1-06.不意討ち
シンは背後を振り返る。
「な、なんだよ。コイツは」
醜い小鬼だ。
ものすごく醜悪で、生理的嫌悪を感じさせた。
見た目は、昔話の御伽草子に登場する餓鬼に似ている。貌は歪にひしゃげていた。
身体は小さくて、子供サイズくらい。体躯のバランスは崩れていて、じつに気味悪い姿形である。
緑の鬼は太い枝を持っている。
ソレを棍棒のようにふり回して殴ったのだ。
ゲヒッ、ゲヒッ。
魔物は下卑た笑い声をあげた。
太枝を大地に叩きつけて、彼を脅かそうとする。
バシバシと音がする度に、性悪鬼は奇声を出すのだ。弱い者イジメをすることに愉悦を感じている。
ヤツの表情は下種そのもの。
シンは、悲鳴をあげてしまった。
少しでも離れようとするけれど、身が竦んで動けない。
情けないけれど、恐怖のあまりチョッピリ漏れた。
「こ、こっちに来るな!」
腰が抜けて、立てない。
お尻を地面につけたまま、距離を空けようと両手で退いた。
右手が痛いのは拳をつくっていたから。
手にはある物を握っているのに、ようやく気づく。
小型ナイフだ。
すこし冷静になれた。これなら反撃できる。
なにもしなければ、己の命が危ない。
一方的に嬲られるだけなんてまっぴらご免である。
ここは勇気を振り絞って戦うべき正念場だ。
「や、やるぞ。やってやるぞ!」
思いっきり、武器を突き出す。
最適のタイミングを狙ったつもりだった。
実際のところは情けないもの。相手を良く見ていないうえに無理な体勢からの攻めだ。へっぴり腰で、刃先に充分なパワーがのっていない。
それでも攻撃は成功。
ヤツは油断しきっていて無警戒だったこともある。
脅すことに夢中で、逆襲されるとは考えていなかった。刃は鬼の脇腹に刺さり、身体をのけ反らせる。
「うわあぁ~」
シンは勢い余って倒れ込んでしまった。
小鬼と連れあいながら、地面をゴロゴロと転げてゆく。
そのまま魔物の上になり、優位な位置になった。
しかし、敵も懸命に抵抗するので、撥ね飛ばされてしまう。
こちらも、全身の力を使って相手をひっくり返した。
「この、この、この。お前なんかに負けるものか!」
まるで子供の喧嘩のよう。
完全に低レベルの争いであった。
はた目にはジャレているみたいだが、当事者は必死だ。
それでも、戦いは優勢に推移する。
武器の違いが、差になって現れたのだ。
彼のナイフは鉄製なのに対して、鬼の得物は太い木枝。
そのうえ、取っ組み合いの接近戦であれば、短い刃物のほうが有利になる。小鬼が持つ太枝は、長さが災いして有効打を放てない。
やがて、怪我にも差異がでてきた。
彼自身の傷は、打撲によるもので軽い。
相手は多数の切傷で全身血だらけ。
時間がすぎるにつれて、徐々に優劣がはっきりしてくる。
「離せ、はなせ。コイツ、しつこいぞ」
シンは、敵の腹を蹴りつけて離脱。
身の安全が最優先だ。
自分の命が大切なのであって、ヤツを退治しようなんて余計なことはしない。
「い、いまだ。今なら逃げられる」
都合のよいことに、彼が拠点とする施設は近かった。
そこまで達すれば助かるはず。
外に出るのは初めてなので、遠出は控えていた。
運が良い。とにかく全力で走ろう。
当然、小鬼は追いかけてくる。
血に飢えた魔物だし、少々の傷なんかは無視していた。
ただ、怒り狂ったせいで、棍棒替わりの太枝を途中で捨てている。身軽になった鬼は速い。再び、アイツに捕まるのは時間の問題だ。
「うわっ!」
シンは、躓いて、ドテッと転倒。
逃走することに夢中で、足元の注意が疎かになっていた。
頭から地面に突っ込んでしまう。
目の前がチカチカと点滅してフラついた。
鼻からボタボタと血液が垂れ流れてくるけれど、怪我を気にする余裕はない。
「しまった。ナイフを手放してしまった!」
たったひとつの武器なのに。
アレがなければ殺されてしまう。
「ど、どこだ、どこにある?」
慌てて得物を捜した。
キョロキョロと周囲を見渡す。
数メートルほど前方に転がっていた。
「み、みつけた。早く取り戻さないと危ない」
必死になって進む。
強く頭部を打ったせいで眩暈がした。
思うように手足が動かない。
鬼に襲われるという恐怖が、のしかかってくる。
「ああ、間に合った」
振り返りざまにナイフを突きだした。
相手を見定める精神的余裕なんてない。
自分を勇気づけるために大声を出して、唯一の武器をふり回す。
「うわゎ~、あっちに行け。こっちに来んなよ!」
敵の姿は見えていない。
もう、完全に視野狭窄に陥っていたからだ。
無茶苦茶な動作は、体力を消耗させる。
すぐに疲れてしまった。
立っているのも困難な状態だ。
軽い短剣ですら手放したい。
そんな情けないあり様になって、ようやく魔物の様子に気づいた。
「ど、どうした? コイツ、なんだか変だぞ」
ヤツは不可解な動きをしている。
ちょっと前進しては、ズリズリと後退する
同じ行為を繰り返すばかりだ。
ガチガチと牙を鳴らして威嚇していた。しかし、ときおり怯える表情を浮かべる。
小鬼は相反する感情で板挟みになっていた。
ひとつは、恐れの気持ち。この場所から離れたいという根拠不明な衝動。
ふたつめは、本能的な獣欲。眼前の人間を切り裂きたいという、魔物本来の攻撃欲だ。
まったく正反対の思いが原因で、進んでは退くという、意味不明な反復行為を続けていたのだ。
その隙に、彼は逃げることに成功。
「はぁ、はぁ」
全力疾走で本拠地の施設へと到着する。
ここなら安全だ。安心して休める。
水を一杯飲んで、息を落ち着かせた。
しばらくして、ようやく助かったのだと実感がわいてくる。
鬼に襲われた恐怖が蘇ってきて、身体がガクガクと震えた。
「怖かったよぅ」
涙がポロポロと流れでた。
翌日。
シンはミドリの部屋へとむかう。
小鬼について質問するためだ。ついでにバケモノの謎の行動についても確かめたい。彼女に、いままでの出来事を伝えた。
「……といった具合なんだ。で、これらに関連することを教えて欲しいのだけど」
「回答します。状況を聞くかぎり、魔物の一種ですね」
名称は【緑色小鬼】。
地方によっては【餓鬼】とも呼ばれる生物だ。
どんな地域でも見かけるモンスターだという。弱小だけれど、繁殖力が強くてあらゆる場所で発生する厄介者である。
まるでゴキブリみたいだ。
「どこにでも生息するって……。あんなに危ないヤツが、周辺に徘徊しているのか。なら、どうして事前に危険だと警告してくれなかったのさ」
「回答します。施設近辺における脅威について、質問されていないからです。尋ねられれば、ちゃんとお答えしていました」
「またそれかよ! あらかじめ重要な情報は伝えてくれたっていいじゃない。もうちょっと気を利かせてよ」
おもわずキレてしまった。
悪い意味で“お役所的な応対”をするミドリを詰る。
この補助人格との意思疎通は、注意を要する。
彼女は、質疑応答できる能力を有しており、大変に優秀だ。
しかし、細やかな配慮が及ぶことは“ない”。
問われたことに返答するだけ。人間のような当意即妙な会話は不可能。あくまで、研究や実験を補助する存在として調整されているからだ。
シンにも“甘え”があった。
相手の弱点を認識しているつもりだけれど、まったく用心が足りていない。無意識のうちに、適切な助言をしてくれると思い込んでいた。
だから、同じ過ちを繰り返すことになる。
「ハア、ハア、もういいや。これからは気をつけて」
さんざん怒鳴り散らして、疲れてしまった。
どれだけ罵声をあびせても、魔造結晶体には通じない。喧嘩にならないし、完全に独り相撲になってしまう。
気持ちを落ちつかせて、施設の防御機構について教えてもった。
「回答します。【緑色小鬼】を退けたのは防衛用魔導具のひとつです。精神的圧力をかけるタイプで、目的は魔物を追い払うこと。
低位のバケモノだと抵抗できず、恐怖を感じて退散しますね。撃退は不可能ですが、運用コストが低いので数多く配置しています」
「ほほう。じゃあ、他にどんなのがあるの?」
防御装置は多種多様であった。
例えば、物理的に侵入者を強制排除するモデル。攻撃魔法が発動する形式や、敵の認識力を低下させるものなど。
それらが幾重にも連なって拠点を防衛しているとのこと。
五百余年ものあいだ、外敵を排除し続けてきた実績つきだ。かなり強力な防御力である。
ちなみに、防衛用機器は施設周辺にしか設置していない。
彼が安全圏内へと逃げ込めたのは幸運そのもの。巡り合わせが悪ければ、生命を失っていただろう。
「運が良かったんだなぁ。にしても、今の状態だと外出するのは危ないのか。かといって、現状維持はできないし」
いずれ食料は尽きてしまう。
食べ物を調達しないと、飢死するのは確実だ。
かといって、現在の自分は非力だし、身を守れない。
外に出て果樹などを採取するのは自殺行為である。
「反省すべきことが多いよなぁ」
そもそも、無警戒すぎた。
周囲の安全確認も怠っている。事前にミドリから情報収集していれば、危険を回避できたはずだ。
さらに覚悟もなかった。
あるいは、“戦う気構え”と言い換えてもいい。
小鬼に襲われ、無我夢中でナイフを振り回しただけ。冷静さを欠いて、魔法を使うことさえ思い浮かばなかった。
「魔物に勝てるようにしなきゃ」
シンは、己を鍛えなおすことにした。
肉体的にも精神的にも強くならねば。
まずは基礎体力の向上。
何をするにしても体力は必須だ。逃げるにしても、敵と争うにしてもスタミナがないと話にならない。
持久力をつけるために、走りまわった。筋力をアップさせるべく、ウエイト・トレーニングもおこなう。
同様に魔術技能も訓練した。
今まで取得したのは、初歩級のものばかりで攻撃力は皆無。
だから、身を守るための魔導技術を【情報転写】で習得してゆく。攻撃系だけでなく、防御系や探査系など多岐にわたった。
もちろん、実地練習もみっちりとこなす。
三ケ月間後。
充分な“力”を得たと判断した。
小鬼一匹程度なら楽勝だ。
たとえ複数であっても余裕で撃退できる実力はある。
―――さあ、復讐戦やで。
やられっぱなしは性に合わへん。
小鬼め、キッチリとお返ししたるさかい待っとれや。