7.
その日の午後も定例会見が終わり、市長室に戻ってきた。市長は待っていたマリカ女史から書類を渡され、彼女から簡単な説明を受けた上で、それを持ってデスクにつく。マリカ女史は速やかに出ていった。
市長は最近になって、自らのデスクのそばに、私のデスクを用意してくれた。私は空いている時間は応接セットのソファに座り、ずっとノートパソコンを操作していた。ガラス天板のテーブルが低いことから、かなり前屈みになってキーボードを叩いていた。市長にはその態勢がとてもキツそうに見えたらしい。彼女の心遣いには感謝している。
パソコンを操作しているといっても大したことをしているわけではない。後藤さんに提出する日報を書くために、その日に起きたイベントや、場合によってはインシデント等を備忘録的に書き留めたり、本部のシステムにアクセスして他の案件のステータスを収集したりする程度だ。
無論、市長に関する剣呑な情報がないかもチェックするけれど、その点についてはなにか発生すればただちにウチの『情報部』から連絡が来る。『情報部』は優秀だ。私はとても信頼している。
スマホが無機質に振動した。ジャケットのサイドポケットから取り出してディスプレイを確認。後藤さんからの通話要求だった。
「やあ、曜子さん。お仕事、ご苦労様」
「お気遣い、ありがとうございます。なにか御用ですか?」
「『行動部』のみんなに周知しておこうと思ってね」
『行動部』。それが『治安会』において、私が所属する部署の名前。
「ついさっき、ルーファスをリリースした」
「やっぱり、警察に引き渡したんですね?」
「やっぱりっていうのは、どういうことだい?」
「先日、ある先輩から、近いうちにそうなるだろうって伺ったんです」
「ある先輩っていうのは、悠君かい?」
「はい」
「つくづく君達は仲がいいね」
「たまたま伺ったというだけです」
「警察は残党狩りに乗り出すつもりだ。だから恐らく、軽々に『UC』の名を持ち出すニンゲンは激減する。『UC』に寄生していた枝葉の組織はビビって動けなくなるだろうということだ」
「でも、ルーファス本人に心酔している構成員は残りますよね?」
「ああ。そういった連中は、なにかアクションを起こすかもしれないね。そこは注意すべきだろう。さて、連絡事項は以上だ。引き続き、元気よく業務に励んでね」
「承知しています」
「それじゃあ」
「はい」
後藤さんは電話を切った。
市長が書類に目を通すことを続けながら「どなたかしら?」と訊いてきた。「上司です。後藤です」と私は答えた。
「悠さんかと思っちゃった」
「悠さんって呼んでいるんですか?」
「だって、そう呼んでもいいって言ってくれたんだもの」
「それで、忍足さんからだったら、なにかあったんですか?」
「嫉妬しちゃうなあって。独占欲が強いのよ、私って」
「そんなふうには見えませんけど」
「意外?」
「はい」
「私自身も悠さんと出会って初めて気がついた。これまでに付き合ったヒトはそれなりにいるけれど、そんな連中には好きになる価値なんてなかったなって。今、実はひそかに後悔してるところなのよ」
「確かに、忍足さんはとても魅力的な男性だと思います」
「でしょう?」
「ですが、恋愛にうつつを抜かすヒトではありませんよ」
「仕事が恋人ってタイプでもないように見えるわ」
「それはまあ、そうですね。そんなふうに見えますね」
「なにが楽しくて生きてるのかなあ」
「楽しいことがなくても、ニンゲン、生きていけると思います」
「それって寂しくない?」
「私だったら、寂しいとは感じません」
「ブレないところはさすがね」
「ブレたらニンゲン、終わりですから」
「そこまで言っちゃう?」
「信念のないヒトは、個人的に嫌いでもあります」
「その点は、私だってそうよ? ミス・クールビューティ」
「ビューティではなくていいですけれど、常にクールではありたいですね」
「さっぱりしすぎてると乾いてしまうわ。特に下半身が」
「下ネタですか」
「たまにはね」
「感心しません」
「そう言わないで」
市長は書類から目を外し、上を見た。それから私のほうを向いた。
「ねぇねぇ、黒峰さん。悠さんと食事とかできないかしら」
「また唐突ですね」
「だって、もっとお話ししたいんですもの」
「可能か不可能かで言うと、可能です」
「本当に?」
「ですが、外食はやめてください。SPを配置する必要がありますから、大事になってしまいますし、パパラッチに遭う確率も高まります」
「例えば、私の自宅にお招きするのならかまわない?」
「それなら可能ですし、許容範囲内だと考えます」
「やったやった。じゃあ、そういうことで」
「アポは私がとりますね」
「お願い。マリカには内緒にしておかないとね」
「そうですね」
「それにしても、ちょっと意外」
「なにがですか?」
「悠さんをひとりじめしようとすると、貴女は怒るとばかり思ってたから」
「怒ったりしませんよ」
「でも、私と悠さんが出会った時は、えらく取り乱していたじゃない」
「あの時はあの時、今は今です。私は市長のボディガードです。忠実かつ円滑に業務をこなすだけです」
「割り切ってるってこと?」
「お好きなように解釈してください。尚、私も同席しますから」
「えー、そうなのぉ?」
「言いましたよ? 私は市長のボディガードだって」
「いつも一緒だってこと?」
「そうです。それは市長が望まれたことでもあるじゃないですか」
「今となっては、迷惑な場合が生じたりもするんですけど?」
「ダメです。同席します」
「意地悪っ」
「なんとでもおっしゃってください」
不躾なお願いには違いないのだけれど、手が空いているようだったら市長のわがままに付き合ってあげてほしいと伝えると、忍足さんは「いいよ」と快諾してくれた。その旨を伝えると、市長はやっぱり子供のような無邪気さで「きゃっほー!」と飛び跳ねたのだった。
SPが運転する車に乗り、市長の自宅であるマンションに向かう途中、スーパーに寄って買い出しをした。なんでもいいということだったので、ビールとワインとウイスキーをかごに入れ、サラミ、ハム、チーズ、それに冷凍のピザなんかを放り込んだ。支払いは市長の自腹。当然のことだ。
そして、市長宅。市長はえらく可愛らしい部屋着に着替えた。柔らかそうな素材のピンク色のパーカーに短パンだ。白い脚はすらりとしていて美しい。
リビングの真ん中にある折り畳み式の黒いちゃぶ台を囲んで、まずはビールで乾杯。やがてはワイン、ウイスキーになった。私と忍足さんはきちんとセーブしているけれど、市長は結構な勢いで飲んだ。酔うと、より子供っぽくなるらしい。会話の中でことあるごとに、きゃはは、きゃははと笑う。
「しつもーん。悠さんって、どんな女性が好みなんですかぁ?」
「考えたこともないです」
「でも、これまでに付き合った女性はいるんですよね?」
「いたような、いなかったような」
「はぐらかさないでくださいよぉ」
「自分のことを話すのは好きじゃないし、得意でもないんです」
「だけど、私は悠さんともっともっと仲良くなりたいですよぅ」
「現状、毎日、電話で話すほど親しいのは市長くらいですよ」
「やったやった。それは嬉しいお言葉です。もういっそ、付き合っちゃいませんか?」
「それ、もう聞き飽きました」
「ひどーい。聞き飽きたとかあ。でも、今夜は本当に嬉しいです。悠さんとお酒を飲める日が来るなんて、思ってもいませんでしたから」
「そうですか」
「そうそう。その素っ気ない返事をするところも好きなんです」
「そうですか」
「悠さん、悠さん。一緒に写メを撮らせてくださいませんか?」
「いいですよ」
「きゃはっ。やったー。はい、黒峰さん、お願いね」
私は市長からスマホを受け取った。市長は飛びつくようにして忍足さんに抱きつき、頬に頬をくっつけた。満面の笑み。忍足さんはぼーっとした顔。私はパシャリと撮影し、スマホを返した。
「ねぇ、黒峰さーん」
「なんですか?」
「悠さんのこと、本当にもらっちゃっていいの?」
「忍足さんにその気があるのなら、私に止める権利はありません」
「悠さん、どうです? 私のこと、好きになれそうですか?」
「どうでしょうね」
「ほら、またそうやってはぐらかすぅ」
「正直な気持ちを話しているだけです」
「ぐだぐだ言わないでくださいっ」
「ぐだぐだは言っていません」
「とにかく好きになってください!」
大きな声でそう言うと、突然、市長はこてっと横になった。すぐに寝息が聞こえてきた。えらくアルコールが進んでいたけれど、こうもいきなり寝てしまうとは。
市長の体の下に両手を差し入れた忍足さんは、彼女の体を軽々と持ち上げつつ腰を上げた。寝室に入り、すぐに戻ってきた。
「帰ろう、黒峰さん」
「忍足さん、お願いがあります」
「なんだろう」
「一杯、付き合っていただけませんか? 飲み足りないんです」
「君がそんなことを言うのは珍しいね」
「ダメですか?」
「ううん。いいよ」
「ありがとうございます」
常に忍足さんの気持ちを尊重しようと考えると、不思議と心に余裕ができる。なんとなくだけれど、今はそんな私でいいのだと思うことにしようと考える。