20.
二十一時。
これからは、よりハードな仕事になる。そう考え、自分を追い込むことに決めた。精神面をタフにすることは、そうそう簡単にはできない。だけど、肉体を強靭にすることはがんばればできる。そこで、泉さんにトレーニングを見てもらうことにした。泉さんは今日も快諾してくれたのだった。
ジムにおいて、あらゆるマシンを活用して、腕力、脚力、瞬発力、持続力を鍛える。あっという間に汗びっしょりになる。
それでも、ここからが本番だ。
セルリアンブルーのリングに上がる。
これまではこういう時にはこうすればいいという、いわゆる対症療法的な戦い方を教わってきた。でも、これからはこちらから積極的に打って出なければならないシチュエーションが増えるだろうとの考えから、泉さんが得意とするムエタイを伝授してもらうことにした。なにせ立ち技最強とうたわれる格闘技だ。齧る程度でも心得があれば、否、齧るだけで終わらせるつもりはない。やるからにはしっかりと使えるようになりたい。
「ムエタイといえば肘と膝だけど、下手に接近をゆるすと厄介な場合もあるだろうから、まずは蹴りを覚えよっか」
私は「はいっ!」と大きな声で返事をした。「やる気だねぇ」と泉さんは目を細めてみせた。
「さて、それではミドルキックとはどういうものか、曜子ちゃんに身をもって体感してもらおうかな。腹筋の強度の確認も兼ねて」
「腹筋の強度、ですか?」
「うん。見映えのする体にはなりつつあるけど、実際に使い物にならないと意味がないから」
軽く行くよ。
泉さんはそう言い、両手を顔の前に掲げた。それから速射砲のような左のミドルキック。私は腹斜筋のあたりでまともにバチンッと受け止めた。
そしたら悲惨な目に遭った。
体の芯どころか頭の芯にまで響くような強烈な痛みに襲われ、思わず腹を押さえてうずくまってしまう。胃からすっぱいものが込み上げてきた。吐かずには済んだものの、かなり咳き込む羽目になってしまった。これで軽くだとすると、全力で蹴られたら、体はぽっきり二つに折れてしまうのではないか。そうとまで思わされる威力だった。
「ごめんごめん。最初はローがよかったかもね」
「それならそれで、脚が壊れてしまったかもしれないので」
私はなんとか立ち上がった。
だけど、やっぱりおなかは痛い。
「私のこと、蹴ってみる? それともサンドバッグにしとく?」
「えっと、じゃあ、サンドバッグで」
泉さんの研ぎ澄まされた腹筋を蹴ると、こちらのほうがダメージを受けてしまいそうだと考えての発言だった。
泉さんがサンドバッグを向こうで支えてくれる。私は「シュッ」という短い息を吐きつつミドルキックを放つ。蹴り慣れていないものだから、脛のあたりがすぐに痛くなってしまう。だけど、挫けてなんていられない。一心不乱に蹴り続ける。
「いいよ。その調子。かたちが崩れてきたら、すぐに指摘してあげるから」
「はいっ」
「曜子ちゃん、スジがいいから、すぐモノになるよ」
「ありがとうございますっ」
シュッ、シュッ、シュッ!
やっぱり脛のあたりが痛む。
さっき泉さんに蹴られた腹部もまだ痛む。
それでも蹴る、蹴り続ける、蹴り続けた。
帰りに居酒屋に寄った。
せっかく運動したあとなのだから、もっとこう、ヘルシーなものを出してくれる店を選んだほうがいいとは思うのだけれど、泉さんはいつもこの調子だ。「好きな時に好きなものを飲んで食べてする。それのどこが悪い」と胸を張ってすら見せるのだ。「いつ死ぬかわからないしね」というのは冗談だと信じたい。
つぶ貝のこりこりとした食感を味わい、日本酒のおちょこに口をつけ、それから泉さんに「今日は本庄さんはどうされているんですか?」と訊ねた。「出てくる時は寝てたよ。そろそろ起きて、晩酌してるんじゃないかな」という答えが返ってきた。
「でしたら、呼んで差し上げたほうがよいのでは?」
「誘ったら、邪魔したくねーって言うよ」
「全然、邪魔じゃないですよ?」
「でも、きっと言うの」
「よくわかりません」
「だね。私もよくわかってない。それにしても、どうしたの?」
「なにがですか?」
「だって黒峰ちゃん、今日はえらく気合い入ってたじゃない。なにかそうなる、あるいはそうならざるを得ない原因、要因があったわけ?」
「……気づいたんです。というか、気づいていたんです」
「どういうこと?」
「今の私って、市長のボディガードっていう立場じゃないですか? でも、実状は違います。はっきり言って、なんの役にも立てていません」
「そこまで卑下することはないと思うけど?」
「いえ。本当に、ダメダメなんです。今のままだと、市長も守れず、自分だってやられてしまうんじゃないか。そんなふうに思えるんです」
「ホント、思い詰めちゃってるねぇ。後ろ向きとも言う」
泉さんは右手で頬杖をつき、左手で焼酎のお湯割りが入ったグラスを傾けた。にこりと笑む。そのニンゲン離れした色っぽさには、羨ましさを通り越して恐怖感すら覚えてしまう。
「ルーファスなんですけど」
「彼がどうかした?」
「『サイドワインダー』については?」
「そこそこ知ってる」
「では、『サイドワインダー』の設立者がルーファスだということは?」
少しだけ目を大きくした泉さん。
「そうなの?」
「DDさんに教えてもらいました」
「DDちゃん、私には教えてくれてないのに」
「恐らく、訊けば教えてくださっただろうと思います」
「そゆことか。にしても、『サイドワインダー』って、凄腕ジョブキラーの集団なんでしょ? なのにそのトップがルーファス? なんかしっくり来ないなあ」
「それって」
「うん。一度は私があっけなく捕まえたわけで。なにかの心得があるふうでもなかった。そんな奴が殺し屋達のトップを張れるのかなって」
「実は泉さんでも見抜けないくらいの裏テクを隠し持っている、とか」
「だったら面白味がある。ウチの連中はみんな、彼は優れた戦略家だとか言ってるよね? 私はその限りであってほしくないな。もっと面白い奴でいてほしいって期待してる」
「期待するのはどうかと思います」
「たとばの話をしたつもり」
「泉さん」
「なに?」
「『OF』の首魁が神崎英雄だった場合」
「彼だった場合?」
「私は泉さんの敵にはなりたくありません」
「それ、いまだにみんな言ってくれるよね。ただの昔の不倫相手でしかない男に、私みたいな超絶のイイ女がいつまでも固執するって、どうして考えるのかな」
「それは一般論です」
「一般論って、少なからず普遍的なものでしょ?」
「私はまともに恋をしたことなんてありません。でも、本当に好きなヒトができたなら、そのヒトのことを本当に愛することができたなら、私はその気持ちを一生忘れないと思います」
「黒峰ちゃん、君は若いからそう思うだけ――」
「ごまかさないでください」
私は強い口調で、泉さんが言いかけたセリフを遮った。だけど、泉さんは気にするような素振りも見せず、甘ったるい目をしたまま小首をかしげて見せた。
「本庄さんは鎖です。その鎖が切れてしまったら、泉さんはきっと……」
「きっと、なに? 彼になびくって言いたいの?」
「違いますか?」
「神崎が本当に想像通りの男だった場合、彼は私が殺すの。世間のためにも。私のためにも」
「ご自身のためでもあるんですね?」
「百歩譲って、そこは認めてあげてもいいってこと。だからこそ、信じてほしいな」
「なにが正しくてなにが間違っているのか。それは私にはわかりません。だけど、一点だけ確信していることがあります」
「それは?」
「本庄さんは常に正しい」
「言いすぎじゃない?」
「そんなことはないと思います」
「みんな、アイツのこと、好きだなあ」
私は「はい。好きですよ。大好きです」と言って、にっこりと笑った。
「話を戻しますね」
「うん。そうして。神崎の話はおなかいっぱい」
「ルーファスが率いる『サイドワインダー』。それは今や、『OF』の殺戮部隊です。そして『OF』が私達『治安会』をターゲットにしている以上、どこかでぶつかることは確実です」
「市長さんが襲われた以上、余計にその確率は高まった。そして、市長さんが狙われている以上、最初に『サイドワインダー』とぶつかるのは黒峰ちゃんかもしれない。先の一件は悠君が片づけちゃったみたいだけど、市長の身辺警護について万全を期すなら、今後も彼を含めた態勢であるほうが望ましいよね」
「やっぱりそう思われますよね。ですけど、私にだってプライドがあります。いつまでも忍足さんにおんぶに抱っこというわけにはいきません」
「やっぱり、気合い入ってるね」
「やり切って見せます」
「あー、でも」
「でも?」
「いや。市役所での一件のこと。レッドマリーのこと」
「それが、どうかしましたか?」
「黒峰ちゃんにとっては、いい思い出じゃないよね」
「まあ、そうですね、はい……」
「結果について今さらどうこう言うつもりはないよ。ただ、危なっかしい目薬だな、って。言ってみれば、弾丸をよけて見せるっていう悠君の超人的な特性を、人工的に作り出しちゃうわけでしょ?」
「そうなります」
「弾は当たらない。なら、どうするべきか。近接戦闘に持ち込むしかないね。裏を返せば、掴まえさえすればどうにでもなるってこと。そういう観点から言うと、対策部長は朔夜かな? アイツの腕力と俊敏性は獣じみてるから」
「同感です」
「あー、あー、あー」
「な、なんですか?」
「朔夜のこと思い浮かべたら、メチャクチャしたくなってきちゃった」
「し、したいって、なにを?」
「SEXに決まってるじゃない」
「……もう出ますか?」
「そうしよう。速やかに帰るとしよう」
「今日はありがとうございました」
「いいよ。また一緒に遊ぼうね。女二人ってのも、いいもんだから」




