3.
殺害予告を受けて、マリカ女史が「以降はやめにしましょう」と訴えたところで、市長の考えを曲げるまでには至らない。
市長は今後も一日のスケジュールの一般公開を続けるらしい。自らの強靭さをアピールしたいという意図があるのはもちろんのことだけど、市民を不安に陥れたくない気持ちだってあるのだろう。
市長の意向は最大限、尊重したいと思う。だけど、世間にも知られている通り、また私が知る限り、『OF』はけっして甘っちょろくはない。十二分の危険性を孕んだ集団だ。だから、最大限の緊張感をもって、事にあたる必要がある。
そんな思いを抱き、また肝に銘じ続ける中、一週間が経過した。日々のデスクワークに定例会見、それに囲み取材への対応。市長の主だった業務はそんなところで、だから彼女は基本的に役所にいる。よって、現状、警護はしやすい。
私はいつも市長室に控えている。ソファを借りて、ノートパソコンのキーボードを叩いている。ウチの情報部と連携したり、あるいは個人的なルートを頼ったりしながら、『OF』の動きに関するインフォメーションの収集を怠らない。でも、どれだけ調べたところで、事が起きる予兆、前兆みたいな事象を得るのは困難だろう。そもそも組織の全容が、まるで見えていないのだから。
正午ピッタリになったところで、マリカ女史が入室してきた。無言で二人分の弁当を応接セットのガラステーブルに置くと、すぐに出ていった。
市長が椅子の上で両手を突き上げうんと伸びをする。彼女は「毎日毎日お弁当だと、さすがに飽きちゃうなあ」と言い、それから「黒峰さんもそうじゃない?」と訊いてきた。
「毎日、メニューは違いますから」
「まあ、そうなんですけれどね」
「なんでしたら、買い出しくらいはしてきますが」
「いいわよ。悪いから」
「わかりました」
市長がこちらにやってきた。向かいの一人掛けに座る。弁当の単価は四百七十円。削れるところは削って、必要なところには惜しむことなく投入する。市の財政を預かる公人としては当たり前のことだけれど、それを実践するのは中々難しいことではないかと思う。
シューマイをぱくりと口に放り込むと、市長はおいしそうな顔をしてもぐもぐと咀嚼する。表に立つ時以外は本当に幼く映る。二十八歳という年齢を疑いたくなる瞬間は、幾度もあるということだ。
「黒峰さん、この仕事をするようになってから、どう? 夜はちゃんと眠れてる?」
夜間における市長宅の警備と朝の出勤時の警護。それらはSPに任せている。近くに部屋を借りることまで想定していたのだけれど、今のところ、そこまではしないで済んでいる。
「元々、眠れない夜というのは、あまりありません。根が図太いんだと思います。市長はいかがですか?」
「やっぱり例の予告が出されてからは、眠りが浅いかな。ちょっぴりだけど」
「脅すわけではありませんが、いつ襲ってくるかわからない怖さはあります」
「そうよねぇ。そうでしょうねぇ」
「やはり、スケジュールの公開はやめませんか? 非公開にしても、苦情を寄越してくる市民なんていないはずです」
「非公開にすれば、それで完璧?」
「いいえ。せめてもの措置程度の効果しか得られないかもしれません」
「そこまで言っちゃう?」
「はい」
「訊いていいかしら」
「なんでしょう」
「黒峰さんだって、私のボディガードを永遠に務めるつもりなんてないわよね?」
「私は上司の指示に従うだけです。ですが、私がずっとつきっきりになるということは」
「そうなの。それっていつまで経っても、私の身が危険なままだってことになっちゃうの」
「とはいえ、どのタイミングで安全と判断できるのか、その点については、今の段階では見当もつきません」
「わかりやすく、もうやーめたって言ってくれると助かるのにね」
「そうですね」
夜。与党の役員との会食に向かう車中。後部座席。
てっきり一人で対応するのだろうと思っていたのだけれど、同席してほしいと市長に頼まれた。「どうしてですか?」と問うと「お願いっ」と言って手を合わせて見せるだけ。私は眉をひそめた。
「部屋の外での警護では、まずいんですか?」
「誰よりも私の近くにいてくれるっていう約束でしょう?」
「それはそうですが」
助手席に座っているマリカ女史に、市長は「いいわよね?」と尋ねた。女史の「問題ありません」という返答はいかにも事務的だった。
市内の高級料亭に到着。すでに店の前には警護のニンゲンが立っていた。私が降車し、市長が続く。アスファルトに降り立った彼女は先ほどまでとはまるで違う雰囲気をまとう。その立ち姿からはスマートな美貌と大物感が匂い立つ。
女将に部屋へと案内された。畳間。二つの座椅子に二人のニンゲン。恰幅のいい初老の男性はテレビで見たことがある。党の政調会長である野際だ。もう一人のしゅっとした若い男性も議員で、名は梶原。若いと言っても、四十手前だけれど。
そんな二人に共通していることがある。すでに顔が赤い。揃ってニヤニヤとした笑みを浮かべている。正直に言ってしまえば、助平そうな酔客にしか見えないということだ。
市長が「ご無沙汰しています。野際さん」とお辞儀をした。「やあ、安奈ちゃん。先にやらせてもらってるよ」と野際議員。続けて「隣の女性は誰だい?」との質問アリ。市長は「専属のボディガードです」と事実だけ回答。二人の男性のねちっこい視線が絡みつくのを私は感じた。
野際議員が右手を広げ「さあ安奈ちゃん、どうぞ座ってよ」と言い、次に「そちらのお嬢さんも」と促してきた。「はい」と腰を下ろした市長。私も「失礼します」と続く。
ビール瓶を持つ手を伸ばしてきた野際議員。その勧めを、市長は「いえ。お酒は」と右手で遮り、断った。
「ああ、そうだったね。残念だよ。飲むところを見てみたいし、君が頬を染めたらさぞ可愛いことだろうから」
「ご期待に沿えず、すみません。ところで、今夜はどうして梶原さんが?」
「おっ、初対面だけど、顔と名前は知ってるんだね」
「それはもう。若手のホープとされているかたですから」
「そうだよ。我が派閥の有望株だ」
梶原議員は粘っこい視線を市長から外すことなく、小さく頭を下げた。
「いやあ、コイツ、安奈ちゃんのファンらしくってね。どうしても会ってみたいって、前からうるさかったんだよ」
「お初にお目にかかります、葉桐さん。梶原です。以後、お見知りおきを」
「よろしくお願いします」
「本当にお美しいですね。そのへんの女優なんて裸足で逃げ出しますよ」
「恐れ入ります」
「そちらのボディガードさんのお名前を伺ってもいいですか?」
梶原議員にそう尋ねられたので「黒峰と申します」と私は答える。すると、「黒峰、なにさん?」と続けざまの質問を受けた。
「曜子です」
「漢字は?」
「曜日の曜に子供の子です」
「へぇ。素敵な名前ですね」
「こらこら梶原、素敵なのは名前だけじゃないだろう」
「確かに、見た目もお綺麗だ」
「恐縮です」
そんな調子で始まった会食は、その後、二時間ほど続いた。
帰りの車中。
「黒峰さん、ちょっと遅い時間だけど、これから付き合ってくれない?」
「どちらにですか?」
「私の自宅」
「ご自宅に?」
「大丈夫。帰りのタクシー代は出すから」
「経費ですか?」
「違います。私の自腹です」
「であれば、問題ありません」
「決まりね」
そう言って、市長は私にウインクして見せた。
「マリカもどう?」
「私は結構です。最寄りの駅でおろしてください」
「わかったわ。運転手さん、お願いね?」
「了解しました」
市長宅は、ごく一般的なマンションの一室だ。エントランス前と部屋の前に警護のニンゲンが二人ずつ立っているのが、なんとも物々しい。
中に入るとリビングに通され、テレビのほうを向いているシックな茶色いソファを勧められた。腰を下ろし、トートバッグはふかふかの白い絨毯の上に置く。
そのうち市長がやってきて、私の隣に「よっこらせ」と座った。両手に五百ミリリットルの缶ビールを持っていたので、少なからず驚いた。「イケるわよね?」と訊いてくる。「はい」と答えると、一本、手渡された。
「飲めないんじゃなかったんですか?」
「そういうキャラ設定ってだけよ」
互いにプルトップを開け、小さく乾杯。
ぐびぐびと喉を鳴らすと、市長は「ぷはーっ、おいしーっ!」と大きな声を発した。
キャラ設定。外では飲まないということなのだろう。確かに、今のご時世、アルコールを口にしないニンゲンのほうが、よりクリーンに映るように思う。そうでなくても、飲めると知れれば、今夜のような酒宴に招かれるケースも増えてしまうかもしれない。それを面倒だと考えている部分もあるのではないか。「あまり愉快な会食じゃなかったでしょう?」などと訊ねてくるあたり、きっとそういうことなのだろう。
「愉快か不愉快かで言うと、後者でした」
「スゴくクールに振る舞ってたけど、やっぱりそうだったんだ?」
「市長にも同じことが言えます」
「そうかしら」
「はい。大したすまし顔でしたよ」
「どうして同席してもらったかはわかる?」
「なんとなくは」
「そのなんとなくで正解よ。要は不快な視線を分散させたかったの」
市長はまたぐびぐび飲んだ。
「ホント、今日は貴女にいてもらえてよかったわ。まさか梶原さんまで来るとは思ってなかったし」
「男のヒトって、酔うとどうしていやらしい視線を隠そうともしなくなるんでしょうか」
「酔ってなくても、邪な視線を向けてくるヒトはいる。違う?」
「違いません」
「でも、のし上がるためには耐えなくちゃ」
「政党の支持に乗ろうと考えたのは、やはり将来を思ってのことですか?」
「うん。国政を担うには、なにより多くの味方が必要だから」
「その点において、現与党と市長の思惑は一致していた」
「そういうこと」
「まあ、この先もずっと、与党は倒れませんよね。これまでずっとそうだったんですから。自らを高めるのではなく、相手をただ貶める。そんなことを繰り返す野党に政権なんてとれるわけがありません」
「右翼的な発想ね」
「そうでしょうか」
「ううん。そうでもないかも」
そう言うと、突然、市長はがっくりとうなだれた。
「お疲れですか?」
「少しだけね」
「早く休まれたほうがいいですよ」
「その前に、一緒にシャワーを浴びない?」
「えっ」
「背中を流してほしいなあ、なんて」
「市長」
「なにかしら」
「それって軽いパワハラです」
「そうかもしれないわね」
市長は、ふふと笑んで見せたのだった。