2-01.出発
コポッ。
小さな気泡が水面ではじける。
破裂音が水中を伝わって鼓膜に響いた。
しかし、どこか遠くのことのように感じる。
意識がぼんやりとしたままだ。
眠っているのか、目覚めているのか判らない中途半端な状態。
なんとなく心地良い。ずっと微睡んでいたい気分が、幾分か優っていた。
それでも、時間が過ぎるにしたがって身体のほうが勝手に覚醒してゆく。
シンは、カプセルから体を起こした。
ゲボゲボと肺から溶液を吐き出す。
むせながらも空気を吸い込んだ。
「ハァ、ハァ……。水中呼吸から空気呼吸の切り替えは、あいかわらず苦しいな。何度も繰り返しているけれど、慣れそうにない」
彼の肉体は、すっかり大人のものになっている。
身の丈はかなり高い。
発達した筋肉が全身をおおっていた。
まことに、たくましい体躯だ。
手慣れた手順で魔法の【状態管理】を発動させる。
<基本状態>
HP:172/172
MP:183/183(更新181→183)
LP:90/90
「十年間もの年月をかけて、ここまできたか」
異世界で覚醒して以降、各項目の上限値を引き上げてきた。
特に配慮すべきは【L P】。
現在の値は“90”。
数値が意味するところは、彼の稼働可能な期間は九十日間。逆の表現をすれば、約三ケ月間で命が尽きてしまうということ。
これでも随分と日数は伸びたのだ。
なにしろ、最初期は“15”しかなかった。
あまりにも短命すぎる寿命であったが、再生処理を何度も繰り返している。
魔造結晶体のミドリが声をかけてくる。
「想定よりも早く、活動可能期間を延長できました。すばらしいことです」
「ああ、ありがとう。でも、残念ながら、いま以上のLP数値上昇は無理だ」
理由は技術的な問題だ。
彼女が保有している錬金術や魔法の知識では、さらなる身体改造は不可能。【HP】や【MP】の数値引き上げはできるのに、肝心な【LP】の向上ができないのだから困ったものだ。
「しかし、希望はあるさ。外部から新しい関連情報を取得すれば良いんだよ」
彼を錬成した技術は、約五百年前のもの。
五世紀もの期間が経過しているのだから、相応に文明社会は進歩しているはず。最新の魔導知識を入手して、それを活用すれば寿命を延ばせるであろう。
シンは差し出されたバスタオルを受け取った。
「ありがとう」
タオルを渡してくれたのは、美しい女性。
ただし、見た目は大理石像にそっくり。
古代ギリシャ・ローマ時代の彫刻が動いているよう感じだ。
彼女たちは【ツクモ族】という。
ちゃんとした自意識のある錬成人間だ。
いちいち命令せずとも己の意志で物事を決定し、自主的に行動する。その在り方は、指示待ちの魔導人形ではなかった。
れっきとした個性を持つ、ひとつの人格である。
ツクモ族が生まれたきっかけ。
シンに【天啓】が降りてきたことから始まった。
【天啓】。
それは、神や精霊といった上位階梯者から、お告げを授かること。正体不明の存在かが、彼の頭脳にとんでもない知識を突っ込んできた。
このとき、失神してしまう。
いきなりの衝撃に、身体と精神が耐えられなかったせいだ。しばらくして目を覚ますと、居ても立ってもおれない強い感情にせっつかれた。
黙々と【ツクモ族】の制作にとりかかる。
何者かに、とり憑かれたようであった。
記憶は確かにある。
でも、手が勝手に動いてテキパキと作業をすすめてゆく。
「あのときは、誰かが乗り移った感じだったよなぁ。絶対に自分自身の意思ではない。まったく、本人にしてみれば、迷惑千万な所業じゃないか」
希少な素材を惜しみもなく使った。
【人外魔境の大森林】でしか入手できないモノばかりだ。
たとえば、三つ角竜といった竜種や、その他強力な魔物たちからはぎ取った生体素材。滅多に見ない植物や、地底奥深くから掘り出した鉱石類など。
魔力の塊である【地母神の雫】をジャブジャブと消費しての錬金加工。
他にも、彼が【奈落】と名付けた危険な場所での諸作業。
【言霊奏法】をぶっ続けで十日間もおこなうという、難行苦行の連続である。
「まさに、前人未到の超高度な錬金技法。複雑にして緻密。幾度も実行しているけれど、私自身が為したことが、いまだに信じられないくらいだ」
補助人格ミドリが応える。
「ええ、おっしゃるとおりですね。わたしのアーカイブにも該当する情報はありません。人類を超える上位階梯者の技術だとおもって良いでしょう」
【天啓】の送り主に質問したいが、それは無理。
相手は、【嵐の巨神】やら【昏森の精霊】と同類の超常的存在なのだ。そんな訳のわからないモノが、こちらの都合を無視して一方的に知識を与えてきた。
問いただそうにも、対象者がどこの誰かも判らない。
結局、我が身に起きたことすべてを受け入れるしかなかった。
現在、ツクモ族の数は約三百名。
シンが計画して錬成したワケではない。
初めは三人分ほど作成すれば充分だと思っていたけど、当の本人たちが仲間を増やしてくれと懇願してきたのだ。
といっても、彼女らは声をだせない。
身体は大理石のようなものだし、発声器官がないので会話は不可能。
それでも意思疎通はできる。
最初は身振り手振りからはじまった。
やがて、筆談を経て、最後には補助人格ミドリを介して要望を伝えてきた。どういった理屈かは不明だが、人間の可聴域を超えた高周波帯で対話できるらしい。
こうして誕生した【ツクモ族】は自らの意思で働きだした。
彼らは、岩石兵士や土木専用ゴーレムたちを指揮して、施設の改造工事をはじめる。
各部屋は細やかで丁寧な装飾が施された。
元は岩石を掘削しただけの殺風景なものだったのに、部屋を豪華絢爛なものへと改修。廊下も、岩の壁だけの地味なものが、列柱が規則正しく並び立つ幾何学的で美しいものへと大変身。
「いまでは、【岩窟宮殿】の呼称がふさわしい。前世地球にあったお城よりも立派だ」
「ええ、威厳がありつつも壮麗。かつ、華美にならず、品よくまとめています。ただし、いまだ未完成ですが」
「そうなんだよねぇ。工事は続行中で、地下領域がどんどんと広がっている。私としては、充分な面積はあるし、住環境は整っていると思うのだけれど」
なぜか、ツクモ族たちは拡張作業を続けていた。
他の作業も並行しておこなっている。
大森林から伐採してきた木材を加工して家具やら工芸品やらの製作。
衣服の作成も同様だ。原料になる特定植物を探してきて綺麗な布を織り、次つぎと衣類を仕立てた。
地球の現代風の衣装もあったりする。
彼らにお願いされて、幾枚も描いたデザイン画が採用されたのだ。不思議なことに、警察や軍隊の制服系の評判がよい。
いまでは、多種多様な服装が流通している。
実際、眼前の【ツクモ族】女性はビジネス・スーツを着用。
どこぞの高級ホテルのコンシェルジェかと思うようなキッチリとしたものだ。見栄えも良くて非常に美しい。
はじめて彼女らの制服姿を見たとき、シンは驚いたものだ。
―――むっちゃ違和感があるやんけ。
なんで、古代ギリシャ風の大理石像と、キリリとした制服の組み合わせなんやろか? まあ、慣れれば見目もイイけどな。
それは素直に認めるわ。
というか、似合っているって褒めなアカン感じやねん。
だって、嬉しそうな態度で新しい服装をお披露目されたら、賞賛するしかあらへんやん。ウチ、けっこう気が弱いかもしれへんなぁ。
「さて、身支度をしたい。手伝ってくれるかな」
ツクモ族の女性が、衣類をもってきてくれた。
いま、シンがいるのは【岩柱砦】だ。
そこは数ある中継点のひとつ。
本拠地の【岩窟宮殿】から二百キロ以上も離れたところにある。外部社会と接するための最前線基地として建設した。
五年前のこと。
人間がいる場所を発見した。
多大な努力を積みかさねた末の成果である。
鳥型ゴーレムの改良を重ねて飛行距離を伸ばした。広範囲の探索をするための観測用中継点を設置し、補給路で結び、観察網を構築。
ただし、接触は不可能であった。
理由は距離が遠すぎたため。
おまけに【人外魔境の大森林】の魔物が強すぎる。群れ為すバケモノどもを撃退しつつ、長距離を突破するだけの実力は、彼には“なかった”。
そこで、入念な計画を立案した。
数年単位の長期なものだ。
飛行型の魔導人形で地形探索して最適ルートを選定。目的地までの中継基地を幾つも築いた。移動経路上にいる強力な魔獣を、罠を仕掛けるだとか襲撃して数を間引いてゆく。
「準備期間は長かったけれど、おかげで戦闘訓練はみっちりとやれた。けっこう自信がついたよ」
「ええ、魔物相手に無双できるほどですね。それに、錬金技能も向上しています。結果として、高性能な武具類や魔道具が用意できました」
「並行して、人間社会の観察もできたしね」
最初の監視対象は、軍隊の砦。
幅広な堀を周囲にめぐらせ、防壁は盛土と頑丈な丸太を組み合わせている。内側には、簡単な造りの木造建築物が幾棟か並んでいた。
滞在しているのは、百人ほどの兵士と民間人。ときおり騎士なんかもいたりする。
潜入調査用に鼠型の魔導人形を作成。
直接には行けないので、鳥型ゴーレムからの空中挺進で“ネズミちゃん”たちを放りこむ。
同時に、情報伝達用の中継点を幾つも設置して【念話ネットワーク】を構築。
「なんとか言葉が通用するのが判明して良かったよ」
とはいえ、かなり変化していた。
シンが使っている言語に似ている。
時代が過ぎるにしたがってローカライズしたのだろう。古代ローマ帝国のラテン語が、イタリア語や英語、フランス語へと変じたようなもの。
幸い、基本の文法は同じ。
共通する単語も多いので、習得は楽にできた。他にも通貨や服装、武器、文化風俗などの情報をあつめている。
ミドリが改めて指摘してきた。
「ただし、マスターの基準では、文化文明の程度は低いとのことですが」
「ああ、前世記憶で分類するなら、近世から近代未満といったところかな」
そう判断した理由は二つある。
ひとつめは、移動手段が動物であること。
集落を出入りする人間たちは馬や二本脚歩行の地竜を使役していた。蒸気機関や石油を利用した乗り物はまったくないので、近代には至っていないとおもう。
ふたつめの理由は、小銃の形状だ。
軍砦で見かけたのは、先込めの単発銃。
形はフリントロック式のマスケット銃によく似ていた。技術レベルなら近世の範疇にはいる。
ちなみにマッチロック式(火縄式)なら中世と判定したであろう。
「思ったよりも発展していない。正直、期待外れだ」
彼が造られたのは五百余年前。
五世紀もすぎているのだから、もっと文化文明がすすんでも良かろうに。科学技術、あるいは錬金術や魔法であれ、進歩する時間は充分であったはず。
この程度かとちょっと不満だ。
とはいえ、文明の発達は一直線にすすむものではない。
三歩進んで二歩下がる的な感じで、行ったり来たりすることは度々ある。酷い場合には五歩も十歩も後退することだって。
実際、地球の歴史でも似たことはおきている。
具体的なエピソードだと、スペインの街セゴビアに残る高架式水道橋にまつわる話。
古代ローマ帝国時代に建設された水道橋だ。
高さ三十メートル、全長七百メートル以上、二万個以上の石材を組み上げた巨大な建築物である。
帝国崩壊後、幾つもの国が興り、滅亡する。
過ぎゆく時代とともに、建築技術や歴史記録は途絶えてしまった。
しかし、水道橋だけが残存しつづける。
よほど頑丈な造りであったのだろう。当時の建設技術のレベルが窺い知れるというものだ。
いっぽうで、近隣住人たちは忘れてしまった。
しかも、【悪魔の橋】として怖れ慄いたという。
人間があんなに立派な建造物を作れるはずがない、悪魔がつくったに違いないと考えたのだ。
知識や歴史が断絶すると、こうなるという良い例であろう。
「では、いってくるよ。留守番を頼む」
シンを見送ってくれるのは、【岩柱砦】の駐在要員だ。
最前線基地を守備するだけでなく、後方から支援する重要な役割を担っている。
彼が騎乗するのは二脚竜。
ツクモ族と同じ錬成生物で、見た目は小型恐竜だ。
地の肌合いは大理石そっくりだけれど、着色加工を施しており、一見すると生物そのもの。竜は二体いて、騎乗役と荷運び役の構成。
周囲には、護衛役が展開している。
皆とは途中で別れて、付近に隠れて待機してもらう予定だ。
人間社会との接触は穏やかにしたい。
大理石像のような【ツクモ族】や、ゴーレム兵をゾロゾロと伴って、砦に訪問するのは、絶対に無理だ。そんな真似をしたら、攻撃だと勘違いされてしまう。
なので、彼ひとりで訪れるつもり。
のんびりと移動する。
道中は【人外魔境の大森林】を通過するけれど、浅層なので出没する魔物は低級の弱いモノばかり。
ときおり、襲ってくる馬鹿なヤツがいても、護衛がアッサリと撃退した。
「おっ、見えてきたな」
遠くからでも、物見やぐらは目立つ。
周囲を堀と防壁で囲んだ造りは、ずいぶんと頑丈そうだ。
危険地帯のすぐ近くだし、モンスターに襲撃される危険があるのだから、防御も厳重になって当然であろう。
「ふむ、見張り役がいないぞ」
周辺にも人影がなかった。
過去ずっと観察していたけれど、通常は人の出入りは頻繁なのだが。
今日は見当たらないのが、ちょっとおかしい。
シンは不審におもいながらも軍砦へとむかった。
「誰かいませんか~」
人間の気配がまったくない。
ここには多くの関係者が詰めていたはずだ。
どうなっている?
■現在のシンの基本状態
HP:172/172
MP:183/183
LP:90/90
活動限界まで、あと九十日。