22.
タクシーに急いでもらってマンションの一室を訪れると、市長は出迎えてくれるどころか抱きついてきた。「ふえぇぇぇ、黒峰さぁぁん」と半泣きになりながら。
「落ち着いてください、市長」
頭を撫でてあげていると、ようやく離れてくれた。
目元をこすり、まだ「ふえぇ、ふえぇ」と、ぐずる。
止むを得ないので、私はトートバッグとボストンバッグをその場に置き、改めて市長のことを抱き締め、彼女の背を支えつつ前進し、リビングへと入った。
入ったところで市長は、毛足の長い白い絨毯の上にぺちゃんと座った。「帰ってきてくれなかったら、どうしようかと思ったよぅ」と、まだめそめそしてみせるけれど、さっきから私は感じていた。市長の振る舞いはどうもわざとらしい。アルコールの匂いもする。
だから問うた。「市長、酔ってますね?」と。
「えへへぇ、わかるぅ? ウイスキーがとっても美味しくてねぇ」
「私のこと、心配してくれてたんじゃなかったんですか?」
「心配だから飲んじゃったのぉ」
「意味がわかりませんよ」
私は溜息をつき、玄関に戻った。トートバッグとボストンバッグを拾い上げ、寝室に入る。速やかに黒のスウェットに着替えようとする。背後に気配。市長が覗いていた。
「なにか用ですか」
「いつ見てもスケベな体ですこと、うふっ」
「なに言ってるんですか」
私はいよいよ嘆息しつつも、視線を気にすることなく着替えた。
リビングへと戻る。市長に急かされ、腰を下ろす。四角いちゃぶ台の上にのっているのはジャックダニエルだ。そう高いお酒ではないはずだ。そううまいものでもないはずだ。だけど、市長ときたら切子のグラスを空け、「ぷはーっ、おいしーっ!」と口元を手の甲で拭ったのだった。
「市長、飲みすぎです。もう半分もないじゃありませんか。しかも、時間が時間です。明日の公務に響きますよ?」
「貴女が早く帰ってこないのが悪いんですぅ」
「それは申し訳ありませんでした」
「あはははは。頭下げちゃってるよ、このヒト。あはははは」
「もはやキャラ崩壊ですね……」
私は三度、溜息をついた。
「大丈夫、大丈夫。寝て起きたら元に戻ってるから」
「歯を磨いて、もう寝ましょう」
「あれ? なんか疲れてる?」
「そんなことはありませんよ」
私は笑みを作った。市長の体たらくに少なからず呆れているので、苦笑になったかもしれない。
まるで顎にアッパーカットでも食らったかのようにして、突然、市長が仰向けに倒れた。切子のグラスを持ったままだったので、それがフロアにぶつかって割れてしまった。私は慌てて腰を上げた。
「えーっ、割れちゃったのぉ?」
「動かないでください」
ちゃぶ台の下に置かれていた夕刊を広げ、その上に割れた破片をのせてゆく。まったく、世話がかかるというかなんというか。
「酔いがさめたら後悔しますよ?」
市長の趣味は切子の器を収集することなのだ。
「一番のお気に入りなんでしょう?」
「また同じヤツを買えばいいのぉ」
「きっと同じヤツなんてありませんよ」
「だよねぇ。一点物だよねぇ」
「そうですよ」
最後に市長の手から割れてしまったグラスを回収。怪我がなくて、本当によかった。
市長を横抱きに抱え、寝室へ。クイーンサイズのベッドの上にそっと寝かす。すぐに寝息を立て始めた。この分だと、今夜は抱き締めてあげる必要はなさそうだ。
改めて、リビングへ。腰を下ろして、ジャックダニエルを少しだけラッパ飲み。やっぱりあまりおいしくない。
ちゃぶ台の上のスマホが振動した。ディスプレイには本庄さん。
「よぉ」
「どうかされましたか?」
「ポーリングだ」
「死活監視なんですか?」
「そんなところだ。元気かなってよ」
「元気ですよ」
「今、自宅か?」
「いえ。市長の家にいます」
「そりゃまた、どうしてだ?」
「市長、かなりの寂しがり屋になってしまいまして」
「しっかりしてそうだけど、ま、弱い部分も透けて見えてはいたな」
「そうなんですか?」
「俺にはヒトを見る目がねーとでも思ってたのか?」
いきなり「その通りじゃない、脳筋野郎!」という声が割り込んできた。泉さんの声だ。泉さんはさらに「黒峰ちゃん、私、酔ってまーす!」と高らかに声を張り上げた。「今の今までヤってたんだよーっ!」と続いた。
私は「はは、は……」と言葉を失うしかなかった。
「困ってることは、ねーんかよ?」
「ありません。皆無です」
「皆無とまで言い切るってことは、なんか抱えてやがんな?」
「えっ」
「元刑事の勘ってヤツだよ」
「そうですか。勘、ですか」
「ああ、そうだ」
「スゴいです、本庄さん。ホント、スゴいです……」
「おまえが助けを求めてこねーうちは、なんもしてやらねーよ。してほしくもねーだろ?」
「はい」
「胸の真ん中、触ってみろ」
言われた通りにした。
「心臓、どんな感じだ?」
「静かなものです」
「じゃ、がんばれよ、ミス・クールビューティ」
「はい。ありがとうございました」
電話なのに、私は頭を下げていた。




