1-01.目覚めればそこは水の中
ガボガボッ!
目が覚めると、そこは水の中だった。
本能的に酸素を求めるが、喉から入ってくるのは液体ばかり。
完全に呼吸不可能な状態だ。
あまりにも不意討ちの状況にパニックになってしまう。懸命に手足をばたつかせていると、なんとか頭を水面から出すことができた。
「ゲホゲホッ!」
おもいっきり咳込んでしまった。
必死に息をしようとするけれど、うまく呼吸できない。
気管支から逆流してくる水と、吸い込む空気とがぶつかり合って咽てしまうからだ。幾度も吐瀉を繰り返した末に、ようやく酸素を肺に取りこむことに成功した。
「ハァハァ……」
涙や鼻水で顔はグチャグチャだ。
でも、そんなことに構っている余裕なんてない。
ひたすらにゼイゼイと喘ぐだけ。ふつうに呼吸するのが、こうも苦しいとは初めての経験だ。
とはいえ、時間が過ぎれば息も落ちついてくる。
精神的余裕もできて、グルリと辺りを見渡した。
「ここはどこだ?」
自分がいるのはカプセルの中。
透明なガラス状の材質で、長さ三メートルほどの円筒を横倒しにしたもの。
なかには薄く白濁した液体が容器の半分くらいにまで溜まっている。蓋部分が半開きになっており、今は透明筐体から上半身を起こして状態だ。
「う~ん、病室? いや、なにかの実験室か」
部屋の様子は研究施設を連想させる。
室内はボンヤリと明るかった。
不思議なことに光源は壁そのもの。裏側に電灯やランプがあるのではなくて、壁自体から淡い光がでている。
発光している仕組みは謎だ。
高度な技術が使われているのは間違いない。
眼が暗さに慣れるまで暫く時間がかかった。
「なにが起きた?」
ひどく荒れている。
まるで大地震で被害を受けたか、あるいは爆撃された跡みたい。頑丈そうな石壁には大きな亀裂がはしり、天井の一部は崩れ落ちていた。
床面には割れたガラス片やら書類らしき紙などが散乱している。
壁際では用途不明の機器類が横倒しのままだ。
「そもそも、なぜ、私はこんなところにいる?」
疑問が湧きあがる。
ここがどこなのか判らない。
カプセルの中にいた理由も不明だ。
判断の手がかりになるものを求めてあたりを見渡す。
なんとなく違和感を覚えた。
床に転がっている機材が妙なのだ。
それらのデザインは、やたらと古風なというか幻想物語的な雰囲気がする。
見慣れた電子機器ではない。
たいていの機器は形状やスイッチ類を見れば使用用途を想像できるものだ。でも、眼前にある物は全く見当もつかない。
自分が知る技術体系とは違った機器類のようだ。
「異世界だったりして」
口にした冗談は、冴えないもの。
さすがに陳腐すぎて笑えない。
しかし、精神的な余裕をもたらしてくれた。ちょっとした言葉ひとつでも気分を切り替えるのに役立ったりするものだ。
今度は落ち着いてゆっくりと周囲を観察してみる。
室内の造りが奇妙なことにも気づいた。
「壁も天井も岩石じゃないか。コンクリートや賢者じゃない。なんだか、おかしいぞ」
実験室か医療室だと思っていた。
だが、勘違いかもしれない。
というのも病院関係の施設なら、現代的で衛生的な構造にするだろう。こうも原始的な部屋に設置なんて、普通ならしない。
そして最大の違和感。
「なんだって、身体が縮んでいるんだよ? これじゃあ子供とおなじサイズだぞ」
年齢でいえば十歳前後といったところか。
ただし、平均的な体躯と比較しても手足は細い。
全体的に肉づきが悪くて貧弱だ。
なんだか華奢というよりも、病弱な感じがする。
「ワケがわかならい。私は大人だぞ。仕事もしていた」
既に社会人として働き、相応の評価も受けている。
業務はハードで忙しかったが、健康管理には注意を払っていた。
合間を見つけてのトレーニングだって欠かさない。努力のおかげで、実年齢以上に丈夫な肉体を維持していたのが、密かな自慢だ。
にもかかわらず、体が少年サイズになっている。
ほんとうに困惑するばかり。
「おまけに、こんなモノがあるなんて謎すぎる」
それは胸にある結晶体。
サイズは五センチほどで無色透明の輝石。
見た感じではダイヤモンドみたいな物質だ。
ビビりながらも触ってみるとガッチリと固定されて動かない。
肉体組織の奥にまでくい込んでいるのだ。
皮膚表面に張り付いているのではない。
少し力を加えて剥がそうとするけれど、簡単に取り除けそうになかった。
―――これはいったいなんや?
なにが起きているのか、さっぱりやで。ウチの身体が少年のものに変化しているようやな。
ワケが分からへん。
おまけに、記憶が曖昧模糊としとる。過去のことを思い出そうとするけれど、頭の中に霧がかかっているみたい。
なんともハッキリせえへんなぁ。
かろうじて浮かぶのは名前だけや。
それとて不正確で“シンイチ”とか“シンジ”とかいった音のみやんけ。氏名全部は覚えてへんとは、参ったな。
共通する音韻があるので、“シン”だけは間違いなさそう。
まあ、そんなことはどうでもエエわ。
お腹がすいてしょうがない。
とりあえず、カプセルから出ることにした。
ボタボタと水滴が滴り落ちる。
全裸のまま液体に浸かっていたので、体はビショビショだ。床に足をつける。散乱しているガラスや金属片を踏まないように注意せねば。
足腰に力がはいらない。ヨタヨタとしてしまう。
筋肉が衰えているせいだ。
長い期間、溶液のなかにいて、身体を動かしていなかったせいだろう。病気などで長期間を寝たままでいると、筋繊維はやせてしまう。それと同じだ。実際、いまの手足は細くて頼りない。
両手で透明筐体の端っこを掴みながらゆっくりと移動する。
目指す先は正面の収納棚。
棚は、部屋の片面いっぱいに並んでいた。
たくさんの引出しがあるのだし、中に食品があるかもしれない。ちょっとばかり期待する。
不意に断片的な記憶が浮かんできた。
それは、同僚たちと夜食やらお菓子を食べている情景。
仕事は繁忙期になると深夜残業が長く続く。けっこう頻繁だったから、かなりブラックな職場だ。まあ、苦しくも楽しかったから、よしとしよう。
で、残業中、みんなはパンだとかクッキーを口にしていた。仕事仲間の連中は非常食を引き出しに常備していたのだ。
「ときどき、ボスが差し入れしてくれたよなぁ。ハンバーガーやドーナッツ。ときにはエナジードリンク付きで」
深夜の飲食は、不思議なほどに美味しい。
勤務は厳しいけれど、仲間たちと過ごす時間は愉快であった。
皆の連帯感も強かったし、なによりも頼りにできる。ああ、懐かしい……。
最初に見つけたキャビネットには、食料品はなかった。
引出しの中にあったのは透明な板状の物体ばかり。それらは一定の間隔を空けて縦に並べられている。
用途も材質も不明だが、食物じゃないのは確かだ。
「くそ、腹がへった。なにか食べ物はないのかよ」
片っぱしから戸棚を開けてみる。
でも空腹を満たす物は何もない。
残念だが、この部屋には食料はないのだろう。さっさと見切りをつけて別の場所を探すべきだ。
シンは残り少ない体力で移動を試みる。
足を踏み出すとクラリと眩暈がした。
冷たい汗がでてきて気持ち悪くなってしまう。
収納棚の端に体重をかけて身体をささえる。
ジッと我慢して苦痛が去るのを待った。
落ち着いてきたところで、移動再開するが、目指す先はキャビネットの反対側だ。
そこには扉が見える。
「うわっ!」
足元にミイラ化した遺骸があった。
死体はカプセルにもたれかかるように、座り込んでいる。位置は、シンが容器から這い出たほうとは反対側。だから、いままで気づけなかったのだ。
遺体の主は男性。
肩幅は広く、骨格がガッチリとして大柄なので成人だ。
専門知識はないので、さすがに年齢までは推測できない。
着衣は風化してボロボロになっている。
よく見ると衣類は全身を覆うタイプのもの。形は古代ローマ人が着ていたトーガに似ていた。元は立派なものであったに違いない。上腕には金の腕輪、首には貴金属のネックレスを身につけている。
「コイツは誰だ? 何をしていた? もしかして、カプセルを観察していたのか」
脳裏に嫌な考えが浮かんでくる。
自分はモルモットのように飼育されていたのかも。
なんのために?
もちろん実験か研究だ。
実験用動物の扱いは残酷だ。
危険な薬品を投与されるだとか、訳のわからない病原菌に晒される。挙句の果てには、肉体を切り裂かれて内臓を摘出されるなど。
その行為に動物愛護の思想なんてありはしない。
己は実験台なのか?
想像するだけで吐き気がしてくる。
まあ、胃はカラッポだから、逆さまになったって、何も出ないけどな。
「いかん。記憶のあり方が変だ」
自身の名前すら、ちゃんと覚えていない。
いっぽうで研究用動物の飼育目的を知っていたりする。
どんな経緯があって、実験室みたいな所にいるのか分っていない。いっぽうで、同僚たちと夜食を取っていた情景が、頭の中にある。
もうグチャグチャだ。まったくもって儘ならない。
だが、困惑はすぐに中断された。
お腹がグウグウと鳴ってしまったからだ。
空腹過ぎて、あれこれと思い煩うこともできない。
はやく食べ物をみつけよう。
ここが研究室でも病室だろうが、どうでも良い。
ミイラ男の目的なんか無視だ。今のままだと、餓死してしまう。
彼は食料を求めて移動をはじめた。
床に散乱するガラス片や瓦礫で怪我をしたくないので用心深く避ける。足の筋肉はプルプルと震えて頼りにならない。立っているのも不可能だ。
最後には四つん這いになってしまった。
身体を起立させるだけの体力が残っていない。
懸命に手足をバタつかせて、ゆっくりと全身する。
努力の甲斐もあって、ようやく扉の前にたどり着けた。