21.
公務に取り組む市長の姿勢に変わりはない。テキパキとデスクワークをこなし、堂々とした態度で定例会見に臨み、囲み取材には毅然とした対応を示す。
でも、市長室に戻ってきて私と二人きりになると、しばしば思い出したように溜息をつき、時には頬に涙を伝わせたりする。市長選を一緒に戦った戦友とまで言っていたマリカ女史を亡くしたわけだ。悲しまずにはいられないのだろう。
本当にかなり落ち込んでいるらしく、やがて市長は家で一人になることを嫌がるようになった。私はその気持ちを汲んだ。理解した。彼女の家で寝泊まりするのを日常とすることにした。
ベッドの上で、市長は「ごめんなさいね」と謝ることもあれば、ただひたすらにくすんくすんと鼻を鳴らすこともある。そして、最後は私の胸に抱かれるようにして眠るのだ。そんな調子だから、以前にも増して幼さを感じるようになった。同時にこの上ない愛おしさを覚えるようになった。
経緯というか成り行きというか、そういった事の次第を話した相手は、やっぱり忍足さんだった。ちょくちょく昼休みに顔を出してくれるのだ。それはとてもありがたいことだ。素直に嬉しいとも思っている。
今日も近くに用事があったからということで、寄ってくれた。おみやげはハンバーガー。一つを四口で食べてしまった本庄さんのことを思い出した。
「普段の昼食は、仕出し弁当だって言ってたよね?」
「はい。そうです」
「じゃあ、次からは僕の分だけ買ってきたほうがいい?」
「いえ。いただけるものはなんだっていただきます」
「お弁当はどうするの?」
「おやつに食べます」
「太るよ? っていうか、太った?」
「失礼なこと言わないでください。体重は全然変わっていません」
「ふぅん」
「そんなことより」
「うん?」
「『OF』、もしくは『サイドワインダー』です。彼らについてなにか情報が得られたなら、シェアしていただきたいです」
「日々の行動は報告書にしてDBに放り込んであるけど?」
「忍足さんには隠し事をした実績があります」
「そんなことあったっけ?」
「去年、『サイドワインダー』のニンゲンを一人、消したんでしょう?」
「ああ。あれはあの時点では君は知らなくていいと思ったから、言わなかったんだよ」
「じゃあ、いつかは教えてくださったんですか?」
「うん」
「スゴく嘘っぽいですよ、それ」
「なんにせよ、君の知るところになった」
「結果論ですね」
「手厳しいなあ」
「次からは重要な情報は必ず展開してください」
「善処する」
「忍足さんっ」
「わかった。約束するよ。それで、市長さんの調子はどう?」
「心配なさっているんですか?」
「最近、電話もかけてこないから」
「相変わらずです。一人では寝られないようです。時々、肌も求めてくるくらいで」
「肌を求める?」
「正確には、肌のぬくもりですね」
「裸同士で抱き合うの?」
「はい」
「君、そういうの、平気なんだね」
「平気もなにも、仕方ないじゃありませんか」
「女性と寝ることができるなら、恋愛の幅は広がる」
「誰もそんな話はしていません」
忍足さんと別れて市長室に戻った。
市長はデスクにつき、また憂鬱そうな表情を浮かべていた。長い吐息をつく。それから小さく数度、かぶりを振った。
「ダメね、本当に」
「なにがですか?」
「頭がシャキッとしないのよ。脳が働いてるなって実感できないの」
「すぐに立ち直るのは無理だと思います」
「だったら、私はいつまでこの調子?」
市長はそう言うと、両手で拳を握り、それをデスクに叩きつけた。
「市長……」
「『オープン・ファイア』。怖いけど、その一方で物凄く憎いの」
「次、忍足さんがいらした時には、市長もお誘いしましょうか? 気分転換になるかもしれませんよ?」
「遠慮しておくわ。今、忍足さんに会っても、私は泣くことしかできないから」
「私になにか協力できることがあれば、いつでもおっしゃってください」
「私にとって、貴女はもう、ただのボディガードじゃないわよね……」
市長は苦笑したように見えた。
「乗り越えなければならない苦難です。一緒に頑張りましょう」
「ええ、そうね。ありがとう」
私達はグータッチをした。
夜、着替えを取りに帰路を急いだ。市長が一人でいる時間を極力短いものにしたいからだ。アパートのエントランスに入り、郵便受けを確認する。
その刹那、心がざわとなり、背筋を冷たいものが滑り落ちた。
例の『サイドワインダー』の名刺が入っていた。
また居所がバレた?
そんな……。
次の瞬間だった。
後ろから、右の肩に手を置かれた。
ヤバい。
咄嗟にそう思った。
振り返りつつ、右の裏拳。
かわされ、腹部に当身を食らった。
意識が落ちる前に見たもの、者。
真っ赤なリーゼントにティアドロップのサングラス。
口元には笑み。
間違いない。
ルーファスだった。
気がついた時には、パイプ椅子に座らされ、両手を後ろ手に縛られ、目隠しをされていた。
息が早い。
焦っている。
そんなの当然だ。
それでも平静を取り戻そうとする。
深呼吸。
二回、三回。
大丈夫。
思ったより落ち着いた。
目の前に誰かいる。
顔が間近にある。
甘い……。
なんだろう、蜂蜜のような……。
そう、貴腐ワインのような香り。
「貴方はルーファスですか?」
率直に訊いた。
返事はない。
口が利けないというのは、やはり本当なのだろうか。
「本当ですよ。ルーファスさんはしゃべることができません」
……誰?
少年のように高い声が背後から聞こえた。
「僕はサムと申します。ご存じありませんか?」
……サム?
サム?
知っている。
本庄さんの体にいくつもの風穴を空けた男。
地下鉄ジャックを起こした男。
恐らく『OF』の幹部である男。
「僕は貴女のことをよく知っています。『治安会』の黒峰曜子さん」
貴腐ワインのような香りが遠ざかった。
ルーファスは離れたらしい。
後ろから両肩にそれぞれ手を置かれた。
サムだろう。
サムは耳元で「ルーファスさんは貴女と決闘がしたいそうですよ?」と、ささやいてきた。
「決闘? ……いいですね」
私は不敵さを込めて口元を緩めた。
「意外です。ここで微笑むことができるんですか」
「だけど私、『治安会』のメンバーの中では、一番、下っ端ですよ?」
「知っていますよ。そんな貴女を狩れば、諸先輩方はさぞお怒りになることでしょうね」
「それが目的ですか?」
「そんなたいそうなものではありません。ただ、そうなったら面白いだろうなというだけであって」
「これからやりますか?」
「いえ。スクエアと呼ばれるビル群をご存知ですか? 五十階建ての黒い建物が九つで正方形を成しているのですが」
「知っています」
「三日後の二十三時に、そのうちの中央のビルの屋上にお越しください。一階からエレベーターに乗っていただければ大丈夫です」
「わかりました。さあ、拘束を解いていただけますか?」
「承知しました。尚、解放後、二十秒間は目を――」
「わかっています。この場で揉めようとは思っていません」
「肝が据わっていらっしゃる。下っ端なのに」
私を後ろ手に拘束していた縄が切られた。
「では、ごきげんよう」
サムがそう言い、体感で二十秒を数えてから黒い目隠しを取ると、殺風景な白い部屋にいることがわかった。地下だろうか。前方に上へと続く階段が見える。
椅子から腰を上げる。感触が消えていないからあるとは思っていたけれど、やっぱりだ。やっぱり、ショルダーホルスターにはきちんとオートマティックがおさまっている。サムにルーファス。食えない男達だと感じた。
階段をのぼり、ドアを開けると、暗い道に出た。雑踏は近い。結構な繁華街の路地裏らしい。
目を覚ました時から、スマホが幾度も振動していることには気づいていた。ジャケットのサイドポケットから抜き取り、電話に出た。
「やっとつながった」
忍足さんだった。
「市長さんから連絡があったんだ。いつまで経っても戻ってこないって」
「すみません。ちょっとトラブっていました」
「どんなトラブル?」
サムは決闘だと言っていた。ということは、一対一。他言無用であるのは言わずもがなということだろう。なので、「大したことではありません」とだけ伝えておいた。忍足さんは鼻を鳴らすようにして「ふぅん」と言った。あまり気に留めた様子ではなかった。
「すぐに市長に連絡を入れます。なにも心配なさらないでください」
「わかった。じゃあ、またね」
「はい」




