07-24.集う祝福(前編)
シンは植木鉢を両手で支える。
植わっているのは【オリヅルラン】だ。
花言葉は『集う祝福』。
自分が持つ権能、【言霊使い】に相応しい植物であろう。まあ、意図してこの観葉植物を選んだのだが。
ちなみに、“言”は“琴”に通じる。
天地のあいだに鳴り響く“天琴”の音は、常世の摩訶不思議な力が宿るとされていた。
つまり、たった一つの言葉にさえ、玄妙なる神霊が降りるのだ。
これを幾つも重ねて祝詞と為す。そして、現世に超常の現象を引き寄せる能力者が、【言霊使い】である。
『いろは四十八神に招ぎ奉りませ。
ひふみよいむなや こともちろらねしきる……』
三体の龍を召喚する。
聖なる山ティメイオ火山周辺の産土神であった者たち。過去形の表現なのは、今はシンの下僕となっているため。
コイツらは、火山を噴火させた慮外者だ。
そのせいで周辺地域は甚大な被害を被っている。
まず、地形の大規模な変化。
爆発エネルギー量は膨大で、頂上部を崩壊させ、山体崩壊をひきおこす。直後に発生した火砕流が、ゆく手にあるすべてを圧し流した。同時に噴き出る溶岩は、数千度もの熱を保ったまま大地を焼きつくす。
周辺風景は、まるで地獄のような風景へと変わってしまった。
火山弾による損害も凄まじい。
無数の岩礫は情け容赦なく地面を穿ったのだ。
火口から吹き飛んだ岩石は、高度数百~千メートルまで上昇し、次に加速度をつけて落下。大きなサイズだと直径十メートル以上、重量は百トンを超える。充分な運動エネルギーを獲得した岩は、即席の質量弾と化して地上を破壊してゆく。
しかも、地中奥深くで熱せられていたマグマが元だ。
高熱の火山礫は、着弾後に発火して火災をひきおこした。
天災級の被害をもたらした、コイツらの罪はまことに重い。
『我に、【導灯を掲げる者】に、汝らの神力を差し出せ。
あたらしい世代の礎となる魂を救済するために』
龍どもの神力量は驚くほど膨大だ。
火山を噴火させた実績があるのだから折り紙付き。
シンがおこなう御神業に要するエネルギーをキッチリと供給してくれるはず。いや、カラカラに干上がるまで搾り取ってやろう。
死にゆく人々のために導灯を掲げるのだ。
進む先には希望があると知らしめよう。
その多くは、辛く厳しい坂道をのぼることになる。
暗闇の中を手探りで行くような経験だ。
しかし、絶望する必要はない。いつかは太陽が昇り、すべてを明るく照らしてくれるのだから。だから、導きの灯を頼りにして、あきらめず歩み続けてほしい。
「さあ、いこうか」
彼は、三体の下僕を引き連れて出発した。
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【豊穣の迷宮】から白灰色の霧状物質が噴出していた。
見た目はドライアイスの煙に似ている。
地表から十センチほどの高さで、流れるように動く様子はそっくりだ。
ただし、その流出量はケタ違い。
迷宮出入口を中心にして、霧海が急に出現したかのよう。さほどの時間がかからずに、ソレは近くの王都まで到達し、街全体を埋め尽くした。
誰も注意をむけない。
しょせん、見かけは霧か煙みたいなのだから。
せいぜいが踵までを薄っすらと隠す程度だし、危険を感じさせる気配なんてない。関心をもってもすぐに忘れてしまう。
「これはなんだ?」
「知らん、それより早く逃げないと」
「たぶんむこう側のほうが安全だ」
王都住民の意識は別のことに向いていた。
モンスターから身を守ることに必死なのだ。
突然、人間が怪物化して襲いかってくるのだし、敵を警戒するのは当然のこと。油断すれば殺されてしまう。他のことを気にする余裕なんてありはしない。
謎の霧状物質はゆっくりと広がってゆく。
音をたてることなく静かに、しかし着実に。
まるで、人の心の隙間に忍び入るようであった。
時間が経過するにつれ、状態は変化してゆく。
まず、ソレの厚みが増す。はじめのころは、地面近くを這う程度の高さであったが、やがて膝から太ももあたりまで届くほどになった。
色調も違ってくる。
初期は濃度も薄くて、大地の土もちゃんと見えるくらい。しばらくすると白系灰色から、濃いグレー、ついには真っ黒になってしまう。
もう、こうなると地面は隠れてしまう。
霧状物質でおおわれた道を歩くには、慎重につま先を伸ばして、段差や穴がないかを確認する必要があるくらいだ。
最終に、霧は致命的な変質へといたる。
別の理が支配する異次元空間、つまり【奈落】に繋がったのだ。
仏教の無間地獄のようなもの。囚われた者は脱出不可能で、輪廻転生して再び新しい人生を得ることすら許されない。期間無制限のまま虜囚生活を続ける。
【奈落】の侵蝕速度はおそい。
でも着々と勢力範囲を拡大してゆき、グリアント王国全土を覆いつくした。やがて、隣国のゲルマーナ連邦国やスコティ連合王国を制覇する。
大陸全土を飲みつくすのは時間の問題であった。
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シモンヌは窓の外を眺めやる。
主家筋であるコルベール男爵家を再興させるべく、彼女は王都までやってきた。関係の深い派閥を頼ってのことだが、なかなか思惑通りにはいかない。
もちろん簡単ではないと承知していた。
王家の後継者問題のせいで貴族社会は混乱しているけれど、まあ、やりようはある。最低限でも一族が生き残ることは可能なはず。
そう考えていたが、予想外のことが起きてしまったのだ。
「もう、街はダメね」
眼下に広がる景色は異常そのもの。
いつもの見慣れていた町並みとは、まったくの別物であった。真っ黒なミストが地面を埋め尽くして、底がぜんぜん見えない。
謎の濃霧は変な動きをしていた。
不思議なことに、高低差を無視して一定方向に流れてゆくのだ。普通の霧なら、坂道を下から上へと昇ってゆくなんて事はあり得ない。
完全に物理法則から逸脱している。
丘上などの高さのある土地に避難しても、黒霧から逃れることは不可能であった。
「ああ、また人が飲み込まれた」
若い女性が悲鳴をあげていた。
彼女の様子は、まるで溺れているかのよう。
霧状物質のなかで手足をバタつかせているけれど、努力は報われない。抵抗は無意味で、徐々に沈んでしまった。
もし、アレが水だったら助かったかもしれない。
泳げるなら、あるいは木板に掴まっていれば、水面に浮いていられたであろう。しかし、残念ながら違うのだ。
霧状物質はすべてを飲み込む。
対象が人間であれ建造物であれ、なにもかもが沈んでしまう。
実際、シモンヌがいる建物も一部が沈降して傾いていた。
コルベール家が保有する屋敷は五階建てなのだけれど、いまでは上部二階分が、かろうじて残存しているだけ。
「もう、どこにも逃げ場所はない。あと何日、生きていられるのかしらね」
彼女は死を覚悟していた。
自分は罰を受けているのだとも。
なぜなら、病人たちを見捨てて砦街キャツアフォートを去ったから。謎の感染症が猛威を振るうなか、怯える住民を裏切ってしまった。
己の本意ではないと、言い訳はできる。
主筋の男爵家令息の命令に従っただけと。
街を封鎖することも脱出も反対したけれど、結局は同意してしまった。結局、自分は命惜しさのさもしいヤツだ。
「あの時、無理を言ってでも残れば良かった。こんな辛い思いをしなかったのに」
錬金術師として本懐を遂げたであろうに。
たとえ、病にかかって病死したとしても、悔やまないで済んだはず。
魔法を使えない一般市民のために働き、貢献したのだ。心底から満足して死ねたとおもう。
「どうして、わたしは間違えたのだろうね」
最近、ずっと鬱々としていた。
男爵家の再興がかなっていればマシであったろう。いちおうでも、先祖代々仕えてきた主家の役に立ったのだから。
しかし、今となっては実現することない夢である。
「えっ、なにかしら」
声が聞こえてくる。
耳慣れない異国の言葉だ。
『雨しとど 花咲きそむる 山の径 君歩むとも 命いとほし』
シモンヌには理解できなかった。
当たり前である。この祝詞は大和言葉で謡われているのだから。
これは本物だと、なぜか確信をもてた。
会話や手紙なら嘘や虚偽などを混ぜることもできるが、これは違う。コレは誠の真実だと。
『波風の 絶えぬ海原 すすむとも 君が導く 空のあかつき』
主旨が伝わってくる。
言語表現は未知のものなのに、心の奥底にまで届いた。
あなたの人生は正しかったのだと。
間違いや無駄なんて、ありはしない。
楽しくて笑い転げたことも。
苦しくて涙したことも。
ひとを好きになって、愛おしい気持ちでいっぱいになったことも。
他人を傷つけてしまい、ひどく後悔したことも。
みんな、まとめて必要であったのだから。
全部ひっくるめて肯定すると。
「ああ……、よかった」
救われたのだ。
かくも力強く認められたのは、はじめての経験であった。
涙がポロポロとこぼれ落ちる。
自分でも呆れるほどに泣き続けた。
ずっと胸の奥底に溜め込んでいた澱みが洗い流されていくみたい。頬が濡れて酷い顔になるけど、逆に心が浄化されてゆく。
嗚咽だけが、誰もいない部屋で小さく響いていた。
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グレゴワール翁は空を見上げた。
どんよりと雲が太陽を隠している。
雨こそ降らないけど、しばらくのあいだ青空は拝めまい。
まあ、風がやや強いので、運がよければ雲を追いやってくれるだろうか。
「ふん、もう助からんか。せいぜい三十分。よく持っても一時間といったところかの」
彼の腹は裂けていた。
魔物にやられてしまったのだ。
応急処置として魔力回復薬をぶっかけたが、低品質なうえに少量であったため、完全な回復は見込めない。いちおう止血はできているが、重要な臓器は傷ついたままだ。にぶい痛みは続いているし、だんだんと感覚が麻痺しはじめている。
放置していれば死ぬのは確実な状態だ。
職場である王都錬金術師組合で、突然、人間が怪物化した。
何匹ものモンスターが暴れまわり、仲間や職員を殺傷する。建屋内が混乱するなか、戦闘経験をもつ錬金術師たちが応戦。
ただ、普通の民間人も多いので組合本部を放棄した。
一般人を屋外へと避難させたが、後になって、この判断は間違いだと気づく。
化物が王都中に大量出現していたのだ。
逃げた先のほうが、危険度が高いなんて予測できやしない。
組合建物内の魔物どもを苦労して始末したのち、グレゴワールはようやく外にでた。
彼が目にしたのは、凶悪な怪物の群れ。
以降は戦いと逃避の連続だ。
戦闘用魔導具で敵を退け、一般市民を守る。たまに休憩を取り、家屋を物色して食べ物を口にした。
そんな行動を繰り返しているうち、負傷して今に至る。
「王都はダメじゃの。住民が全滅するまで一週間ほどか」
多少の違いはあるだろう。
前後したとしても、三日間もズレることはあるまい。
いち早く脱出した者や都市外縁部に住んでいる農民なら、もう少し長く生き延びるかも。
安全な避難先なんてない。
教会の塔から確かめたところ、視界が届く範囲内のすべてが黒い霧に覆われていた。おそらくだが、グリアント王国全体が侵蝕されている。
近隣諸国だって危ない。
逃げた連中もどこかで、きっと謎の霧状物質に飲み込まれてしまう。結局、誰もが死ぬことになるのだ。
「ふん、ようやく儂も逝けるか。長らく待たせたが、皆に会えるというものよ」
グレゴワール翁は独り身だ。
すでに愛する妻に先立たれている。
子供五人を授かったけれども、うち二人は十歳までに亡くなった。
錬金術にも治療技術はあるけれど、どうしたって限度はある。あれこれと手を尽くしたものの、あえなく子供らは世を去った。
長男は無事に成人するも、徴兵にとられてしまう。
名も聞かぬ地方で戦死した。
女児は器量よしな娘に育つ。
好きあった相手の元に嫁いだが、流行り病でポックリと逝ってしまった。
最後に残ったのは末の息子。
ただ、折り合いが悪くて親子喧嘩ばかり。ひねくれ者は、大人になる前に実家をとびだす。
素行の良くない連中とつるんだあげく、つまらない諍いで殴り殺されたらしい。事情通の者から教えてもらった。
後日、戻ってきたのは物言わぬ亡骸だ。
なんと親不孝だと嘆く。
父より早く亡くなるなんてバカだと罵ってしまった。
どんなに反発しあっても、生きていて欲しかったのに。
「悔やむばかりの人生であったの」
妻の死に目には立ち会えていない。
ずっと仕事に追われていて、ろくに家に帰らなかった。
苦労ばかりかけていた気がする。いまさら後悔しても遅いけれど。
他者は、自分を優秀な錬金術師だと褒めてくれるが、その実態は実にお粗末なもの。なんとも無粋で価値なき生涯であったことよ。
どこからか唄が聞こえてくる。
音の出元の判別がつかない。
方向もそうだし、近くなのか遠方かの距離感すら掴めなくて、奇妙なかんじだ。
『草むらに 雨露集い 君が跡 乾きぬ日にも 道は続かむ……』
「なんじゃ?」
たぶん異国の言葉だとおもう。
ゆっくりとした旋律はまるで独特の呪文のよう。ひょっとすると魔導師がつかう魔法詠唱かもしれない。
なぜか、真意は伝わってくる。
はじめて耳にする言語だ。理解できるはずもないのに、不思議と胸にストンとおちる。
『夢うちに 逢へば懐かし 目覚むれば うつつの世にも……』
近寄ってくる人影があった。
亡くなった妻だ。
晩年のころの年老いた姿ではなく、出会ったころの若々しい容姿をしている。髪は長く艶やかで、肌もみずみずしい。
そんな彼女が語りかけてきた。
あなたの人生はぜんぶ正しいわ。
間違いなんて、ぜんぜんなかったのよ。
ふたりして笑ったことも、嘆いたことも。
家族一緒に過ごした平和な時間も、幼子の葬式で泣いたことも。
みんな必要なできごとだったと認めてあげて。
だいじょうぶ、できるわ。
なぜ分かるかって?
うふふっ、わたしは知っているのよ。あなたは強いひとだって……。
自信満々に言う彼女は、とてもまぶしい。
そのくせ、ときどき照れた態度になるのだから、ズルいとおもう。そんなにも可愛い表情をされたら、“うん”と肯定するしかないじゃないか。
思い起こせば、口喧嘩をしても、毎回、最後に折れて謝るのは自分のほうだった。
グレゴワールは年甲斐もなくときめいてしまう。
もう枯れ果てたはずの心に、再び若々しさが蘇ってきた。
まるで、こびりついていた泥がきれいさっぱりと剥がれたみたい。こうも爽快な気分になるのは久しぶりだ。
「そうじゃな。儂が道を誤れば、いつもお前が正してくれたの。
ありがとう。そして、愛しているよ」
不意に、陽光が差し込んできた。
分厚い雲に切れ目が生じて、やんわりと太陽が姿をあらわす。
キラキラと輝く光が美しい。
ほぅと大きく息をはく。
その顔はとても穏やかで、満足しきった男のものであった。




