07-26.三千年の時をこえて
これにて完結です。
「なんとも美しいことよな」
いま、わたしは空中にいる。
高度約一万メートルからの景色はとても雄大だ。
上空をみれば、鮮やかなブルーから宇宙空間の漆黒へと至るグラデーション。さらに上方へと視線をむければ、たくさんの星々がきらめいていて、いつまでも眺めていたくなる。
眼下には大陸が見えた。
広大な土地は変化に富んでいる。
極北近くでは万年雪が大地をおおって真っ白だ。赤道直下だと濃い緑が延々と続き、その間を幾筋もの大きな河が貫いていた。他には乾いた砂漠地帯から、険しい地形が連なる山岳地帯までの色彩は豊かで、まるでキャンパス上に色とりどりの絵の具を塗り並べたかのよう。
もちろん、人間による文明圏も存在する。
海岸線近くだと、港湾都市がまばらに点在し、さらに多くの漁村が散らばっていた。内陸部にもポツリポツリと小さな村落や町。大河の近くには大都市があって、やはり文明は水源ちかくから発達してゆくのだなと、納得できる光景であった。
大陸西方のとある一点に視線をむける。
【奈落】であった。
自然に反する異様な黒色領域が、じわじわと勢力を拡大している。
その様は、大きな紙の中央を蝋燭であぶって、黒い焦げが広がってゆくかのようだ。普通紙ならば、焼けた跡は穴ができて、むこう側がみえてしまうけれど、眼前の状況はまったく違う。暗黒空間が残ったままだ。
「【奈落】の侵蝕速度は想定よりも緩やかで助かった。こちらの作業は遅れ気味だったからな」
わたしの役目は魂魄の回収だ。
選抜条件は、次世代世界で活躍が期待できること。救済対象から漏れたものは、残念ながら【奈落】で地獄の猛特訓を受けてもらうことになる。
神々の仕事は、農作物を世話するのに似ている。
種子を培養土に蒔いて、スクスクと順調に芽吹いたものを選別するのだ。
ある程度、成長すれば枝の剪定作業。伸ばすべき箇所を選び、無駄な枝木は切り落として、健やかな発育を促す。
病気になれば薬剤を散布し、害虫が取り付けば除去しなければならない。
ときには苦渋の決断をすることも。
丹精込めて育てあげた作物をまとめて処分し、果樹を根こそぎ掘り起こして焼却処理せねばならない。他への悪影響が大きすぎて、選択肢がないのだが、いざ実行する際には心が痛む。
そんな地味な作業を、神々は延々とおこなう。
数千数万年の単位で見守って、必要に応じて判断し処理するのだ。担当範囲はとても広いうえに、因果関係が複雑に絡み合っているので評価や決定は慎重を要する。
「ああ、たしかに人間では、この役目を担うのは不可能だ。そもそも判断基準のスケールが違い過ぎるのだから」
神の視座は遥か遠くまで見通す。
逆に、近くのものをみるのは苦手だ。
それゆえ、人としての記憶や体験は、取るに足らぬほど小さなものとなる。
貶しているのではない。
言いたいのは、比較対象の縮尺規模が桁外れであること。見比べようとする行為は、もう完全に無駄なのだ。
しかしながら、人間であった過去の自分が、些細なことに心を揺らしていた事実はずっと覚えておこう。
そして、いま、自分自身が変質してゆくのを感じている。
思考範囲の広さや奥深さなど、人とはまったく別次元の視点と尺度が、わたし自身の内側で静かに根を張りつつあるのだ。
もう人間には戻れない。
いままで体験してきた出来事、笑い、喜び、泣き、悲しんだことのすべてが霧のようにぼやけつつある。あれほどに鮮やかに、かつ躍動的に感情が動くことはないのだ。
仕方ないと割りきる冷徹な理性があるいっぽうで、胸の片隅で切ない気持ちがうずいてしまう。
遥かな視座から見れば、それは小さく儚い。
でも、貴重で大切なものだったのだ。
少年の日々との決別に似ている。
無邪気な希望にあふれていた幼年期は終わってしまった。
現実の無情な重さ、複雑怪奇な世界の理を知る大人へと歩み出す。無垢な心情を手放して、代わりに得るのは成熟という名の翳りだ。
『世の中は 常かくのみと 思へれば 心のうちに うらぶれにけり』
別れを告げよう。
これは、前世での生まれ育った故郷に伝わる古い短歌だ。
いろいろと候補はあったのだけれど、いまの気持ちに相応しい一首を口にした。
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わたしは、大海原の上空を漂っている。
見渡すかぎり水平線が広がるばかりで、視界をさえぎるものはない。海上の波は穏やかで、陽光を反射してキラキラときらめく。
青空はどこまでも澄みわたっていた。まっ白な雲が遠くに浮かんでおり、単調になりがちな風景に絶妙な変化を与えてくれる。
現在、自然神としての役目を遂行中だ。
主な仕事は大気の流れを司ることで、今日は半径千キロ範囲内の気圧を操作する。
具体的には、神念体として構成した我が身を通じて、対流圏の上部およそ一万メートルの高度から空気を下降気流として地表部へと導いてやるのだ。現象としては、海洋性高気圧と表現されていたりする。
周辺では眷属神たちが忙しく動いていた。
彼らは、わたしが生成した気流を細やかに補正しつつ、周辺地域へと拡散させてゆく。
たとえば、海から水蒸気を取り込んで雨雲へと成長させ、大地に恵みの雨を降らすのだ。あるいは大気の流れを収束させて、特定地域に強風を吹かせる。
すべては自然の営み。
静かに、でも確実に世界を調律するのが我々の役目である。
おもえば、ずいぶんと時間が過ぎたものだ。
【奈落】が大陸の大部分を侵蝕し、数多の生命を沈めて、およそ三千年は経過したであろうか。
激減した生き物たちも順調に数を増やし、荒廃した土地は緑豊かな地域へと変化している。人類文明圏は断絶状態であったが、いまでは大厄災発生した当時よりも発展しているほどだ。この世界全体をまとめてみても、すでに回復期を終えて、勢いの良い成長期へと突入していた。
大厄災を利用して、魂の進化を促すという計画は、充分に目的を達成したと言えよう。
不意に視線を感じた。
わたしは海原を航行する帆船を見やる。
大型の外洋船だ。三本のマストに取り付けた大小の帆を張って、風を受けて軽やかに前進している。
ひとりの少女がマストトップの見張り台にいた。
こちら側をじっと見続けているのだが、目を大きく見開き、口をあんぐりと開けたまま。驚いているのだろうが、その様はちょっと可愛らしくも、滑稽だったりする。
海と空の静けさのなかで、あの娘だけが、わたしの心にさざ波を立てた。
慎ましやかな風景に溶け込んでいた思考が、久方ぶりに内へと揺らいだ気がする。態度から推察するに、どうやら彼女には私の姿が視えているらしい。
ふつうの人間は、神を認識できないはずだ。
そもそも上位階梯者は物理的な実体をもたないので、肉眼で確認することは不可能。不可視の存在を知覚するには、精神的波長を合わせる必要があるのだが、それ相応の階梯位にあることが必須条件だ。
つまり、彼女は特殊な人間である。
ただの一般人ではなくて、なんらかの特異な状態にあるはずだ。たとえば、わたしがずっと昔に受肉して現世に降り立ったときのように。
確認すべく、しばらく注視してみる。
娘の魂の波長に見覚えがあることに気づいた。
『なるほど、この女子は転生者か。しかも地球からとは驚きだ』
不意に、胸の奥に懐かしさが波紋のように広がる。
人間時代の記憶が静かに浮かびあがった。
限られた知覚と浅い思考に囚われているのが人間というもの。だけれど、彼らの意識は研ぎ澄まされ、感情はひどく鮮やかだった。
神から見ればあまりに小さいが、いまのわたしには宝石のように眩しい。
手のひらに拾い集めていた、砕けたガラス片を大事にポケットへしまい込んでいた、あの頃のように。
彼女にあいさつの念を伝える。
次の瞬間、相手はぱたりと倒れてしまった。
どうやら自分の神気は強烈に過ぎたみたい。
女の子が、見張り台から転落しそうになったので、わたしは慌てて風を送り、小柄な身体をゆっくりと持ちあげてやる。
やれやれ力加減を間違えてしまった。
ずいぶんと長いあいだ、人間と接する機会がなかったせいで、微妙な出力調整が必要なことを失念していた。
申し訳ないと思う。いっぽうで、人とはかくも脆いものであったかと軽い驚きもあったりする。
ふむ、命に別状はないようだ。
彼女は失神したけれど、年齢は十歳半ばと若くて体力もある。なによりも、精神エネルギー容量が大きいので、神力に触れたところで問題はあるまい。
それどころか、今回の接触がきっかけとなって、潜在して隠れていたスキルに覚醒するはずだ。結果的にみれば、娘にとって良い結果になったはず。
かるく祝福をしておこうか。
ちょっとしたお詫びだ。
とはいえ、強力なものではない。分不相応な“力”は、自分自身を滅ぼす原因となってしまうからな。
あくまで、神が、ひとりの女の子の幸運を祈りささげるものだ。
『これからの人生に幸多からんことを。わたしは風となってあなたの背を押そう』
静かに仕事を再開する。
すべての生命が穏やかに過ごせるように。
わたしは大空と海洋を巡りまわって、陰から世界を見守るのだ。
最後まで読んでくださって、まことにありがとうございました。