第5話:痩せた大地を耕せ! 黄金のパンと希望の種
監獄島ヴェスペルの朝は、常に凍てつくような潮風と共にやってくる。
断崖の上に広がる中庭は、痩せた土に覆われ、まばらに生えた「灰色の雑草」が風に震えているだけだった。
「ひどい土壌ね。魔法で無理やり成長を早められたせいで、大地の滋養が完全に枯れ果てているわ」
セシルは中庭に立ち、土を指で掬い上げた。
その背後には、朝の赤い煮込みで活力を取り戻したヴェラと、心なしか足取りの軽いルドが控えている。
「お嬢様、この島で農業なんて無理だよ。昔から何を植えても、泥臭くて硬い野菜しか育たないんだ」
ルドが困ったように頭を掻く。
この世界の農業魔法は、効率だけを求めた結果、植物の「生命力」を無視して「質量」だけを増やす歪なものになっていた。
「それは魔法の使い方が間違っているだけよ。ルド、ヴェラ。海岸へ行って『海神の昆布』と、打ち上げられた魚の骨を集めてきなさい。それと、家畜小屋の堆肥も全部ここに運ぶのよ」
「……えっ、あたいにそんな汚い仕事をさせるのかい?」
ヴェラが顔をしかめるが、セシルは凛とした声で言い放った。
「美味しいものを食べるためよ。文句があるのかしら?」
「……ちっ、分かったよ。あんたに言われると逆らえないね」
ヴェラは不器用ながらも、鋭い身のこなしで海岸へと走り出した。
数時間後、中庭には生臭い山が積み上がった。
セシルはそこに両手をかざし、目を閉じる。
「魔導調合・発酵加速。大地の脈動と、海の生命を一つに」
彼女の指先から柔らかな緑色の光が溢れ、不浄の山を包み込んだ。
通常なら数ヶ月かかる発酵の工程を、セシルは精密な魔法操作で数分に凝縮していく。
やがて、ツンとした悪臭が消え、雨上がりの森のような、深く豊かな土の香りが立ち込めた。
「これが私の特製『魔導堆肥』よ。さあ、種を蒔きましょう」
セシルが用意したのは、王都では家畜の餌として扱われている「星屑麦」の種だ。
だが、この肥沃な土とセシルの魔法が組み合わされば、それは王族さえ口にしたことのない至高の食材へと変わる。
それから数週間。
監獄の囚人たちも、セシルの料理を食べる権利と引き換えに、進んで畑仕事を手伝うようになっていた。
泥まみれになりながら、自分たちが食べるものを育てる。
それは、絶望しかなかった囚人たちの目に、かつてない輝きを与えていた。
そしてついに、収穫の日が訪れた。
黄金色に輝く星屑麦を石臼で挽き、セシルはその粉に自ら育てた「月の酵母」を混ぜ合わせた。
厨房の窯から、香ばしく、どこか懐かしい香りが溢れ出す。
「焼き上がったわ」
セシルが取り出したのは、表面がパリッと黄金色に焼けた「全粒粉パン」だ。
そこへ、監獄長のアラリックが、視察の足を止めてやってきた。
「……これが、あの不毛の地で育った麦なのか」
アラリックの瞳に驚愕の色が宿る。
セシルは焼き立てのパンを大胆に手で割り、アラリック、ルド、そしてヴェラの前に置いた。
「さあ、何もつけずにそのまま召し上がれ」
ルドが一番にパンにかぶりついた。
「うわっ! 外側がカリッとしてて、中はびっくりするほどモチモチだ! 噛めば噛むほど、口の中に麦の甘さが広がっていくよ!」
「本当だね……。あたい、今までパンってのは、腹を膨らませるための乾いた塊だと思ってた。でもこれは、心が温かくなる味がする」
ヴェラも熱々のパンを頬張り、幸せそうに目を細めた。
最後に、アラリックがゆっくりとパンを口に運ぶ。
「…………。驚いたな。魔力パンのような虚無感がない。このパンには、大地の重みと、確かな生命力が宿っている」
アラリックは、パンの断面をじっと見つめた。
そこには、セシルの魔法によって栄養と魔力が完璧に乳化された、美しい気泡が並んでいる。
「これなら、どんなに過酷な任務にあっても、心が折れることはないだろう。セシル、君は監獄だけでなく、この島そのものを変えてしまったようだな」
「あら、私はただ、美味しいパンを食べたかっただけですわ」
セシルは澄ました顔で答えたが、その頬は窯の熱のせいか、わずかに赤らんでいた。
不毛の監獄島に、初めて自給自足のサイクルが生まれた瞬間だった。
だが、この「奇跡のパン」の噂は、風に乗って遠く王都まで届こうとしていた。
栄養を失い、飢えと倦怠に苦しむ貴族たちが、この島に目をつけないはずがなかった。




