12.
本日、木曜日発売の某週刊誌に、美しすぎる市長と美しすぎるボディガードの特集記事が組まれていると、泉さんから電話で知らされた。「さすがだね」と茶化され、笑われもした。私が嘆息したことは言うまでもない。
午後十四時半。定例会見を終え、市長とともに執務室へと戻り、自席の椅子に腰を下ろしたところで、そのタイミングを見計らっていたかのように、ジャケットのサイドポケットの中でスマホが振動した。画面を確認。通話の要求。忍足さん。
「黒峰です」
「早速、要件を伝えるよ? いい?」
「はい」
「去年、福島に出張したの、覚えてる?」
「もちろんです」
『OF』の下部組織とされる『V2』が、特殊な効能のあるレッドマリーなる目薬を製造しているという情報を得て、福島の広大なススキ畑の中にぽつんと建っている工場を訪れたのだ。
特殊な効能。
それは、ものの動きが非常にゆっくりに見えるようになるというもの。弾丸すらよけられるようになるとの話だった。工場は警察が押さえ、その後、くだんの目薬は都内の倉庫で大量に押収された。効能が効能であるだけに、まだ捜査は続いていることだろう。
このレッドマリーにまつわる話として、実はおかしな点がある。点眼した上で行われたとおぼしき犯罪が発生していないのだ。そんな便利なものがあるなら、もっと悪事に利用されてもよさそうなものなのに。
忍足さんが目薬の話を持ち出してきたということは、そういった疑問を解消するにあたって、なにか進展があったということだろうか。
「今、黒峰さんが想像している通りだよ。最近、僕は目薬を追っている。とても優れた効能があるにもかかわらず、積極的に活用された痕跡がない。念のため、そのへんの事情を確かめておこうっていう話。クスリ周りの仕事だから、僕にお鉢が回ってきたんだろうね」
忍足さんは元マトリだ。
「それで、なにかわかったんですか?」
「レッドマリーには副作用というか、とんでもない性質があった。ほとんどの場合、点眼すると失明してしまうんだ」
「えっ」
「事実らしいよ」
「……なるほど。だから、これまで使用者の存在が表に出ることはなかったんですね?」
「そういうこと。僕はほとんどの場合と言ったけど、では、どのくらいの確率で正しい効果が得られるのか。それは五パーセントに過ぎないようだよ」
「その数値は、どれくらいのサンプルを用いて得られた結果なんでしょうか」
「点眼した、あるいは点眼させられたニンゲンはリスト化されていた。人数はちょうど四十。ただ、僕が話を聞かせてもらったニンゲンは、リストにある限りじゃないかもしれないとも話していた」
「現状においては、少なくとも、言ってみれば二人の超人がいるのは確実だということですね?」
「うん。リストは紙で保管してあった。電子データにしてDBに放り込んだから。顔と名前が掲載されてる。一応、目を通しておくといいよ」
「わかりました。情報のシェア、ありがとうございました」
「仕事は順調?」
「今のところは」
「がんばってね」
「はい」
通話を終えた、まさに次の瞬間だった。
秘書のマリカ女史が市長室に飛び込んできたのだ。
彼女らしくもなく、ひどく慌てている様子。
表情にも色濃い焦りが滲んでいる。
「落ち着いて、マリカ。どうしたの?」
「い、一階で事件が。居合わせた多くの市民が人質にとられています!」
「なんですって!」
市長は立ち上がった。
「人質ということは、なにか要求があるのね?」
「市長を出せと言っているそうです」
「まさか、『オープン・ファイア』なの?」
「は、はい」
「犯人の数は?」
「男性と女性の二名です。マシンガンで武装しているとのことです」
「わかりました。対応します」
「市長」
「なに? 黒峰さん」
「まずは座ってください」
「嫌よ」
「座ってください」
語気を強めて、私は言った。でも、市長は椅子に腰掛けてはくれない。むしろ、睨みつけるような険しい視線を寄越された。
「ダメよ。絶対にダメ。市民に犠牲者を出すわけにはいかない」
「ですが市長――」
「黒峰さん、議論している暇はないわ。解決策があるなら早く言って」
「それは……」
「貴女もフツウの精神状態じゃないのよ。それくらいは顔を見ればわかるわ」
確かに、今、この場で一番冷静なのは市長であるように思う。
「『SAT』の出動を要請します。い、いえ。もう連絡が行っているかも――」
「だから黒峰さん、時間的猶予はないの」
その時、手にしていたスマホが振動した。通話の知らせだ。
画面を確認すると、幸一とあった。
ミユキさんは先輩だけど、仕事で絡むことは少なく、だから滅多に電話もかけてこない。否。ひょっとしたら、初めてかけてきたのではないか。
「いいわよ。出なさい」
市長にそう言われたので、とりあえず通話に応じた。「オ、オッス、曜子ちゃん」と少々どもり気味の挨拶がまずあった。まったく、こんな急事の折になんの用だろう。
「なんですか? ミユキさん。用件があるなら早く言ってください」
「お、おおぅ、なな、なんでいきなり喧嘩腰なんだい? 俺っち、なにか悪いことしたかい?」
「速やかに用件を」
「わ、わかった。じ、実は今、市役所の近くまで来てるんだ。そこで、お、お茶でもどうかなって思ってよ」
つい大きなため息が漏れた。
「無理です」
「えっ、そ、それはやっぱ、生理的に受けつけないから、とか……?」
「それもあります」
「う、ごめん……。っていうか、それも? なにか他に理由があるのかい?」
「取り込み中なんです」
「な、なにで忙しいんだい?」
「市役所の一階で事件が発生しているんです」
「事件?」
「人質事件です。はい、もういいですか? 切りますよ?」
「……待つんだ、曜子ちゃん」
「えっ」
ミユキさんの声が急に真剣みを帯びたので驚いた。
「ぜひとも、詳しく話しちゃくれないか?」
「で、ですから、そんな暇は――」
「話すんだぜ、ベイベ」
電話なのに、声しか聞いていないのに、若干、気圧されてしまった。
「ひ、人質の命と引き換えに、市長を殺すとのことです」
「犯人の数は?」
「男女一名ずつ、計二名だそうです」
「他に情報は?」
「ありません」
電話越しに、パトカーのサイレンが聞こえてきた。
やはり通報済みだったらしい。
ミユキさんの「曜子ちゃん」という声と、市長の「黒峰さん」という声が重なった。
「もう行くわ。これ以上、待っていられないもの」
「で、ですが」
「貴女はついてくる? それだけ聞かせて」
「も、もちろん、行きます」
曜子ちゃん曜子ちゃんとミユキさんがしきりに呼び掛けてくるけど、私は電話を切った。部屋を出ていく市長の後ろに続いた。
二階まで吹き抜けになっている一階のホール。
その中央に人質は集められていた。
人質らを挟んで、男女二人組の犯人と対峙した市長。彼女の隣に私は立ち、下唇を噛みながら相手を睨みつける。忌々しい思いよりも、苦々しい思いのほうが強いかもしれない。こんな事態は避けたかった。避けられなかったことだけれど、避けたかった。避けなければならなかったとすら考える。
男はすらりとした痩せ型だ。女のほうもシャープさを感じさせる体つき。二人が身につけている防弾ベスト、肩から提げているマシンガンが、事の重大さ、物々しさを容赦なく突きつけてくる。
「まずはお礼を言わせてください。ご足労いただき、ありがとうございます、葉桐市長」
そう言ったのは男のほう。理知的な感のある声だ。事実、聡明そうな雰囲気がある。男は「隣の女性が、『治安会』の黒峰曜子さんですね?」と続けた。私のことを知っているらしい。
「詳しいことは訊かないわ。興味もないし、そんなこと、どうだっていいし。ただ、私を殺したらすぐに退くことだけは約束して」
「わかっています」
「本当ね?」
「はい」
私はほとんど無意識に懐から拳銃を抜いた。男に対して銃口を向ける。市長に「やめて、黒峰さん」と注意されたけれど、言うことを聞かない。「こんな大胆なことをしでかして、逃げ切れるとでも思っているんですか?」と男を問い詰める。
「命を惜しむつもりはありません。しかし、無鉄砲になっているわけでもありません。逃げ切れる可能性もあると言っておきます」
「どういうことですか?」
「発砲されてみてはいかがですか?」
「えっ」
「発砲されてみては? と言いました」
「ほ、本当に撃ちますよ?」
「かまいません。反撃もしません。ただし、その場合、人質を一人――」
男がそこまで述べた時点で「やめなさい、黒峰さん!」という市長の制止の声を無視し、私はトリガーを引いた。
目を疑うべき信じられないことが起きた。男は首を横に傾けただけで、銃弾をかわして見せたのだ。互いの距離は二十メートル程度しかない。なのにかわされた。
「そんな、どうして……」
口をついて、そんな声が漏れた。男は穏やかな笑みを浮かべたままでいる。そして、男はいきなり、人質の一人、座らされている老婆に向けて、マシンガンを撃った。老婆はあっという間に蜂の巣と化し、横倒しになった。
人質達の悲鳴がこだまする。まさに阿鼻叫喚の地獄といった様相を呈してくる。そこに「静かにしろ。黙れ」とでも言わんばかりに、今度は女のほうが天井に向けて連射。市民らは押し黙ったものの、はっきりとした怯えは確かに伝わってくる。
ここで私は、ようやく気づいた。男がどういうニンゲンであるか、ようやく理解した。
男は目を細め「そうです、黒峰曜子さん。レッドマリーですよ」と言ったのだった。
「私が最初の成功例です。そして、隣の彼女が二例目」
「確率五パーセントの、たった二人の超人……」
「超人ですか。なんだかこそばゆい呼び名ですね」
「どうして、その程度の成功率しかないクスリを大量生産していたんですか?」
「リストはいくつかありましてね。人種ごとに分けられているんです。特にアラブ人、ペルシア人と相性がいい。成功のパーセンテージが跳ね上がるんです。あとは中南米でもよく売れましたね。彼らにも上手くフィットした」
「レッドマリーは輸出品。『OF』の資金源だった……?」
「そういうことです」
男が市長にマシンガンを向けた。いよいよ殺す気らしい。咄嗟に私は市長の前に立つ。両手を広げて盾になる。こんなことをしても無駄だ。実際、男は至極冷静に「黒峰さん、貴女を殺して市長も殺す。それで終わりだ」と言った。
無念だ。
私にはなにもできなかった。
なにひとつできなかった。
結局、誰も守れなかった……。
そんな諦観の思いに駆られ、ぎゅっと目を閉じた時、顔のすぐそばで、ヒュンッという風切り音が鳴った。目を開ける。男がどっと前に倒れた。女が振り返る。女は向こうを向いた瞬間、糸が切れた操り人形みたいに、がくっと崩れ落ちた。
状況を把握するまでには、十秒ほどを要した。
誰かが外から撃った。ガラス張りの壁の向こうから狙撃した。
では、その誰かとは誰なのか。
片道三車線、計六車線を挟んだ向こう側の歩道で大きく手を振っている男性が見えた。
それはミユキさんだとわかった。
スナイパーライフルをおさめたのだろう、黒いケースを手に提げ、ミユキさんは去りゆく。
スマホが鳴った。
「もしもし……?」
「俺っちが撃った二人で間違いなかったかい? ってか、間違ってたらシャレにならないんだけどな」
「レッドマリー……」
「うん?」
「犯人の二人は、レッドマリーの使用者だったんです」
「ああ。例の目薬か。俺っちも同僚が書いた報告書くらいは読むんだぜ。ってことは」
「はい。不意打ちの狙撃くらいしか、仕留める手段はありませんでした」
「市長さんはラッキーだったな。ガラス越しでも殺れる奴なんて、そうはいないんだぜ、ベイベ」
「ありがとうございました」
「いいってことよ、なんだぜ」
夕方。
私と市長は応接セットのソファに並んで座っている。
肩を寄せ合うようにして。
市長は「スゴいわよ、私の運って。いえ。私達の運よね」と言うと、背もたれに体を預け、上を向いて息を吐いた。「まったく、同感です」と答えるより他なかった。
「ですが、私の軽率な行動のせいで、女性が一人、犠牲になってしまいました」
「止むを得ない判断だったと思いなさい。背負い込みすぎるのは、よくないわ」
「それでも、私は一生、悔やみます」
「忘れないことは大事よ」
「はい」
「被害者の葬儀には、私も行きます」
「申し訳ありません」
込み上げてくる涙とさまざまな感情を抑え込むために、私はただただ唇を噛む。
タッチの差だったとまでは言わないけれど、もう少しだけ耐えていれば、待っていれば、ミユキさんがなんとかしてくれた。片づけてくれた。解決してくれた。それは結果論でしかないのかもしれないけれど、感情のままに発砲してしまったことは、やはり反省しなければならない。
苦笑が漏れる。反省してばかりだなと思う。私の仲間、『行動部』の先輩方も反省はするだろうし、後悔することだってあるだろう。でも、私の反省や後悔はなんというか、ひどくレベルが低い気がする。ボディガードという業務は確かに初めてで、だから経験値不足なのは当然だ。それでも、もっとこう、うまくできないものだろうか……。
「黒峰さん、貴女、例えばどこかのタイミングでこの仕事が終わったら、後藤さんに辞表を提出しようとか、考えてない?」
市長から不意にそう問われた。
私はまた苦笑いを浮かべる。
「そこまでは考えていません。でも、そうしたほうがいいと思われますか?」
「それは貴女自身が決めることよ、と言いつつも、辞めないほうがいいとアドバイスしておくわ。辞めたらきっと後悔するもの」
「でも、先輩に迷惑をかけてばかりです」
「その先輩は、迷惑だなんて思っていないわよ」
「そうでしょうか」
「そうよ。だから、しょぼくれている場合じゃない」
「……わかりました。これからも、今の仕事に全力を尽くします」
「その意気よ。私もがんばるわ」
私と市長はグータッチした。




