とは異なる形で王都に波紋を広げることになる。
「監獄に行けば、あの恐ろしい倦怠感が治る料理がある」
その噂は、死の淵に立つ王都の貴族たちにとって、救いの神の告げのように響いたのだ。




