その日、たまたま……
ホラーと言うには微妙ですが;
姿見の前で、身なりを整える。ゆっくりしている暇は無い。
忙しなく時を刻む左手首の時計に目を遣りながら、顔をしかめる。
六時十五分……普段ならまだゆっくりしていても良い時間だ。
得意先を接待するはずだった奴が、熱なんか出しさえしなければ。
「くそぉ、佐藤の野郎……」
お陰で、こっちにしわ寄せが来た。佐藤の代わりをするよう、連絡が入ったのだ。
ふぅっと息をつき、鞄の中身を確かめる。書類、ハンカチ、財布諸々……そしてそして薬指。
真新しい銀の輝きに、にんまり目を細めると二階の寝室に眠る綾子に
「言ってきます」を告げた。もちろん彼女に聞こえる訳はない。彼女は、まだ夢の中を漂っているのだから。
「ちきしょう、佐藤の奴。俺は睡眠不足なんだぜ?」
独り得意気に呟いたところで携帯電話が歌い始める。
「杉下ですが……あ、はい!今すぐにっ」
フローリングの廊下を滑って、靴を履き、慌てて玄関を飛び出す……。
ああ、タイミングが良すぎたのだ……。
この日、俺は初めて鍵をかけ忘れた。
勢いよくサラリーマン風の男が飛び出して来た。
余りにもタイミングが良過ぎて、一瞬ギョッとしたが……慌てる必要は無かった。そいつはこっちには目もくれずに駅の方へと走って行ったからだ。鍵もかけずに……。
男は電柱の側に自転車を止めると、素早く屋内に忍び込む。シンと静まり帰った家の中……人の気配は感じられない。
全く運の悪い奴だ。偶然にしちてもなぁ。ちょろいもんだ。
酒の飲み過ぎで赤らんだ頬を緩め、男は室内を物色し始めた。
さんざんギャンブルに金を使ったこの男は、先程までは……それでも、ただの一般市民と言ってよい身分だった。
幾ら借金にまみれているからって、泥棒はさすがにしないだろうと、彼自身も思っていた。だが……。
『ふん、まぁよ? 鍵開けたままにしといてくれんなら……考えちまうかもしれないけどよ』
そう毒づいた矢先に、それが起こった。
これは天の思し召しに違いない。
切羽つまった彼は、犯罪者になる決意をした。
「へへへ、冷蔵庫のモンもかっぱらってくかな」
印鑑と通帳と微々たる金を手にした男は、薄ら笑いを浮かべながらリビングに隣接しているキッチンへと向かう。
「おお、中々」
大きな冷蔵庫の内は、食材の宝庫だった。
まっさらな卵の列に、牛乳・ビール・フルーツジュース、丁寧に並べられたタッパにはキムチや漬物が入っている。ラップのはってある魚やらスパゲティーやらも、わんさかある。
あいつ、本当に独り暮らしかぁ?
ビールとグラタンを引っ張り出した男のアルコール漬けの脳を、一抹の不安が掠める。
まさか……。
「あれ、かずちゃん今日は早いのねぇ……」
若い女の声に、男はガタリと振り返った。
食器棚にぶつかった衝撃で、がちゃりがちゃりと皿が落ちては砕け散る。
薄汚れた赤ら顔を青くする男を見た若い女は、みるみる恐怖に顔を歪めていく……。
「きっき……」
若い女は、唇を震わせて今にも叫びださんばかりに目を見開いている。
まずいまずい、なんとかしねぇと……なんとかなんとかなんとか、なんとか……。
ギラリと目の端で包丁が光った。
男は乱暴にそれを掴むと、一心不乱に若い女へと突き立てた。
女のうめき声が消え失せるまで静かに、しっかりと突き刺し続けた。
やがて頬に飛び散った血液が乾いた頃……男は、はっと我に返りべたべたする包丁を投げ出した。
血まみれのTシャツを冷や汗が濡らす。
「う、嘘だろ……」
目の前の光景に涙ぐみながら後ずさる。
首を激しく左右に振り、何度も何度もそれを繰り返している。
その内……壁に行く手を阻まれた男は、ずるずるとへたりこみ笑い出した。
「殺す気は……なかったんだ……」
いつもと変わらない、平和な夕暮れ時……。いつもよりも早く帰宅した俺を迎えたのは、パトカーの不可解に回る赤いライトだった。
几帳面に、数台止まった白と黒のパトカーにざわめく人垣……黄色いテープで区切られた向こうは、我が家の玄関だ。
なんだ? これ……。
ドサッと鞄の落ちる音を聞きながらも、拾う気にはなれなかった。
頭がぼんやりして、どうやって立っていればいいのか……段々わからなくなっていく。
フラフラ足下がおぼつかなくなる俺の元に、紺の制服を着た警官が近寄って来る。
「杉下さんですね? 何度かお電話差し上げたのですが」
事務的なその声を遠くで聞いていると、自分のものとは思えない様なか細い声が俺の喉を震わせた。
「そうですか……今日はちょっと……電源切ってたもの、で」
青ざめた和也はそれ以上口を開かない。
そんな彼を一瞥するだけで警官は続ける。
「強盗殺人だと思うんですがね。犯人の気が触れてまして、落ち着くまでは何も聞き出せない状態です」
強盗、殺人?
口元を歪めて涙を溜める和也に、
「では後程」と神妙な顔付きをして警官は去って行った。
「そんな……そんなっ」
胸の内を何かがのたうち回る様で、息が苦しい。
和也は地面に膝つき、拳を打ち付けた。
顔に血が上り、涙が目尻から溢れて止まらない。
どこかでカラスが呑気に鳴く。その首を締め殺してやりたいと思った。
強盗殺人……。
「俺が……鍵、かけ忘れたから?」
和也は燃える様な夕映えの中で、いつまでも肩を震わせていた。