2.
首都の移転が行われたのは二千四十五年。もう六年も前のことだ。
首都機能の東京一極集中は旧来からの懸案事項であり、そこで国は四十四番目の県として神戸沖にいざなみ県を誕生させ、主に政治の中心を当該に移した。
わざわざ新しい県をこしらえた事由については、諸説囁かれている。いっときの雇用を創出したかっただけではないのかという見解も少なくない。どれだけ社会が成熟しても好況を維持し続けることはやはり難しく、不況に喘ぐ時期はまま訪れる。そういうことだろうか。
いざなみを首都とするのは暫定的な措置であるとの見方もある。だとすると、最終的にはどこに落ち着くのか。例えば、いつか政権交代が起きれば、また新たに様々な意見が飛び交うのかもしれない。とはいえ、それほど優先度の高い議題にはならないだろう。現状、いざなみを問題視する声そのものは上がっていないのだから。
JRと地下鉄を使って、新ヶ関へ。
新ヶ関は官庁街で、近代的な建物が居並んでおり、その一角に市役所もある。
市役所に着いたところで、まずトイレを借りた。鏡を見る。濃くない化粧。薄く小さな唇には申し訳程度に赤いルージュを引いてきた。黒いパンツスーツにグレーのスタンドカラーコート。トレンチは避けた。物々しい印象を与えてしまうかもしれないから。上から下までチェックして、まあこんなものだろうと改めて納得したところでトイレから出た。
多くのヒトが行き交う一階のホール。受付で名と用件を告げた。待っているとまもなくして、インカムをつけた黒服の男性が二人現れた。警護のニンゲンだとすぐにわかる。
案内され、十三階へ。エレベーターホールから離れた位置に市長室はあり、その前には紺色のスーツ姿の若い女性が立っていた。細いフレームの銀縁眼鏡をかけている。見るからに秘書といった装いだ。実際、そうなのだろう。赤茶色の髪、肌は浅黒く、エキゾチックな顔立ち。ハーフだろうか? 当たり前だが、日本国籍であることは間違いない。
「『治安調査会議』の黒峰曜子さんで間違いありませんか?」
「はい。ボディチェックは必要ですか?」
「当然です。私が対応させていただきます」
トートバッグの中を改められたのはもちろんのこと、全身に触れられ、さらには金属探知機での検査を受けた。それが終わると、秘書の女性は部屋のドアを開けてくれた。「中へ」と私のことを促したのだった。
そう広くない室内。両サイドの壁際にはスチール製の書棚。余計なものがないシンプルな部屋だ。応接セットのソファも黒いだけ。下手に愛想があるよりはよっぽどいい。
市長は窓を背にして執務用のデスクについていた。書類に目を通している。忙しそうに見えるのはけっしてポーズではないだろう。次から次へと読み込んでいく様子から、頭の回転の速さが窺える。
やがて書類を置き、ふーっと一つ息をついてから、市長はこちらに視線を向けてきた。さっぱりとしたおかっぱのヘアスタイル。とても整った目鼻立ちは、知的な女優を想起させる。「いらっしゃいませ。『治安会』の黒峰さん」と言って目を細める様は実に魅力的と言えた。
「どうぞ。掛けてください」
そう勧められ、二人掛けのソファに腰を下ろした。小さなガラス天板のテーブルを挟んだ向こうにある二脚の一人掛けには、市長と秘書の女性がそれぞれ座った。
「市長の葉桐安奈です」
名乗ってから小首をかしげて微笑んだ市長。秘書の女性は膝の上でノートパソコンを広げた。議事録でもとるつもりだろうか。
「今日はどうしてお越しいただいたか、ご存じですか?」
「勿論です。面接だと伺っています」
「そう、面接です。でも、もう合格でいいかなって」
「えっ」
「まあ、驚きますよね。理由を述べます。貴女の見た目が気に入りました」
「容姿が選考基準に入るんですか?」
「そうです。おかしいですか?」
「おかしいかおかしくないかはともかく、お言葉には従います」
「素直なんですね。それともクールなのかしら?」
「後者でありたいとは、常々、思っています」
ここで秘書の女性が「市長」と口を挟んだ。「戯れは困ります。真面目に面接していただかないと」とたしなめるように言った。
「あら。私は至って真面目よ?」
「しかし」
「あ、ごめんなさい。紹介が遅れてしまいました。隣の彼女はアワノ・マリカ。一見してわかる通り、秘書を務めてもらっています。第一秘書です。言わば、一番の戦友です」
マリカ女史は右手で眼鏡のつるを押し上げ、目礼だけ寄越してきた。むすっとした表情に見える。それがデフォルトなのかもしれない。
「なにか質問があるなら遠慮なく言ってください。なにせ面接なんですから」
「殺害予告の対象とされたにもかかわらず、警備の増強を拒まれていると聞いています。そもそもそれが、私が呼ばれるに至った理由だと」
「はい。煙たくてうっとうしいだろうから増やすのはやめてほしいと言ったのは事実です」
「しかし、命にはかえられないのではありませんか?」
「だから、女性ならいいと折れたんです」
「なぜ、男性ではいけないんですか?」
「男性とは一緒にお風呂に入れないでしょう?」
「要するに、それは」
「ええ。私が欲しているのは、誰よりも近くで常に私のために働いてくれるボディガードです。確かな実力で私を守ってくれる女性が必要だということです。ただそれだけのことです。友達感覚で付き合えると、よりベターかな?」
「友達、ですか」
「いけませんか?」
「そうは言いません。ですが」
「ですが?」
「いえ。私、あまり人付き合いが上手なほうではないんです」
「やっぱりクールなんですね」
「しかし、市長がなんと言おうと、警護のニンゲンは増員されますよね?」
「その通りです。どうしたって、おじ様達が過保護ですから」
「それだけの人材だということの証左です」
「褒められちゃった」
市長は小さくぺろっと舌を出して見せた。二十八という年齢は本当なのだろうかと疑問を抱かされた。今の市長はもっと若く、否、幼く見える。目にも仕草にも態度にも天真爛漫さが窺える。定例会見等を見る限りでは年齢以上の毅然さ、泰然さを醸し出しているのに。どちらが本当の彼女なのだろう。あるいはどちらも本当の彼女なのだろうか。
「雑談をしてもいいですか? しかも、フランクな感じに切り替えて」
「はい」
「市長」
「マリカ、ちょっと黙っていて。『治安会』。私も調べたんだけど、これといった情報は得られなかった。いったい、どういう組織なの?」
「後藤はなにか申しませんでしたか?」
「なんでも屋だっておっしゃてたわ」
「一言で言うなら、その表現が最も適切です」
「私は不安です。得体の知れない組織の、しかも一番の下っ端だなんて」
「だから、マリカ、貴女は――」
「いいんです、市長。マリカさんがおっしゃっていることは事実ですし、危惧されるお気持ちもわかりますから」
「貴女自身、自信はないの?」
「自信うんぬんの話ではありません。重要なミッションであると認識した上で、自らの実力をもって、やれることをやるだけです」
「本当にクールね」
「市長はそればかりですね」
「話を変えます」
「はい」
「テレビで見る私とナマの私。印象は違う?」
「全然、違います」
「やっぱり?」
「はい」
「もっとこう、男性社会に物申すような姿勢が強いと思ってたんじゃない?」
「そうですね。でも、実際の市長には柔軟性を感じます。特段のわけもなく、既存のシステムを拒絶、非難するようなかたには見えません」
「実際、男性を排他的に押し退けるようにして仕事を進めるつもりはないの。例えば、もっと女性議員を増やすべきだっていう意見も世間ではよく聞かれるけど、私はその限りではないと思ってる。性別に関係なく、優秀なニンゲンがポストを埋めればいいって考えてる」
「同感です。学と徳が重要だと考えます」
「私にはその両方があるかしら」
「あると思います」
「そんなふうに言ってくれる貴女こそ、聡明そうに見えるわ」
「セルフプロデュースしているつもりです」
「セルフプロデュースか。その点は私も同じね。頑ななまでに強い女性でいようとしている。なぜだかわかる?」
「市民がそれを望んでいるからではありませんか?」
「そういうこと。私はなんにでもなれるし、なんにでもなるつもり。人々の総意を汲んだ器になって見せる。その手始めが市長ってわけ。一所懸命やるのは当たり前だけど、肩慣らしにはちょうどいいかなとも思ってる」
「肩慣らしですか」
「肩慣らしよ」
笑顔でそう言ってしまえるこの女性には、やはりスケールの大きさを感じる。なにものにも屈しない、臆さないだけのメンタルの強さも兼ね備えているような印象を受ける。そんなこちらの思考の流れを読んだかのように、市長は「度胸はあるのよ。人一倍ね」と言い、改めて微笑んで見せた。
「体力にだって自信があるわ。合気道の心得もある。だけど、本当にこの世の中に殺し屋みたいな存在がいるとするなら、とてもじゃないけど敵いっこない。だからこそ、私は貴女に期待する」
「命を賭します。お約束します」
市長はソファから腰を上げ、私も立ち上がった。
「これからよろしくね、黒峰さん」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
私達はがっちりと握手を交わした。
なにをどれだけできるのか、それはわからない。でも、市長には守るだけの価値があるように考える。心配や不安といった要素がないまぜになって胸の内を埋め尽くそうとするけれど、このヒトのためにでき得る限り手を尽くそう。その気持ちに嘘偽りはない。そう断言できる。