第一話:不老不死
第一話:不老不死
「……、ああ…」
意識を取り戻した私は、硬い椅子の上で背と尻に痛みを覚える。
少し眠っていたようだ。壁にかけてあった時計によると、三十分ほど。
「ん…、ん…」
頭を覚醒させながら、伸びをする。
数十分間、無防備な姿を晒していたわけだが、周りに変わったことはない。
ひとまず安心、テーブルの上にあったクマ柄のマグカップを手に取る。
中はすっからかんだった。
「『水を』」
魔法で純水を生み出し、盃を満たす。
飲み水は貴重品で、この小屋に貴重品があるとは思っていない。期待もしていない。
「…うん」
目が冴える。
寝起きに冷たい水は危険なので、常温だ。
で、どこまで考えたんだったか。
「そうそう。不老不死に至るには、やはり…」
『脳を活性化し、魔法の技術を磨く』。
目の前のページにはそう書かれていた。いや、居眠りする前に自分で書いた。
不老不死は一朝一夕で成せる業ではない。
おそらく今に至るまで誰も成し遂げていないことからも、人の一生で完遂させられるものではないと、
私は考えている。
つまり不老不死になるために、生きながらえ続けないといけないという矛盾が立ち塞がっている。
「……」
ボールペンを手に取り、記述の『脳』という字に丸を何度も囲む。
そこで、脳だ。
脳を効率よく動かすことができれば、同じ一生の時間であっても、経験や学習、記憶などの密度を濃くすることができる。
「……」
『脳』の文字の下に、『構造はおおよそ理解』と書き記す。
文面通り、先ほどここの住人の解剖で、脳の構造はおおよそ理解できた。
今までは古い医学書や論文頼りだったから、少し前進と言ったところだ。
「うーん…」
しかし、ここからが問題だ。
『脳を活性化』と書いたが、魔力で脳細胞の機能を活性化するというのは現実的ではない。
それは一時的なものに過ぎず、逐一かけ直すというのは面倒すぎるからだ。
活性化前後で記憶に齟齬が生じたり、パフォーマンスが変わってしまうのも問題だからね。
せっかく覚えたことを不意に忘れてしまうなんて、時間の無駄でしかない。
「となると…」
『活性化』に二重線を引いて消し、下に『魔法でいじくる』と書き込む。
活性化は無理なので、外科手術か、魔法で脳の構造をいじくるのが最適だ。
しかし、外科的な手段は除外。
自分でやるわけにもいかないし、私が望むことを医者に納得させるのも不可能だろう。
そもそも、クリーンな部屋も麻酔も用意できない。
「魔法使いの体がいる。それも、ある程度魔法に精通した人間の体だ」
これは手帳には書かない。もし誰かに読まれた場合、いらぬ誤解を生む。
魔法で脳をいじくるのなら、目指すべき脳の構造のモデルがいる。
もちろん模倣するだけではいけないが、魔法を研究する以上、いじくるなら魔法の扱いに長けた脳にしたいし、そのためには魔法使いの脳の傾向を参考にしなくてはならない。
脳と魔法、それと魔法の元となる魔力についての関係は未だ謎の部分が多いが、全く関係がないというわけもあるまい。
「ん…?」
今後の進路が決まったところで、トン、という小さな音。
テーブルを挟んだ向こう側、ドアに何かぶつかった。
この気配、魔物だろう。
「はいはい」
イスを引いて立ち上がり、玄関に向かう。
木の足とフローリングの床が擦れる不快な音が鳴る。
「おや…」
ガチャリとドアを開けると、黒い毛並みをしたオオカミの魔物がすぐ脇の外壁に寄りかかっていた。
森から迷い込んだか。
「ぐるるるうっ…!」
私に気づいたオオカミは、弱々しく吠えながら距離を取ろうとする。
しかし、もたついて上手くいっていない。
血が滲んでいる右前足にケガを負っているようだ。
「んー…」
殺すか?肉食の肉は不味いが、タンパク質になる。
小屋に冷蔵庫はあったが、中身はどれも腐っていたから空腹なんだ。
「ぐるるう…」
なおも小さく鳴くオオカミ。
いや、ここで助ければ、さっきの居眠りなどの休みたいときに番犬代わりになるか?
「敵じゃないよ」
そうと決まれば、仲間にしよう。
私は笑顔を意識して、なるべく口角を持ち上げながら手をかざす。
「『痛みを』」
対象は右前足に限定。
身構えたオオカミに、神経に作用する魔法を施す。
「ぐるる、る…う…?」
右前足の感覚が消失し、戸惑うオオカミ。
「聞いて理解できるか分からないけど、患部の神経の働きを止めた。痛みも感じないだろう」
「ぐるう…?」
分かんないか。
じゃあ、荒療治だ。
「ぐるる…!」
「今から治療するから、大人しくしててね。そっちに行くよ」
私は鞄から薬草と包帯を取り出し、ゆっくりと近づく。
本当は人間用だったけど、自分には治療の魔法が効くので問題ない。
「ぐる…」
「聞き分けがよくて助かるよ」
オオカミは分からないなりに、足を差し出してくれた。
私は魔法が効いている内に素早く薬草を擦り込み、包帯を巻く。
どうやら、小屋の住人より頭がいいようだ。
「これでよし。あとは水か」
オオカミは少し痩せているように見える。
ケガが原因で食料にありつけていないんだろう。
だからとりあえず水だけでもと思ったが…。
「おお」
周りを見てみたら、外壁の端に犬小屋があった。
近くに行ってよく確かめてみると、犬はいないようだが、かじる用の骨や水飲みの容器が捨て置かれている。
「『水を』」
とりあえず銀の容器に水を満たし、オオカミに渡してみる。
「ほれ」
「ぐ…」
オオカミは私の顔をじっと見ていたが、ふっと頭を下ろすと舌をぺろぺろと動かして水を飲み始めた。
すっかり信頼されたみたいだ。
「少し休んでおくといい」
昔からオオカミや犬は狩猟のためだけでなく、愛玩動物としても愛されてきた。
ふさふさの毛につぶらな瞳。
敵意を向けられないのであれば、可愛い、のか?
久しく思ったことのない感情が湧いてくる。
「……」
だが、お前は愛嬌の欠片もないな。
「おい、殺されたくなかったら食料を出せ」
近くの木立から、ぬるりと男が現れた。
「ぐるるるう…!」
賊に向かって、オオカミが再び警戒の体勢を取る。
ボサボサの頭で口元はバンダナで覆い、右手には鉈、左手には杖を持っている。
一人か。魔物だらけの森から小屋までやってくるとは、そこそこの手練れだね。
「ペットか?」
「いいや」
「どっちでもいい、殺されたくなかったら…」
「それこそ…」
…どっちでもいい。
男の言葉を遮って、私は右手を向ける。
「っ!『ファイア・…』」
「『痛みを」」
男が慌てて杖を構えて魔法を唱える前に、私の魔法が発動する。
終わり。
皮膚、目、耳、鼻などの神経細胞に魔法が作用し、全身の感覚を瞬時に奪う。
「…」
どう。
と音を立て、男は物言わず倒れ伏した。
「とんだ邪魔が入った」
私は男に近づき、その手から鉈を奪い取る。
「んー…」
そして、少し思案。
長ったらしい呪文を言わないと魔法が使えない、そもそも魔法を使うのに杖を必要とする時点でたかが知れているが、魔法を発動しようとした。
だから、こいつは一応魔法使いではある。
「まあ、やって損はしないか」
オオカミのケガを癒す時間もいるし、もう少しこの小屋に留まる必要がある。
解剖、してもいい。
「オオカミもいることだし…」
男の体格は良く、飢えた魔物の腹は満たせそうだ。
まあ、今は私の食べるものがないんだが。
「…頭があればいいか」
私はそんなことを思いながらも、意外にも手入れが行き届き、切れ味の良い鉈を大きく振りかぶった。