1.
長いだけの黒髪を、ほんの少しだけ茶色く、明るくしてみた。似合う似合わない以前に、美容室から出た瞬間、どうしてカラーリングなんてと首をかしげたくなった……というのは嘘。おしゃれに目覚めたとまでは言わない。だけど、以前よりヒトの視線が気になるようになった。その理由はわかっている。なんとなくだけれど、わかっている。
越してきたばかりのアパート。朝食。トマトをかじって、牛乳を飲んで。諸々の準備を終え、最後に髪をポニーテールに結ってから外に出た。年が明けた一月の曇天。ユニフォームとしてすっかり馴染んだ黒いトレンチコートはまだまだ手放せない。
自宅の最寄り駅の前のロータリーで待っていると、そのうち、流線型のフォルムが美しい白いスポーツカーが現れた。RX-8。車にはまったく詳しくないので、もう五十年近くも前に発売された車種だということは調べて知った。とにかく古い車だ。こまめなメンテナンスが欠かせないだろうし、だからコストもかかるだろう。それでも乗り続けるのは、相応のこだわりがあるからに違いない。
いつもなら速やかに乗り込むところだけれど、今日は運転席の人物がハザードランプをつけると降車してきた。その人物は茶色いくせっ毛。身長は百六十五センチの私よりほんの少し大きいくらい。痩せ型で、だから男性の体格としては小さいほう。今日も首に大きな黒いヘッドホンをさげている。こちらのことをぼーっとした目で見ると、小さく頭を下げて見せた。
「忍足さん、おはようございます」
私はそう挨拶した。でも、忍足さん、忍足悠さんはなにも返しては来ず、ただすれ違った。駅舎の並びにあるセブンイレブンへと向かう。缶コーヒーを二つ持って出てきた。無言で一つ、手渡してくる。ブラックだ。私の好みを忍足さんはきちんと把握してくれている。
「今日はどうして迎えに来てくださったんですか?」
湾岸沿いの高速道路を走っている最中に、そう訊いてみた。
「君を連れてくるようにって、後藤さんに言われたんだ」
後藤さん、後藤泰造さん。それが私の上司の名前。
「どうして忍足さんに連絡が行ったんでしょう。私一人を呼び出せば済む話なのに」
「それはまあ、僕の耳にも入れておきたい話があるからなんじゃないかな。僕と君はツーマンセルを組むことがとても多いから」
「お手を煩わせてしまっているようで、すみません」
「黒峰さんはなにも悪くない。今日はなにをしようと思っていたの?」
「いつも通りです。出勤して、情報部の端末を使って――」
「まさに情報収集をするつもりだった?」
「はい」
「最近、正直、暇していない?」
「そんなことありません」
「僕が君くらいの年齢の時は、いつもいつも、ちょっとした刺激を求めていたなあ」
「そうなんですか?」
意外なセリフだった。私が知る忍足さんは、極めて穏やかでフラットなヒトだから。刺激を必要とするようなヒトには見えないから。
「今の君ぐらいの歳ということだから、もう三年も四年も前になるのか。光陰矢の如しとは、よく言ったものだね」
「忍足さんは、まだまだ若いです」
「フォロー?」
「フォローではなく、客観的かつ一般的な評価だと考えます。まだ三十歳でしょう?」
「もう三十歳だ」
「そうは見えませんって言っているんです」
「童顔だから?」
「それもあります」
「ねぇ、黒峰さん」
「はい」
「髪の色、変えたんだね」
瞬間、胸がどきりとなった。
「は、はい、少しだけ……。変、ですか……?」
「女性のことは、僕にはよくわからないなあ。でも」
「……でも?」
「かわいらしくなったように映る」
顔がかあと熱くなった。こんなふうになってしまう理由はわかっている。
なんとなく……ううん、実はよくわかっている。
そのあとは無言の時間が続き、車中で三十分ほど過ごしたところで、言ってみれば私の勤め先の会社である『治安会』こと『治安調査会議』の本部が見えてきた。四階建ての白い建物は太鼓みたいなかたちをしていることから、”ホワイトドラム”と呼称される。
RX-8は高速をおり、内陸部へ向かって二キロほど走り、そうして到着したホワイトドラムの地下駐車場へと滑り込んだ。
エレベーターを使って、四階へ。なだらかに右方へと湾曲している通路を歩き、目的の場所に至った。後藤さんの居室だ。
自動式の引き戸を通って、まず忍足さんが入室。続いて私。
後藤さんは薄暗い部屋の真ん中で、ゴルフクラブを持ってスイングしていた。クラブを本棚に立て掛けたところで初めてこちらを向いて「やあ。いらっしゃい」と、にこやかな笑みを浮かべた。「まあ座ってよ」と応接セットの二人掛けのソファを勧められた。
忍足さんは無言で、私は「失礼します」と断ってから席についた。「いつものことながら、礼儀正しいね、曜子さんは」と言われてしまった。私としては当たり前の振る舞いをしただけのことなのだけれど。
「君達の顔を見るのは久しぶりな気がするなあ」
「昨年の忘年会以来です」
「さすが、曜子さんはよく覚えているね」
「当然のことです。忍足さんだって覚えていましたよね?」
「ううん。全然」
「……そうですか」
「やっぱり暇かい? お二人さん」
「暇です。それでも高給がもらえるんですから、いい職業です」
「悠君はさっぱりしてるね」
「ざっくりもしてますよ」
「それもそうか」
後藤さんは高らかに「はっはっは」と笑った。忍足さんのこういうのんきなところは、後藤さんのお気に入りなのだろうなと私は思う。面白がっている節が窺えるから。
「それじゃあ、本題を切り出すとしよう。僕達が根城を構えているこのいざなみ市。その市長さんの殺害予告っていう、非常に危なっかしい声明が出されたことを、君達は知っているかい?」
「はい。知っています」
「悠君は?」
「初耳です」
「それはさすがに嘘だろう?」
「はい。嘘です」
「悠君は本当に楽しい男だなあ」
また「はっはっは」と笑った後藤さん。
私は話を進めるつもりで、「『オープン・ファイア』の声明ですね」と発言した。
『オープン・ファイア』、通称『OF』。ここ数年、悪い意味で世間を賑わせている反政府過激派組織の名だ。警察や公安と同様、『治安会』にとっても彼らのプライオリティは高い。なにかの折には最優先で対応しなければならないということだ。
後藤さんが「そう。『OF』だ」と言い、「具体的な案件の話をしよう」と続けた。
「曜子さんは、市長の経歴については知ってるよね?」
「はい。T大学で法学を専攻。院卒後、すぐに現与党の強い後押しを受けて市長選に出馬、圧倒的な得票差で当選」
「そう。そして女性だ。年齢もまだ二十八歳と来てる。どうだい? 凄い人物だと思うかい?」
「いえ、特には。そういうヒトもいるだろうな、くらいの感想しか抱いていません」
「実のところ僕もそうだ。でも、与党のヴィジョン、もしくは思惑かな? それ自体は明白だね。透けて見えるどころの話じゃない。丸見えだ。市長、県知事、それから満を持して国政へ。果てはニッポン初の女性総理へ担ぎ上げようという算段だ」
「将来的な党の支持に関わってくる人物です。それは多くの国民も認識していることだと思われます」
「その通り。だから、英才教育を施すわけだ。幸い、市長の持って生まれたイメージはいい。クリーンだし、美人だしね。そんな彼女を亡き者にしようというのは、どうしてだろう。『OF』には、どんな意図があるんだろう」
「『OF』は反体制をうたっています。裏を返せば、それしかうたっていませんけれど。市長を殺害することは、彼らにとってシンボリックな意味があると考えます」
「その点もその通りだ」
「市長の殺害予告を受けて、私達『治安会』に役割が発生したんですか?」
「そう言っている。君も知っての通り、現状、ウチの予算は現与党、ひいては総理の意向に基づき得られている。だから当然、彼らからなにかを依頼されたら、相当なことがない限りは、それを引き受けなくちゃならない」
「相当なことというのは、例えばなんですか?」
「平たく言えば、僕の信念、信条にそぐわないことであれば、はねつけるってことだよ」
力強くそう宣言できる上司の存在を、私は頼もしく感じた。
「だけどね、今回は受けてもいい、あるいは受けてあげたいケースなんだよ」
「受けてあげたい、ですか?」
「端的に言おう。市長さんに護衛を一人つけてくれないかと頼まれたんだ。うら若き乙女を守ってやってほしいと依頼されたということだ」
「ですけど、内政の中心地である市の長であるわけです。だったら――」
「そうだね。SPなんて元々ついている。殺害予告を受けて増員もされる。いや、されるべきだ」
「されるべきだという言い方が引っ掛かります」
「市長本人が、嫌がっている。これ以上SPが増えるのを煙たがっているんだよ」
「そんな理由で拒否しているんですか?」
「単純明快だろう? だけど、背に腹はかえられないし、彼女の代わりもいない。与党幹部もそう説得した。そしたら市長さんは一つ条件を出した。女性だったらいいと注文をつけたんだ」
「ひょっとして……」
「そう。市長の警護。それが今回、僕が曜子さんに与えるミッションだ。やり手の集まりである『治安会』から出してほしいという、総理大臣直々のご指名だよ」
「あ、あの」
「なんだい?」
「泉さんでは、いけないんですか?」
泉さん、泉伊織さん。私が理想とする女性像を体現している先輩の名前。
「彼女に任せることも考えた。だけど、曜子さんが成長するにあたっては、これ以上ない案件だろうと思ってね」
「私に務まるでしょうか……」
「務まる務まらないの話じゃない。やってもらわないと困る」
優しい口振りから一転、厳しい口調だ。
確かに、これまでの私は、忍足さんをはじめとする他のメンバーに甘えっぱなしだった。自らが主体的にこなした仕事はないと言っても過言ではないかもしれない。だからといって、いきなりそんな重要な任務を言い渡されても……。
気づけばうなだれ、前髪の先端を指でいじっていた。答えに窮した時にやってしまうクセであることは自覚している。
「黒峰さん」
「は、はいっ」
目を閉じて静かにしていただけの忍足さんから、突然、声を掛けられたものだから驚いた。
「大丈夫。君ならできるよ」
「なにを根拠にそんなこと――」
「できるから、できるんだよ」
なんの根拠にもなっていない。だけど、忍足さんは私に期待している。否、期待しているというより、私のことを信じてくれている。
……だったら。
「後藤さん」
「いい目だ。僕が大好きな、やる気に満ちた若者の目だ」
「まずはなにからすればいいですか?」
「市長自ら面接をすると言っている。それを突破してほしい。日時は僕のほうで調整する」
「わかりました。お願いします」
かくして、私の次の仕事、とても大切な仕事が決まったのだった。




