10.
肌寒い日が続いている。
今日も出勤し、市役所へ、市長室へ。
毎日、始業の時刻より三十分早く通っているのだけれど、葉桐市長はいつも私より先にデスクにつき、新聞を広げている。こちらが「おはようございます」と挨拶すると、文字を読むのを止めないまま「うん。おはようございます」と寄越すのもいつものこと。
私は脱いだスタンドカラーコートをハンガーラックに吊るしてから、市長のデスクのすぐかたわらに設けられている自らの席についた。トートバッグからノートパソコンを取り出し、起動させる、起動したところでメーラーを開く。サブジェクトの一覧を確認しても対応が必要そうなメールは見当たらなかった。市長も外出の予定はないので、今日は少々、時間を持て余すことになるかもしれない。
市長が新聞を畳んで、ノートパソコンを操作し始めた。今度はネットでニュースを閲覧するのだろう。ルーチンワークの一環だ。市長は情報の真偽の見極めに長けている。まあ、そうでなければいけないとも思う。立場が立場なのだから。フェイクニュースに踊らされるようなことがあってはいけないのだから。
市長が「ねぇ、黒峰さん」と話し掛けてきた。ネットで目ぼしいスレッドを探している私はディスプレイを見たまま「はい」と返事をした。
「もう二月なのね」
「それがどうかしましたか?」
「バレンタインが近いなあ、って」
「そうですね」
「素っ気ないわね」
「どなたかにチョコレートを?」
「できることなら、職員全員に配りたいわ」
「色々と問題が発生しそうです」
「残念ながら、そうなのよねぇ。貴女はあげたりしないの? 例えば義理チョコとか。『治安会』には、そういった文化はないの?」
「配るヒトもいらっしゃいますし、配らないヒトもいます。私は後者です」
「女は愛嬌って言うわよ?」
「今の時代は度胸です」
「相も変わらず、さっぱりしてるわね」
「そういう性格ですので」
「あのね、黒峰さん、私ね? 悠さんには差し上げようと思うの」
突っ込んだ情報を得るべく書き込みをしていた手を、つい止めてしまった。市長のほうをちらと見る。彼女は両手でデスクに頬杖をつき、ニコニコ笑っていた。
「そうですか」
私はブラインドタッチを再開する。
「貴女、若いわよね。私と一緒」
「なにをおっしゃりたいんですか?」
「まだまだ不意打ちに弱い。いきなり悠さんの名前を持ち出されると、戸惑って見せるじゃない」
「特に戸惑ってはいません」
「悠さんとは最近、会ってるの?」
「会っていません」
「言えば会えるの?」
「わかりません。尚、会うつもりはありません」
「あら。どうして?」
「用事がないからです」
「私が貴女の立場なら、好き好きアピールしまくるなあ。お弁当なんか作っちゃったりして」
「好意を伴う厚意の押しつけは行為としてどうかと思います」
「あら。上手いこと言うわね。だけど、恋愛において貴女の考え方は間違ってる。前々から思っていたんだけれど、黒峰さんってヴァージンなんじゃないの?」
心臓がどくんと跳ねた。体も跳ねた。なかばしどろもどろになり、「なななななっ」なんていう意味不明で不可解な発声をしてしまった。
一気に顔が熱くなる。額はおろか、耳まで真っ赤になっているかもしれない。目だって白黒させてしまっていることだろう。「やっぱりそうなの?」と言って、市長はいやらしい笑みを浮かべて見せた。
「いいい、いきなりなにを言い出すんですか」
「ねぇ、どうなの?」
「あっ、あっ、ありますよ。経験くらい」
「嘘つき」
「ほ、本当です。嘘じゃありませんっ」
「じゃあ、初めてした時はどうだった? 痛かった? 気持ちよかった? イケた?」
「いい、イケたとかっ」
「二十六歳よね?」
「そ、それがなにか?」
「男は三十歳まで童貞だと魔法使いになるっていうじゃない? 女はどうなのかなって」
「な、なに中学生みたいなことを言ってるんですか。っていうか、ホント、処女じゃありませんから」
「だ、か、ら、どうしてそんな嘘をつくの? 私は別にそれが恥ずかしいことだとは思わないわよ?」
「それこそ嘘です。馬鹿にした目をしていらっしゃいます」
私はディスプレイに目を戻し、マウスを操作する。本部のネットワークに接続を試みる。接続できたところで「この話はもうオシマイです」と一方的に話を打ち切ってやった。まったく、朝っぱらからなんてことを言ってくれるのか。市長どうこう以前に、女性としての品格を疑いたくなる。
……いや。ひょっとすると、こういう会話って、案外、フツウだったりするのだろうか。
私には友人と呼べる友人がほとんどいない。高校を卒業してすぐに自衛軍に入り、以来、自分のことを女として意識することもなかった。意識すべきではないと強く定義していたのだ。だから、いわゆる女子力みたいなものが絶望的に欠乏しているであろうことには自覚的だ。そこは改善しなければならない箇所なのだろうか。あるいは改善したほうがいい部分なのだろうか。さまざまな経験が欠けているからだろう。現状、ちょっとわからない。
「美人すぎるボディガードっていうあだ名、信じてもいいと思うわよ?」
言われて、市長のほうに目をやった。彼女は頬杖をついて、マウスを使っている。
「そのあだ名は大嫌いです」
「でも、真実よ。保証してあげるわ」
「だからって、そう言われても……」
「到底、自分に自信を持つことはできない?」
「はい……」
「なにかきっかけが必要ね。だけど、そのきっかけっていうのは降ってきたりしない。自分から動いて作るものよ」
「なんだか怒られているみたいな気分になってきました……」
「ただのアドバイス。ちなみに、悠さんはダメよ? あげないんだから」
「だだ、誰が忍足さんとセックスしたいだなんて言いました?」
「したくないの?」
「し、したくありません」
「また嘘をつくー」
「嘘じゃありませんからっ」
どうして頑なに否定してしまうのだろう……。
その気持ちがないと言ったら嘘になってしまうのに……。
私にとって、やっぱりあのヒトは、ちょっと特別で……。
だから、話題を持ち出されただけでも、心が乱れてしまうわけで……。
そんなの、らしくないってわかっているのだけれど……。
俯いた。
目を閉じた。
吐息をついた。
そして思い立った。
お弁当、作ってみようかな……?
翌朝、スマホのアラームをセットして五時に起きた。
電話でアポはとった。忍足さんは最寄り駅まで迎えにきてくれて、市役所まで送ってくれるらしい。
私が「お忙しいところ、すみません」と謝罪すると「いいよ、全然」とのことだった。短い返答だったけれど、やっぱり優しさを感じた。考えてみれば「会いたい」と伝えるのは初めてだ。ひょっとしたら、忍足さんは「なんだろう」と怪訝に思っているかもしれない。それを顔に出すヒトではないけれど。
お弁当作り。いきなり背伸びするのは危険に違いないと考え、簡単な物を中心にした。ミートボールにウインナー。鶏の唐揚げは自作してみた。案外、上手く揚がった。肉っけばかりではいけないのでブロッコリーを茹でた。あとはプチトマトを詰めてみた。白いご飯にはのりたま。料理に関しては不器用極まりない私にしては頑張ったほうだ。容器として利用したのは使い捨てのもの。食べ終わったあとはビニール袋に入れて廃棄してもらえばいい。
七時半になったところで家を出た。最寄り駅まで向かう途中は、意外と緊張しないものだなと感じていたのだけれど、いざ白いRX-8の助手席に乗り込むと、一気にドキドキしてきた。駅前のロータリーを出たところで、「お弁当、作ったんだね」と言われると、さらにドキドキが増した。
「最近は自分で作ってるの?」
「い、いえ。今日からです」
「いつもは外食?」
「仕出し弁当です」
「市長さんと一緒に食べるの?」
「そうです」
「お弁当を自作したのは、業者のだと添加物とかが心配だから?」
「はい」
……あれ?
あれれ?
なんだか自分で食べるみたいな流れになってしまっている、ぞ……?
「あ、あの、忍足さん。そうではなくて」
「なにが違うの?」
「お、忍足さん、今日のお昼は、なにを食べるつもりですか?」
「ウィダーを二つ飲む予定」
そう。忍足さんはとても燃費がいい。
緊張したまま押し黙って俯いていると、時間の感覚が曖昧になるらしい。気づいた時には到着してしまっていた。忍足さんは市役所の目と鼻の先の路肩にハザードをつけて停車させた。
ドアを開ける。「ありがとうございました」を言って降車しようとする。そこで自分を奮い立たせた。このままじゃいけないと思い、勇気を振り絞ることにした。
「お、忍足さん、これ」
ぎゅっと目を閉じ、思い切って忍足さんに弁当箱を差し出した。
「その、これ、忍足さんのなんです」
「そうなの?」
「そうなんです」
「くれるの?」
「はい。差し上げます」
フツウの男性なら「どういう風の吹き回しだろう」などといぶかしむところだろう。「自分に気があるのでは?」みたいな俗っぽい解釈をする男性もいるかもしれない。だけど、忍足さんはとにかくフラットなヒトだ。受け取り「ありがとう」と言うだけで、そこにはなんの他意もないことだろう。
「おいしくないと感じたら、すぐに捨ててください」
「うん。わかった」
「じゃ、じゃあ、もう行きます」
「うん。いってらっしゃい」
車から降りて、早足で歩道を進む。頬が熱い。本当に、らしくないことをした。だけど、心の中でガッツポーズ。
やったやった。
ちゃんと渡せたっ!
夜、忍足さんから連絡があった。電話をかけてくれたのだけれど、入浴中で出られなかった。だから、メールで知らせてくれた。
<とってもおいしかった。ありがとう。>
自然と笑顔になった。
よかった。
本当に、作ってみてよかった。




