6.
二十一時過ぎをもって本日の業務は終了し、帰りにジムに寄った。
むしゃくしゃする。なんとなくだけれど、その理由はわかっている。
……嘘。
なんとなくだなんていうのは嘘。
理由は明確で明白で明快。
そうであるにもかかわらず、そうであることを認めたくないのはなぜだろう。プライドのせい?
違う。
単純に性格の問題?
それも違う。
だったら、どうして?
……よくわからない。
鬱屈した気持ちになっている時は体を動かすのが一番だと、最近になって知った。ランニング。エアロバイク。バタフライマシン。一通り終えると、プールで泳いだ。クロールで百メートルを四本。水から上がって、プラスティック製の青いベンチに座り、乱れた息を整える。
整ったところで顔を上げた。すると、忍足さんの姿が見えた。研ぎ澄まされ、角ばっているシャープな細身の肢体。本庄さんの体が分厚い筋肉に恵まれたトレンディな体だとするなら、忍足さんの体は一切の無駄が削がれているといった印象。
忍足さんはプールサイドを歩いて、こちらにやってきた。突然の出現に驚き、目をぱちくりさせた私の隣に腰を下ろしてから、「黒峰さん、こんばんは」と初めて口を開いた。
「忍足さん、どうして……。ここの会員になったんですか?」
「ううん、違う。ひょっとしたら君に会えるかなと思って来てみただけ」
「そ、そうなんですか?」
「うん」
「連絡をくだされば、どこにでも出向きましたよ?」
「別になにか話があるわけじゃないから」
だったら、どうして訪れたのだろう……。
私に会いに来てくれたのだろう……。
そのへん、疑問だけれど、嬉しいなという気持ちが込み上げてきて、つい頬が緩んだ。
だけど次の瞬間、あるヒトの喜びに満ちた笑顔を思い出して、胸の内がもやっとなった。結果が気になるというか、結局どうなったのか、そこのところがどうしたって気になってしまう。だから、訊いてしまう。なにも聞かされたくないのに「あのー……」だなんて切り出してしまう。
「ん? なに?」
「市長とは、お話になられたんですか……?」
「さっき話した」
「内容は?」
「付き合ってくださいって言われた」
「やっぱり、そういうことですか」
「うん」
「で、でも、今、市長に恋愛話が持ち上がると、なんだかよくない気がします。仕事とプライベートは切り離して考えるべきかもしれないですけれど……」
「僕の言うことならなんでも聞くって言ってたよ。『治安会』の特殊性も理解しているつもりだから、なんだったら、市長を辞めてもいいとまで言ってた」
「えーっ、えーっ」
彼女の野望はどこに行ってしまったのだろう。のし上がりにのし上がること。ニッポン初の女性総理になること。それが目標だったはずだ。
「ちゃ、ちゃんと断られたんですよね?」
「うん。でも、諦めませんって」
「えー……」
「どうして好かれたんだろう。不思議だなあ」
いや、それは多分、否、間違いなく一目惚れだろう。確かに忍足さんはとても三十路には見えない美青年だ。美人すぎる市長とだって釣り合いがとれる。
「立派な大人だなあって思ってたけど、意外と子供っぽいところもあるんだね、あの市長さん」
私にもそう見えた。忍足さんに熱烈にアタックする様子は、子供の無邪気さを孕んでいた。
「あのー、忍足さん」
「うん?」
「その……私は、忍足さんには、『治安会』にいていただきたいです」
「急になに? 辞めるつもりはないけれど?」
「そ、そうですよね。ですよね」
「うん。それにしても」
「は、はい」
「いかにも強そうな体つきになってきたよね、黒峰さん」
「つ、強そう?」
「イイ感じに筋肉がついてきたなってこと」
私は思わず両腕で胸元を隠した。恥ずかしい。忍足さんに見られていることも、がっしりとしてきた自分の体も恥ずかしい。いつもなら、こんなふうには思わないのに……。
「き、きっと抱き心地、よくないですよね」
「抱き心地?」
「えっ、あっ、嘘っ。私、なに言ってるんだろ」
私がしどろもどろになっていると、忍足さんがのっそりとベンチから腰を上げた。「黒峰さん、立ってみて」と要求してきた。私は激しく目をしばたく。「どど、どうしてですか?」と激しく吃る。「いいから、立って」と告げられたので、止む無く立った。やっぱり恥ずかしい。見られたくない。なぜかみじめさすら覚える。体が震える。
そんな私のことを、忍足さんが抱き締めた。つい「えっ」と声が漏れた。忍足さんのごつごつとした体が、男性の体が、全身に刺すような刺激をもたらす。違う。ちくちくするのは胸だ、心だと、まもなく気づいた。
そっと離れた忍足さん。私は多分、ぽかんとした顔をしていることだろう。忍足さんは普段通り、ぼーっとした表情のまま。
「抱き心地」
「えっ」
「抱き心地、悪くないよ?」
「試されたんですか?」
「うん。試してみた」
「そ、そうですか」
「うん」
自分を納得させるようにして、私は「そうだよね、そうだよね」と心の中で繰り返す。そう。忍足さんにはまるで他意などないのだ。私が自分を指して「抱き心地がよくないだろう」と言ったのを受けて、それが本当かどうか確かめただけなのだ。そうだ、そうだ。それだけのことだ。
そんなふうに解釈したいにもかかわらず、深い呼吸をするつもりで吐いた息は震えていた。
これほどまでに言葉に表現しがたい感情を抱いたのは、初めてのことだった。
帰りは忍足さんの車に乗せてもらった。もちろん、白いRX-8。独特の軽快なエンジン音。ロータリーサウンドというらしい。
「すみません。送ってもらってしまって……」
「いいよ。気にしないで」
「今度、お礼をさせてください。食事でも奢らせてください」
「だから、いいよ、気にしないで」
「すみません……」
「いいよ」
さらに、ごにょごにょとなにか言いかけて、でも、具体的にものを言うのはよしておいて、そんなふうにしていると、不思議と苦笑が込み上げてきた。
ダメだなあ、らしくないなあ、しっかりしろと内心で自身を軽く鼓舞する。
いや、らしくないのではなくて、そもそも、これが私なのかな? わからない。わからないけど、まあいいか。だって、今という時間は、とても心地がいいから。
忍足さんが私に流し目をくれた。
私は微笑みを返した。
「やっといつもの君に戻った」
「私、今日はえらくバタバタしていましたよね」
「そうだね」
「おかしく見えましたか?」
「幾分」
「ですよね」
クスクスと笑った私。
「そういえば、今日は尋問をするためにホワイトドラムに来たって……」
「うん」
「ルーファス、ですか?」
「そう」
ルーファス。過激派組織『アンノウン・クローラー』、通称『UC』の首魁とされる人物で、昨年末にウチで捕らえることに成功し、今はホワイトドラムの地下施設に収容している。無論、組織の人員、構成、加えて最終的な目標、目的を教えてもらうために拘束しているということだ。
「なにか吐きましたか?」
「吐かなかった」
「そもそも、しゃべれないんじゃないかっていうのは?」
「本当みたい。色々と試したけれど、発声すること自体、できないみたい」
いつも表情を変えず、口調に関しては穏やかそのものだけれど、忍足さんには容赦のない一面がある。いろいろと試したということは、指の爪を一本ずつ剥ぐくらいはしたのだろう。あるいは、もっと暴力的で残虐な行為にまで及んだのかもしれない。
「僕の印象を話そうか」
「ルーファスについてですか?」
「ううん。『OF』と『UC』について」
「聞かせてください」
「『OF』は謎、『UC』は単なる寄せ集め」
「『OF』は戦闘狂の集団では?」
「もしそうなら、もっと戦火を広げてる」
「それは、はい、確かにそうですね。しかし、謎というのは?」
「彼らには、ウチと遊びたがっているような節がある。それはわかるよね?」
「わかります」
「だけど、仕掛けてくるにあたって、あまり数を寄越さない」
「それってどうしてなんでしょう」
「その点だけについて評価すると、対等な条件で僕達と喧嘩をしたがってるんじゃないかってことが言える」
「すなわち、喧嘩自体が目的だと?」
「うん。でも、舵取り役が不確かである以上、その目的は簡単に変異するかもしれない。だから、現状、僕は謎と定義してる」
「では、『UC』が寄せ集めというのは?」
「個としてのルーファスには確かなカリスマ性がある。彼に近いニンゲンは彼を信奉してるとも思う。でも、組織自体が大きくなりすぎた。いびつなアメーバ状に成長してしまった」
「幹部を除いた他の連中については、アンコントロールの状態……」
「そう。『UC』にはネームバリューがある。そこに利権を見て、群がる連中が多く出てくる。実際、これまでにヤクザとのつながりも露見した。浅ましい話だよ」
「ルーファスの当初の目的、加えて現在も持ち続けているであろう思想、それはどういったものなんでしょうか」
「そのへんを聞かせてもらいたいんだけど、彼自身はやっぱり大物ということで間違いない。なにも教えてはくれないよ。この先もずっとね」
「あるいは、ルーファスが本気になれば」
「うん。組織は筋肉質になるのかもしれない。繰り返しになるけれど、彼自身は賢い人物だからね」
「立て直しに乗り出さない。なぜなんでしょう」
「さあ。めんどくさいんじゃないかな」
「たったそれだけの理由ですか?」
「大きな理由だよ。ニンゲン、めんどくさいことはやらないよね?」
「まあ、そうかもしれないですけれど……」
「とにかく、ウチにはもう、ルーファスは必要ない。後藤さんにもそう言っておいた。逮捕、送検が妥当だってね。フツウに裁判を受けてフツウに罰せられたほうが、いくらか建設的だよ」
「じゃあ、近々、身柄は移されるんですね?」
「そうなるんじゃないかな」
以降、忍足さんはなにも言わなかった。口を開かなかった。私も座席に深く座り直し、押し黙っていた。ドライブの爽快感だけを味わった。
送ってもらった先は最寄りの駅のロータリー。私達はお互いの自宅を知らない。ただ、忍足さんも最近住まいを変えたということだけは知っている。別に教え合ってもいいとは思う。だけどそれをしないのは、その必要がないからだ。理由はそれだけ。それ以外にない。
私はRX-8が走り去るのを見送ると、身を翻して家路についた。いろいろあった一日だったけれど、心はもう落ち着いていた。やっぱり私は基本的に冷ややかなニンゲンなのかもしれない。少なくともそう指摘されたら、認めざるを得ないだろう。