24.
週が明けての月曜日。
三十階建てのビルの屋上にある観覧車に、市長と二人で乗っている。
窓の外に広がっているのは、いざなみ市の美しい夜景。
一昨日の土曜日の夜、ネットのライブ放送で、『OF』が突然、声明を発表した。男とも女とも判別のつかない目出し帽姿のニンゲンが、ボイスチェンジャーを使用して告げたのだ。
「葉桐市長は解放された。殺害の対象ではなくなったということだ。これは敗北宣言ではない。我々はただ、飽いたのだ」
飽いた。
その言い分を指して、後藤さんなんかは「奴さん達らしい引き際だね」と言った。『行動部』の先輩がたも、同じように感じているかもしれない。
声明を発表するに至った根拠、原因はなんなのだろうと、私は考えた。
仮に、先週の金曜日の決闘が、なんらかのきっかけになったのだとしたら?
仮に、ルーファスが敗れることになれば、手を引くつもりだったとしたら?
だけど、あの一件に関して言うと、ある意味、私はズルをした。実質的には私の負けだ。忍足さんに助けてもらったわけだから。その様子を監視していたニンゲンくらいいただろう。たとえば、サムが観戦していたのではないか。
それでも、忍足さんの参戦、もしくは乱入は、反則技としてカウントされなかった?
私の勝ちということで、矛をおさめた?
それが既定路線だった?
所定の行動だった?
そのあたりはさっぱりだ。
忍足さんがその必要はないと言ったから報告書は作成していないけれど、やっぱり、きちんと後藤さんに相談すべきだろうか。
なんにせよ、『OF』の声明を額面通り受け取っていいわけがないというのが、私が出した結論だ。だから、ボディガード業務は続けるべきだと判断しているし、続くものだと思っている。今、観覧車に同乗しているのだって、警護の一環だ。
「ずっと乗ってみたかったのよ、これ」
私の正面の座席につき、目を細めて窓の向こうを見やっていた葉桐市長が、こちらを向いた。
「肩口の傷、大丈夫?」
分厚いガーゼが貼られている患部をさすりながら「平気です」と私は微笑んだ。
どうして怪我を負ったのかは説明していない。はぐらかした。でも、『OF』の声明は、ルーファスとの決闘があった翌日に出されたわけだ。私の怪我と声明の発表には、なにか因果関係があると推測されてもおかしくはないのかもしれない。
市長は再び、窓の外に目を移した。
表情は、尚も穏やかなままだ。
「もう温かくなってきたのに空気は澄んでいるのね。とても美しく見える」
「そうですね」
「自慢しちゃいます」
「どうぞ」
「こんなに綺麗な街の市長が私なんです!」
市長がおどけるようにして胸を張って見せたのがおかしくて、私は笑った。
「貴女との付き合いも、長くなってきたわよね」
「まだ三カ月にも満たないですよ?」
「でも、ほとんど三ヶ月。三カ月といったら、四半期よ?」
「ものは言いようですね」
「貴女と出会って、私は変わったように思う」
「どう変わられましたか?」
「前向きになった。うん。スゴくポジティブになった」
「冗談をおっしゃっているんですか?」
「どうしてそう思うの?」
「市長はずっと昔からポジティブだったはずです。そうでなければ、市長になんかになっていらっしゃらないはずです」
「実は公人になるにあたっては、迷いや抵抗もあったのよ。侵害されるとまでは言わないけれど、プライバシーなんてなくなっちゃうかもしれないんだから」
「ですが、今は」
「うん。そんなもの、どーでもよくなっちゃいました」
市長は大きく両手を広げて見せた。「はい、拍手」と言われたので、きちんと手をぱちぱちと叩いておいた。すると市長はまたえっへんとでも言わんばかりに胸を張って見せた。それから、彼女はおなかを抱えて笑った。
「あー、おかしい。貴女と一緒だと、いつもいつも愉快すぎるわ」
「私もです」
「本当に?」
「はい。市長と出会うことができて、私だって前向きになりました。頭でっかちなだけだったのも、少しは改善されたのかもしれません」
「少なくとも、表情は明るくなったわね。初めて会った時は気難しそうにも見えたもの」
「その割には、面接即採用だったじゃありませんか」
「真面目そうにも見えたから」
「実際、真面目だとは思っています」
「そんな貴女が、私は好き」
「愛の告白ですか?」
「そうかも」
今度はクスクスと笑った市長。
「あー、楽しかった。貴女との時間は、本当に楽しかったわ」
「楽しかったって、過去形にしないでください」
「ううん。過去形にしないといけないの」
「えっ」
市長は穏やかな笑みを、さらに深めた。
「貴女は、悠さんにおんぶに抱っこだって言ってたわよね?」
「はい。今でもそうだと思っています」
「私はいつしか、貴女におんぶに抱っこになってしまっていたの。ええ。貴女にスゴく依存していた。依存するようになっていた。それって、違う? 貴女にだって、頼られているっていう実感くらいはあるでしょう?」
「それはもちろん。ですけど、私は頼られても全然嫌なことなんて……」
「私はもっと強くならなくちゃいけないの。だって、今の時点でも将来の総理大臣候補だなんて言われているのよ? 私はやらなくちゃいけない、ううん、やり遂げたいの。世の中のヒトをたくさん幸せにしてあげたいの。だからよ、だから、私は貴女から卒業しようと思う。……ねぇ黒峰さん、卒業ってスゴくいい言葉だと思わない?」
「で、ですが、『オープン・ファイア』の言葉を全面的に信用するわけには――」
「今後も狙われたっていいの」
「それは、それはスゴく困ります」
「わがままを言わないの」
「わがままを言っているのは市長のほうです」
「どうしてそうなるのよ」
「どうしてもです」
「なにを言っているのか理解しがたいわ」
「私だってそうです」
「ああ、もうメチャクチャ。でもね、ちゃんと言います。黒峰さん。貴女を私の警護の任から解きます。総理にも後藤さんにも、明日、その旨、きちんと伝えるわ」
「そんな、一方的に……」
市長が両手を伸ばしてきた。
「手を貸して」
「お願いです、市長。私の話を聞いてくださ――」
「手を貸して。両手で、私の両手を包んで」
「……わかりました」
言いたいことをすべて飲み込んで、言われた通りにした。
すると、市長はぽろぽろと涙をこぼして……。
「貴女と一緒に過ごした時間、本当に最高だった。ずっと忘れない。一生の宝物にする」
私は唇を噛んで俯く。
だけど、自らを強く持とうと考えて、顔を上げた。
「ニッポン初の女性総理。私、本気で信じていますから」
「うん、うん……」
私は敬礼した。
「今までありがとうございました!」
大きな声でそう言うと、私の目からも、涙があふれた。
「こちらこそありがとう、黒峰さん。貴女は私の希望だった」
涙は止まらなかった。




