第3話:氷の監獄長と、とろける太陽のオムレツ
厨房に満ちていた熱狂が、一瞬で凍りついた。
階段の方から現れたのは、黒い軍服を隙なく着こなした長身の男だ。
監獄長、アラリック・フォン・アイゼンハルト。
顔に刻まれた一筋の傷と、感情を削ぎ落としたような鉄色の瞳が、その場にいる全員を射すくめる。
「……囚人が厨房を占拠し、看守がそれを手伝うとは。何の説明だ、これは」
アラリックの低く響く声に、スープのカップを持っていたルドとガストンが直立不動で震え上がる。
「か、監獄長! これは……その、アストレイ令嬢が、あまりに飯が不味いと言うもので……」
「言い訳は不要だ、ルド。規律を乱した罪は重いぞ」
アラリックが冷徹に一歩踏み出す。
その歩みは無音で、まるで死神が近づいてくるような威圧感があった。
男囚たちは蜘蛛の子を散らすように厨房の隅へ逃げていく。
だが、セシルだけは、手に持っていたお玉を置くこともなく、平然とアラリックを見返した。
「規律、規律と……。そんなに怖い顔をなさらないで。監獄長、あなたこそ、その青白い顔でよく部下に示しがつきますわね」
「貴様……。自分が誰に口をきいているか分かっているのか」
「ええ、重度の『魔力栄養失調』で、今にも倒れそうな哀れな男性でしょう?」
セシルの言葉に、アラリックの眉がわずかに動いた。
彼は戦場での武勲により、この若さで監獄長を任されている英雄だ。
だが同時に、最前線で魔力パンに頼りすぎた弊害により、数年前から味覚のほとんどを失っている。
何を食べても砂のようで、ただ体を維持するためだけに高濃度の魔力を摂取し続ける日々。
それは魂を少しずつ削り取っていくような、終わりのない飢えだった。
「私のスープの香りに誘われて、ここまでいらしたのでしょう? 鼻はまだ死んでいないようですわね」
セシルはそう言うと、調理台の下に保管されていた籠を指差した。
そこには、島に自生する「雷鳥」が産んだ、殻が青白い卵がいくつか入っていた。
雷鳥の卵は魔力が豊富だが、特有の硫黄臭が強く、この世界では「食べられたものではない」と忌避されている食材だ。
「……そんな臭い卵で、何をするつもりだ」
アラリックが不快そうに目を細める。
「見ていなさいな。これが私の『魔導調合』よ」
セシルは手際よく卵を割り、ボウルに移した。
そこに、先ほど作った黄金のコンソメスープを数滴、そして細かく刻んだ「太陽ハーブ」を加える。
彼女がボウルに手をかざすと、微かな黄金の光が卵液を包み込んだ。
魔法によって雷鳥の卵特有の臭み成分を魔力へと置換し、旨味だけを増幅させていく。
熱したフライパンに、貴重な保存用のバターをひく。
ジッ、という小気味よい音と共に、香ばしい香りが厨房を支配した。
「おい、あの卵、さっきまであんなに臭かったのに……今はなんていい匂いなんだ」
隅で見守っていたルドが、生唾を飲み込んで呟く。
セシルは流れるような動作で卵液を流し込み、素早く箸を動かした。
表面はふっくらと、中はとろりとした半熟の状態を保ったまま、木の葉のような美しい形に整えていく。
「さあ、召し上がれ。氷の監獄長様」
真っ白な皿の上に乗せられたのは、夕焼けのような鮮やかなオレンジ色のオムレツだ。
湯気と共に、バターの濃厚な香りとハーブの爽やかな風味が立ち上がり、アラリックの鼻腔を激しく揺さぶった。
アラリックは無言でフォークを手に取った。
どうせ味などしない。
期待すればするほど、後で虚しくなるだけだ。
彼はそう自分に言い聞かせながら、震える手でオムレツの端を切り取った。
プルプルと震える断面から、黄金色のソースのような卵液が溢れ出す。
それを口に運んだ瞬間。
「…………っ!」
アラリックの脳内に、鮮烈な衝撃が走った。
まず感じたのは、唇を滑るような圧倒的な柔らかさ。
そして次の瞬間、濃厚な卵のコクと、バターの塩気が爆発した。
死んでいたはずの彼の舌が、たった一口で鮮やかに蘇る。
「……味が……する……」
掠れた声が、彼の唇から漏れた。
それは単なる「味」ではない。
セシルの魔法によって乳化された栄養素が、彼の乾き切った血管を通って、身体の奥底まで染み渡っていく感覚。
凍りついていた心臓が、ドクンと力強く脈打つのを感じた。
「ああ、なんて滑らかなんだ……。噛む必要さえない。喉を通り過ぎる時、体中の力が抜けていくようだ」
アラリックは憑かれたように、二口目を運んだ。
今度は太陽ハーブの香りが鼻に抜け、重苦しかった頭が驚くほどクリアになっていく。
「監獄長、そんなに美味しいんですか?」
恐る恐る尋ねたガストンに、アラリックは答える余裕もなかった。
彼は最後の一片を惜しむように口に含むと、深く、長い溜息をついた。
その表情からは、先ほどまでの刺すような冷徹さが消え、代わりに年相応の青年のような柔らかさが宿っていた。
「……驚いたな。俺は今まで、何を食べていたんだ。この一皿は、王宮の晩餐会に出されるどんな料理よりも……価値がある」
「当然ですわ。私の料理は、あなたの『命』を作っているのですから」
セシルは勝ち誇ったように腕を組んだ。
アラリックは皿を置き、じっと自分の手を見つめた。
いつも冷たかった指先に、確かな熱が宿っている。
「セシル・フォン・アストレイ。貴様、これほどの腕を持ちながら、なぜ王太子暗殺などという愚かな真似をした」
「あら、それを聞くのは野暮というものですわ。私にはそんな暇はありませんでしたもの。何しろ、美味しいものを食べることと作ること、それにしか興味がありませんから」
セシルの言葉に、アラリックはわずかに口角を上げた。
彼の中にあった彼女への疑念が、今の食事を通じて、氷解していくのを感じていた。
これほどまでに食材を愛し、食べる者の身体を慈しむ者が、毒を盛るなどという卑劣な真似をするはずがない。
「……ルド、ガストン」
アラリックが背後の看守たちを呼んだ。
二人はびくりと肩を揺らす。
「明日の朝から、囚人セシル・フォン・アストレイを厨房の『特別料理顧問』に任命する。彼女の指示に従い、厨房の清掃と食材の調達を徹底せよ」
「は、はいっ! 喜んで!」
ルドが満面の笑みで敬礼する。
セシルはフン、と鼻を鳴らした。
「決まりね。でも監獄長、食材がこれだけでは、私の腕も振るいようがありませんわ。この島の森や海、もっと自由に調べさせてくださるかしら?」
「許可しよう。ただし、俺が同行する場合に限るがな」
アラリックの鉄色の瞳に、これまでにない熱が宿っていた。
それは監獄長としての監視の目ではなく、一人の「空腹な男」が、希望を見つけた時の光だった。
監獄島ヴェスペルの夜が、初めて温かな香りに包まれていく。
だが、その平穏を破るように、監獄の門を叩く不穏な影が近づいていた。




