パスタとストロングゼロ
「あれ、キミまた飲んでるん?」
お風呂上がり、ソファでくつろいでいる俺を見てミヤコさんは言う。湿った指先で俺の手から缶を奪い取ると、ストロングゼロかぁ、と呟いた。
「そんな飲んどったらなぁ、将来脳卒中なって死ぬで」
「いんだよ。長生きはしたくないから」
「キミなぁ、そりゃコロっと死ねたらもうけもんやけど、左半身不随とかなってみ? 大変やで」
「そん時は自分で死ぬからいい」
ミヤコさんは俺の手にストゼロを戻す。ガハハっと豪快に笑うと、ベランダのサッシにもたれかかるようにして座った。ミヤコさんは3年前の夏に大阪から上京してきたらしく、未だに関西弁で話している。彼女はかたくなに俺のことを"キミ"と呼ぶ。どこか不釣り合いな気がする。
「やっぱキミはおもろいわ。ひねくれすぎやろ」
「いんだよ」
ぶっきらぼうに返すと、ほんの少し胸が痛んだ。こういうところを、彼女はひねくれている、というんだろう。
クールに、粋に、大人に生きようとするのにどこか上手くいかない。いつしかミヤコさんは俺のことを、不良少年になりきれない優等生だ、と言った。ミヤコさんに特別に思われることに特別を感じていた俺は、そんなありきたりな人物像に不満を述べたけれど、彼女は笑っただけだった。決して、勝たせてもらえない。
「それで、どうなん。今日はおもろいことあった?」
「そんな毎日面白いことが起きるわけじゃないよ」
「まぁ、そりゃそやな」
さっきからちびちびと舐めていたチューハイをテーブルに置く。雫が表面を伝い、テーブルに輪を作った。ミヤコさんに向けて、正座する。"面白いこと"を思いついた。
「俺はミヤコさんと出会ったことほど面白いこと、これからないと思うよ」
「何なん急に」
「いや、何となくそう思っただけ」
「ふーん。高校はどうやった?」
「はぐらかした?」
「ウチ、そういう甘い雰囲気あんま得意じゃないから」
「ふーん」
思わずニヤリと笑った。
ミヤコさんは若いのに俺よりずっと大人で、親なんかよりも大人な気がする。もし大人ではないとしても、スマートな大人、というものをきちんと心得ている。でもそんなミヤコさんが、こうやって照れる瞬間、俺は好きだ。余裕のある大人が慌てるのは、可愛い。
「雨の日だったよね」
「そうやね」
「図書館だったね」
「そやな」
「映画みたいにさ、棚の隙間で目があって」
「うん」
「何回かそうやって出会って、隣の純喫茶で喋ったよね」
「おん」
「俺が誘ってさ」
「ウチの家行ったな」
「まさか付き合うとは思わなかったけど」
「ウチも思わんかったわ」
ミヤコさんはふぅ、とため息をついた。どんな意味があるんだろうか。俺との問答にうんざりした? はたまた過去を思い出した?
「ミヤコさん俺のことどう思った?」
「なんか大変なん捕まえちゃったかもなぁ、とは思った」
「ちょっと他の人と違った?」
「キミ、そういうの好きよな」
「別に好きってわけじゃないけど」
ただ、他の人と違うような、それこそミヤコさんのような、深い一面を持ってる人って素敵だと思うのだ。俺はそういう人間になりたい。
「まぁ、キミは考えすぎやな。人と違う、なんて当たり前やし、人と一緒っていうのも当たり前や」
ずっと空を見ていたミヤコさんが、ようやく俺に目を向けた。流し目がよく似合う。切れ長の目に、小さな鼻。下唇が少し分厚い。ミヤコさんは美人ではないけど、綺麗だ。
「人と違う必要もないし、同じである必要も、素でいる必要もないねんで。キミは、無理やり素の自分を取り繕おうと努力しすぎてん。あともう少し進んだら、イタいで」
「イタい……」
「そりゃ憧れがあるのは分かるけどなぁ、ウチもそうやし。でもなぁ、なんていうか、キミは自分の本音が聞けんくなってるんや。それが隣で見ててすごいよく分かるから、痛々しいな、て思った」
けっこうなことを言われている気がする。ミヤコさんの言葉は、ズブズブと刺さった。ここまでは初めて言われたが、それでも辞められないのは、憧れがすぐ近くにいるからかもしれない。ミヤコさんには絶対言わないけど。
「ミヤコさんことあるごとにそれ言うけどさぁ、そんなに?」
「まぁ、ウチが年相応なとこ見たことないからかもしれんけど。教室での姿は知らんからなぁ」
「俺、学校では普通だと思う」
「せやろな。写真とか見てたら、そんな気がするわ。たまに迷った顔もしてるけど」
「ふーん」
ミヤコさんの吐き出す言葉は詩のようでよく分からない。ミヤコさんこそ、取り繕っているんじゃないの?
取り繕っていて欲しくはないけど。
「もうちょい直感を頼ったら?」
「直感、ねぇ」
「ただしたいこと、をよく考えるのも、たまにはえぇことやで。自分を見間違えにくくなるからな」
「したいこと、かぁ」
何となく下の方に目を向ける。短パンから見える、ガールフレンドの真っ白い脚。薄い皮膚に、肉と油が詰まってそう。
一度、ナイフを滑らせたらどうなるんだろう、と考えたことがあった。きっと、血が出て、それから、脂肪と筋肉がパンッと弾けるんだろうな。
噛み付いた太ももは鉄臭い血の味しかしなかったけど。
「お腹すいたな」
「さすが男子高校生やな。なんか作ったるわ」
ミヤコさんの体は、捕食対象に近い。欲求をそのまま口から出すと、彼女は立ち上がった。
「今日は何もしなかった」
「まぁええんちゃう? そんな日があっても」
台所に立つ後ろ姿を眺めつつ思い出す。
初めてミヤコさんの家に行った日、色気のないピロートークで、今日は良かった、とミヤコさんは言った。俺といる間、ずっと本能的だったんだって。俺にはよく分からない。
『普段考えすぎちゃうから』
あの頃はミヤコさんも俺も、もう少し幼かった。今日俺はあの日のミヤコさんと同い年になったけれど、少しは追いつけているだろうか。
「バースデーケーキ、結局明日になってもうたな」
「一日ズレるくらい、変わんないでしょ」
「それもそうやな」
確かにミヤコさんを見ていると、どことなく動物的な気はする。時の流れに身を任せて生きている。
「18歳、かぁ」
「結婚できる歳やな」
「そうだね」
コトン、と音を立てて目の前に2つ皿が置かれた。赤いパスタ。今から俺に詰め込まれるそれは、ミヤコさんをも構成するのだ。
それはきっと肉となり脂肪となり、あの太ももを作るのだろう。俺が噛み付くと、また鉄臭い味をさせるのだ。
「美味しいな」
「そうやね」
彼女のパスタを頬張っていたら、なんだか泣けてきた。ミヤコさんは不思議そうに手のひらで拭う。柔らかくて、温かい手だ。
「俺、ずっとこうしてたい」
「ウチもそうやな」
「やっぱり長生きしてたいかもしれない」
「うん」
「八十まで生きたとしても、あと六十二年かって今、そう思った」
「そうやな。でもまぁ、しゃあないで。そういうもんや」
ほら、人生諦めが肝心って言うやん。
そう言ってパスタを口に含むミヤコさんだって、諦めが悪いことを俺は知ってる。
ずっと大人に見える彼女が時折、我慢してることを俺は知ってる。実はそれだけ彼女が幼いことも。
「確かに優等生かもしれないな。俺たち二人」
「うん?」
「何となくそう思っただけ」
でもまぁ、そうだ。
人生諦めが肝心。引き際が肝心、なのかもしれない。
俺はもう一度、パスタを飲み込んだ。台所に行き、麦茶なんて気のきいたものはないから、水道水をコップに入れる。
「ミヤコさん、お酒飲む?」
「今?」
「そう、今」
水道水を呷って、残りのストゼロを差し出す。ミヤコさんはもう飲める歳のはず。
「ん、分かった」
少し驚いた顔をして、白い喉が動くのを、俺はじっと見つめた。外では何かを祝福するかのように、鳥が切なく鳴きだした。
面白いな、良いな、と思っていただけたら、ブクマ、評価、感想、レビューいただけるととても嬉しいです!