2-10.言祝ぎ
夜半。
月が天高く昇り、青白く柔らかな光で大地を照らしている。
泉を中心にしたあたりの場所は開けているので、けっこう明るい。
今宵、この現世に新しき神が誕生する。
それに対応するために召集された者が三人いた。
【清め司】の老女。
【禍祓い】の若い女性。
【言祝ぎ】のシン。
今回、神事全般を取り仕切る役は、【清め司】である。
老婦人は組み立て式の簡易な祭壇の前にゆるりと座った。
ハッキリした口調で儀式の開始を宣言する。
「これより、現在世に生まれ出でます新御神をお迎えいたす。おのおのがた、諸事万端、己が務めを抜かりなく果たされよ。
では、【禍祓い】殿、お願いいたす」
「はい」
見た目も麗しい娘が進みでる。
手にしているのは、短剣と鈴。
短い小剣は儀式用のもの。
なにもない空間にむかって、切るように剣を左へ右へと動かした。
同時に左手首に引っかけていた金鈴が鳴る。
シャリン シャリン
軽やかな音色があたりに響く。
鈴は小さい。音量とて微々たるもの。
それなのに、なぜか音響が遠くにまで届く。
女性はゆっくりと歩いてゆく。
小型の片刃剣を打振り、小鈴を揺らしながら、泉岸をすすんだ。
通り過ぎたあとの空気が明らかに変化している。
シンは、思わず感嘆の声をあげてしまった。
「ほう、これが禍祓いか。なんとも凄まじい」
邪気や穢れを祓っているのだ。
今回、彼女の役目は、新しい神が誕生するのにふさわしい空間を設えること。
振るうは、神器の短剣。
国家が保有していたなら、国宝扱いすること確実な品である。
ただし、常人では使うどころか、触れることすら能わない。それほどの強烈な神気を放っていた。
たとえ、彼であっても手に取ることは不可能だ。
左手にある鈴も、同じく神器。
耳に心地よい涼やかな音色は、結界を形成し邪悪なるモノを排除してゆく。人間や魔物を問わず、あらゆる悪しき存在を許さない。
「おいおい、神の御業と同等の権能じゃないか。
もう、人が為せるレベルではないぞ。いったい、彼女は何者だ?」
【禍祓い】の女性。
神器を二つ同時に使うなんて信じられない。
見かけこそ若いが、中身はとんでもない力量の持ち主だ。
さすが、神々から召集されるだけのことはある。
そんな人物が泉の周りをグルリと一周して元の位置にもどってきた。
【清め司】が、満足したようにうなずく。
「ふんむ、【禍祓い】殿、お勤めご苦労でござった。
ここから先は、わたくしが相務めようぞ」
老女が木枝と手桶を手にして立ちあがった。
右手に握る榊の枝を桶水にひたす。
それを左右に振って、葉っぱについた水を散らしてゆく。
水飛沫はフヨフヨと宙を漂った。
不思議なことに、地面に落ちることなく空中に留まり続ける。しかも、水滴がさらに分裂して広がってゆくのだ。
キラキラと輝く水粒は幾度も分散を重ねて、あたりは淡い光を放つ霧で覆われてしまった。
シンは、驚きの言葉が漏れてしまう。
「浄化の儀式がこれほどのものとは……」
【清め司】は、空間を作り変えていた。
この世界は、現世の理が支配している。
だが、あの老婦人は周辺一帯を天之世の理にしたがう神域へと変質させたのだ。
泉周辺を神域化した理由。
生まれ出る新御神が、現在世に顕現する際のショックを和らげるため。
たとえるなら、出産直後の赤子を清めるのに、暖かなお湯を用意するようなもの。冷たい水だと、赤ちゃんはビックリして泣いてしまう。
「ここまでくれば、もう奇跡と表現しても良いくらいだぞ」
媼が為したのは神業級の現象。
もちろん、ひと時のものであって永続的ではない。
とはいえ彼女がやっていることは、神々や大精霊といった超越的存在がおこなう御業だ。
泉に変化がおきていた。
水面は鏡のようになっていて、畔の樹々や月をきれいに映している。不自然なほど、揺れひとつなく、まっ平な状態。
つい先刻まで風に吹かれて、さざ波がたっていたのに……。
【清め司】の老女が、ひと回りして元の場所に戻ってきた。
「この場のお清めは済ませたぞい。お次は【言祝ぎ】殿じゃ。よろしゅうたのむ」
「ええ、わかりました」
シンは静かに立ちあがった。
深呼吸して雑念を追い払い、気を充実させる。
『いろは四十八神に招ぎ奉りませ。
ひふみよいむなや こともちろらねしきる……』
自然体のまま言霊をつむぐ。
口にする言葉については何も考えていない。
勝手に祝詞が出てくるのに身を任せていた。そもそも、祭詞なんて知らないし、日常生活において、こんな古風な言い回しはしない。
にもかかわらず、祝福の言辞がスラスラとでてくるのが、我ながら不思議だ。
【清め司】は思わずポロリと声がでてしまう。
「なるほど、【言祝ぎ】殿は、神降ろしを為すのか」
普段の彼女は泰然自若としている。
感情を表にあらわすことはしない。
だが、今は大きく目を見開き、滅多にみせない表情だ。
媼とて強大な“力”をふるう人物だ。
今回の神事において、儀式全体を仕切るのも、ちゃんとした実力と実績に裏打ちされてのこと。
さらに、大規模な組織の長を務めている。
さまざまな種類の人間を観る機会は多いが、自分を越える“パワー”の持ち主は少ない。
ところが、いきなり驚愕させられてしまった。初対面の青年が途方もない業を発揮しているのだから。
「これほどの益荒男が野に埋もれているとは。
まこと世界は広いのう。儂はけっこう世間を知っているつもりじゃった。じゃが、それは勘違い。己の未熟さを痛感したわい」
「ええ、おっしゃるとおりですね。にしても、彼の者の声、まこと耳に心地良い」
【禍祓い】も衝撃をうけていた。
いつもはクール・ビューティな感じ。
しかし、今は軽く口をあけたままで、ちょっと可愛らしい。
彼女は、男が音吐朗々と慶する姿を見つめる。唇の端が少しだけ上がって、あるかなしかの笑顔を浮かべているのが、妙に神秘的だ。
「このような御神業は初めて目にします。加えて、あの詞は何処の国の言葉なのでしょうか?」
「知らんのう。聞いたことがない言辞じゃ」
ふたりには祝詞を理解できない。
なぜなら、シンが発するのは大和言葉だから。
この異世界には存在しない言語なのだし、判らなくて当然のことであろう。
それでも自然と認識させられてしまう。
あり得ない事象を目撃しているという事実を。
「じゃが、儂には分かる。アレが紡ぐ言霊は神様そのものじゃ。言の葉が重なるたびに、見えない超常的存在が次々と降臨してくるのじゃよ」
【言霊奉法】は注意が必要だ。
祝賀や鎮魂などの祭事で使用するには、たいへん理想的なもの。
逆に、邪念や怨みを込めて使うと悪影響がでてしまう。
だから、シンは、日常生活においても言葉使いには気をつけていた。毒念や恨みのこもるような台詞を口にしないように心掛けている。
『ひさかたの天照る月は 現世に千歳をかねて…… 』
言祝ぎ。
現在世に、新しい神が生まれ出ることを、歓び祝うもの。祝福の言辞は、その一つ一つに神様が宿る言霊だ。
つまり、世の神々が寿いでいるのと同じである。
【清め司】が泉の変化を察知した。
「どうやら、お越しになったようじゃの」
「はい」
水面に異変がおきている。
見えている岸辺の景色と、泉面に映っているものが違うのだ。
水が反映する樹木にはおおきなサナギがくっついていた。
現実にはそんなモノはない。
泉水に現れる光景。それは、現世ではなく天之世のものであった。
『あめつちのひらけしとき…… 』
樹の幹にくっついていたサナギが動く。
頭のほうが上下左右に揺れて、背中がピキッと割れた。
裂け目から、ナニかがゆっくりと頭部を出し、濡れていた羽根を乾かそうと広げる。
それらの現象は水鏡のなかだけのこと。
現在世の大樹にはなにもいない。
『……弥栄ましませ、弥栄ましませ』
いつの間にか、新御神が泉の中央に浮かんでいた。
姿は判別できない。
大きく綺麗な蝶のようだ。
しかし、なぜかハッキリとはしなかった。
相手の外見を確かめようとしても、意識を集中できないのだ。なんだかモヤっとしたものが、頭脳に覆いかぶさって思考を邪魔している感じ。
どうやら、新神を視認するのは禁止されているらしい。
魔法に【認識阻害】とういものがある。
それと似ているけれど、彼が経験しているのは、そんな矮小なものではない。もっと根源的なところ、いうなれば魂の次元で制限がかかっていた。
今までに幾つもの超越的存在に出会ってきた。
たとえば、【嵐の巨神】や【昏森の精霊】。
さらに上位階梯者ならば【太陽神】など。
程度の差はあれども、姿を視ることができた。
だが、この新神様は不可視の存在だ。
まったく別種の神様なのだろう。
“大儀であった”
神からの思念が届く。
言葉や文字ではない。
深層意識が勝手に意訳しただけ。
ほんとうは感謝の念が、ダイレクトに伝わってきたのだ。
彼は頭をさげて返答する。
【清め司】や【禍祓い】も同じ動作をしていた。
「さほどのことではありません。お役に立てて、何よりでございます」
新御神がゆっくりと消えてゆく。
強烈な存在感が徐々に薄くなり、やがて消滅してしまった。
シンは、ホゥと大きく息をはく。
時間的には短かったのだが、身体にも精神にも相当の負担がかかった。思いのほか疲れている。
「どうやら、お発ちになったようで」
「うむ、そうじゃな。にしても、お姿すらお見せにならぬとは……。あれは別天津神か、その類のご一柱であろうかの」
「ええ、おそらくは。人間はもちろん神々も知らぬところで蔭働きをなさるのでしょうね」
こうして、彼らの仕事は無事に終わった。
■現在のシンの基本状態
HP:172/172
MP:183/183
LP:63/90
活動限界まで、あと六十三日。