第4話:暗殺者と情熱の赤い煮込み
監獄の夜は、王都のそれよりもずっと深い。
セシルが厨房の特別料理顧問に任命されてから三日が過ぎた。
彼女は早朝の厨房で、一人静かに大きな銅鍋に向き合っていた。
背後に、音もなく忍び寄る影がある。
手入れの行き届いたナイフが、月明かりを反射して冷たく光った。
「あんたが、噂の悪役令嬢かい」
ハスキーな女の声。
セシルは振り返ることなく、木べらで鍋の中身をゆっくりとかき混ぜた。
「背後から近づくなんて、行儀が悪いわね。ヴェラ、と言ったかしら。女囚たちの元締めが私に何の御用?」
銀髪を短く刈り込んだ褐色の女、ヴェラは、低く唸るような声を漏らした。
彼女は王都の裏社会で名を馳せた情報屋であり、暗殺のプロでもある。
王太子派から「セシルの命を奪えば減刑する」という密約を受けて、この島に送り込まれた刺客だった。
「用件なんて一つだよ。あんたには、ここで死んでもらう」
ヴェラが踏み込もうとした、その瞬間だった。
彼女の視界が急激に歪み、膝がガクガクと震え出す。
強烈な立ちくらみに襲われ、ヴェラはその場に膝をついた。
「くっ……あたいの体が……」
「無様ね。あなたは極度の貧血、それに低血圧だわ。平民が不味い野菜ばかり食べて、血肉を補う努力を怠った末路よ」
セシルは冷ややかに言い放つと、小皿に真っ赤なスープを注いでヴェラの前に置いた。
立ち上る香りは、濃厚な肉の脂と、どこか鉄分を含んだような力強い芳香だ。
「……毒、かい?」
「毒よりもずっと効くわよ。さあ、食べなさい」
ヴェラは朦朧とした意識の中で、差し出されたスプーンを握った。
鼻をくすぐる香ばしさに、理性が負ける。
震える手で、赤い煮込みを一口、口に運んだ。
「――っ!?」
舌の上で、肉の塊がホロホロと解けていく。
使われているのは、島に生息する「鉄猪」の首肉だ。
そのままでは硬くて到底食べられない部位だが、セシルは魔法で肉の繊維を組み替え、さらに「火焔草」と共に煮込むことで、栄養素を極限まで活性化させていた。
「な、なんだい、これ。体が、内側から燃えるみたいだ……!」
ヴェラが驚愕の声を上げる。
一口食べるごとに、氷のように冷たかった彼女の指先に、ドクドクと熱い血が流れ込んでいく。
視界を覆っていた霞が晴れ、頭の奥の重だるさが消えていく。
「美味い……。あたい、今まで何を食ってたんだろう。こんなに力が湧いてくる飯、食べたことがないよ」
「それは鉄猪の血と肉に、魔力を完璧に結合させたからよ。あなたの薄い血を、この一皿が作り変えているの」
そこへ、騒ぎを聞きつけた看守のルドが顔を出した。
「お、おい! ヴェラじゃないか。何してるんだ!」
ルドはヴェラがナイフを持っているのを見て身構えるが、彼女の様子がおかしいことに気づく。
ヴェラは暗殺のことなど忘れたかのように、一心不乱に赤い煮込みを口に運んでいた。
「ルド、あなたも一杯どうかしら。朝の活力には一番よ」
セシルに促され、ルドも鍋から一杯分を掬い上げた。
「うわぁ、この肉、すごく弾力があるのに噛むとジュワッと肉汁が溢れる! それにこの赤いソース、ピリッとしてるのに後味がすごく爽やかだ」
ルドが感嘆の声を上げると、背後からさらに低い声が響いた。
「……朝から随分と騒がしいな」
監獄長のアラリックだ。
彼はセシルとヴェラの間に流れる奇妙な空気を感じ取りながらも、調理台に置かれた鍋に視線を向けた。
「ヴェラ、貴様、セシルを襲いに来たのではなかったのか」
アラリックの問いに、ヴェラは空になった皿を置き、力強く立ち上がった。
先ほどまでの蒼白な顔色は消え、頬には健康的な赤みが差している。
「……暗殺なんて馬鹿馬鹿しくてやってらんないよ。監獄長、あたいを決めてやった。今日からあたいは、このお嬢様のボディーガードになる」
「ほう?」
「あたいをここまで元気にした飯を、邪魔させるわけにはいかないからね。お嬢様……いや、シェフ。次の飯は何だい?」
ヴェラがナイフを鞘に収め、不敵に笑った。
セシルはフンと鼻を鳴らし、満足げに頷く。
「まずはその厨房の煤を落としてきなさい、ヴェラ。力仕事ならいくらでもあるわ。ルド、監獄長。あなたたちも、食べたらすぐに仕事に戻ってちょうだい」
アラリックは無言でスープを一口飲み、その完成度に驚きながらも、どこか楽しげに口角を上げた。
「……わかった。今日の視察は、これまでにないほど捗りそうだ」
監獄の厨房に、新たな「仲間」が加わった。
だが、セシルはこの程度の成功で満足してはいなかった。
彼女の目は、さらに先――この痩せた島そのものを変える計画を見据えていた。




