第1話:絶望の島と泥水のスープ
荒れ狂う海に囲まれた孤島、ヴェスペル。
切り立った断崖絶壁の上にそびえ立つその監獄は、一度入れば二度と生きては出られないと言われる終着駅だ。
重い鉄格子の扉が、甲高い軋み声を上げて開く。
冷たい海風が吹き抜ける石造りの通路を、一人の女が歩いていた。
セシル・フォン・アストレイ。
燃えるような赤髪を誇り高く揺らし、手枷をはめられてなお、その足取りは凛としていた。
かつては公爵令嬢として、そして王太子の婚約者として、社交界の花と謳われた存在だ。
だが今の彼女に与えられた肩書きは、聖女エレンの毒殺を企てた稀代の悪女。
身に覚えのない罪によって、すべてを奪われた追放者だった。
「ここが、今日からの私の城というわけね」
セシルは案内役の看守を振り返り、不敵に微笑んだ。
監獄の案内をしていた若い看守、ルドは、彼女のあまりの美しさと気圧されるような威厳に、思わず後ずさりした。
「……随分と余裕だな、元お嬢様。ここはあんたがいた王都の屋敷とは違う。地獄の底なんだ。飯だって、出るだけマシだと思ってくれよ」
ルドは鼻を鳴らし、独房の扉を開けた。
湿り気を帯びた冷たい空気が、セシルの肌を撫でる。
部屋にあるのは、硬い石のベッドと、薄汚れた毛布がたった一枚だけ。
だが、セシルの関心はそこにはなかった。
彼女が視線を向けたのは、ルドが手元の盆から乱暴に置いた、一杯のスープだ。
「さあ、夕飯だ。ありがたく食えよ」
ルドはそう言って、自分も腰に下げていた革袋から一枚の白い板を取り出した。
それは「エーテル・ウェハース」と呼ばれる魔力パンだ。
一口で一日分のエネルギーを摂取できる魔法の食料だが、その味は無機質で、乾いた石膏を噛むようだと揶揄されている。
セシルは床に置かれたスープの器をじっと見つめた。
それはスープと呼ぶにはあまりに無残な代物だった。
泥のように濁った液体の中に、皮も剥かれていないゴツゴツとした「岩宿カブ」の切れ端が浮いている。
表面には灰色の脂が浮き、ツンとした鼻を突くような金属臭が漂っていた。
セシルは静かにスプーンを手に取り、そのスープを一口だけ含んだ。
「……っ」
瞬間、口の中に広がるのは猛烈な苦味と、土をそのまま噛んだような不快なざらつき。
魔法で無理やり成長を早められた岩宿カブは、地中の不純物を過剰に吸い込んでおり、エグみが凝縮されている。
食材が本来持っているはずの滋味は微塵も感じられず、ただ「腹を満たすためだけの残飯」に成り下がっていた。
セシルは静かに、だが確かな拒絶を持って、スプーンを置いた。
「これを作ったのは誰?」
「あ? 誰って、厨房の当番だが……。それがどうした。文句を言うなよ、罪人の飯なんてそんなもんだ」
ルドは面倒そうに言いながら、魔力パンを無造作に口に放り込んだ。
だが、セシルは見逃さなかった。
ルドの顔色は青白く、目の下には深い隈がある。
魔力パンでエネルギーを補給しているはずの彼の指先は、小刻みに震えていた。
それが、この世界を蝕む「魔力栄養失調」の初期症状であることを、セシルは前世の知識で理解していた。
「ルド、あなた、最近ずっと体が重くて、夜も眠れないのではないかしら?」
「な、なんでそれを……」
「食べているものが死んでいるからよ。その不味い魔法の板も、この泥水のスープも、あなたの体を内側から壊しているわ」
セシルは立ち上がり、鉄格子越しにルドを真っ直ぐに見据えた。
その瞳には、かつての令嬢としての傲慢さではなく、料理人としての鋭い光が宿っていた。
「私の前世では、料理は人を癒やす薬であり、心を豊かにする芸術だったわ。こんな、食材への冒涜を許しておくわけにはいかない」
「何を言って……」
「ルド、私を厨房へ連れて行きなさい。今すぐ、あなたたちに『本当の食事』というものを教えてあげるわ」
ルドは呆然とした。
囚人が厨房に入りたいなど、本来なら一蹴されるべき暴論だ。
だが、セシルの放つ圧倒的な熱量と、その黄金の瞳に見つめられると、不思議と抗うことができない。
「……オイラ、もう一週間もまともに味がしないんだ。何を食べても砂を噛んでるみたいでさ。あんた、本当にマシなものが作れるのか?」
「マシなもの? 冗談はやめて。私はセシル・フォン・アストレイよ。この世で最高の、そして最期の晩餐を作って差し上げるわ」
セシルは手枷をルドの前に差し出した。
鍵を開けろ、という無言の圧力。
ルドは唾を飲み込み、震える手で腰の鍵束に手を伸ばした。
それが、監獄島ヴェスペルが「美食の聖地」へと変貌する、最初の革命だった。
セシルの足取りは軽い。
不味い食事への怒りが、彼女の魔力を呼び覚ましていた。
彼女の指先がかすかに光を帯びる。
それは、物質の栄養と魔力を結びつける唯一無二の力、「魔導調合」の胎動だった。
「さあ、厨房をジャックさせてもらうわよ」
セシルは独房を後にし、薄暗い廊下を歩き出す。
その背中は、追放された悲劇のヒロインなどでは決してなく、戦場へ向かう指揮官のようだった。




