最終話
近所の児童公園のベンチに腰かけて、瑠依はますます無力感をおぼえていた。
喧嘩して飛び出た先が公園だなんて、我ながらなんて幼いんだろう。11月の公園は、寒くて暗い。さらに、ポケットのティッシュがなくなりそうなのに、涙が止まらないなんて。考えれば考えるほど、瑠依はみじめだった。
そのとき、後ろから足音が聞こえた。ビクッと身構える。
「瑠依」
顔をあげなくてもわかった。このやわらかい声と、この匂い。今一番会いたくなくて、同時に一番会いたい人だった。
杏子さんは隣に座ると、そっと瑠依の背中に手を置いた。その手の温かさが余計に悲しくて、また目から涙が溢れてくる。
ぐずぐずと鼻をすすりながら、瑠依は絞り出すように言った。
「追いかけてきてもらうのを待ってるなんて、私、子供みたい」
「子供だから、いいじゃない」
瑠依は首を横に振った。そんなふうに素直に思えるなら、どれほどラクかと思う。
「ごめんね。今まで嘘ついていたこと」
杏子さんの話す声は、やっぱりバラの香水のようにふんわりとしている。
背中をさすりながら、杏子さんはゆっくり話してくれた。
年の離れた父親と電撃的に恋におち、結婚して、すぐに瑠依が生まれて幸せだったこと。でも祖母とそりが合わず、ふさぎ込むようになってしまったこと。そんなとき、海外からダンサーとして招聘されるチャンスが舞い込んできたこと。祖母に「行くなら離婚して子供を置いていけ」と言われたこと。夢を取って、瑠依との生活を捨てたこと。それからは、杏子として新しい人生を歩んできたこと。
「仕事はすごく楽しかったから、姑が亡くなったって聞いても、最初は戻るつもりなかった。でも辰彦さん、お祖母ちゃんのこと大好きだったでしょ? 憔悴してるって聞いて、気になっちゃって。ちょうどビザが切れる頃だったのもあって、帰ってきたの」
それでも、やっぱり長くは続かなかったんだけどね、と杏子さんは言った。
「辰彦さんのことも瑠依のことも、とっても愛してる。ふたりには本当に感謝してるよ。それでも、一か所にとどまり続けることはできない。都合がいいことをしてるとはわかってる。でも、常に動いていないと苦しい。それが私という人間の性分だから」
正直なところ、瑠依にはその気持ちは理解できなかった。ただ、杏子さんを責める気にもならなかった。
「なんで、杏子って名前なの?」
瑠依は素朴な疑問を口にした。
「だって私に静香って名前、似合わないでしょ?」
そんなことないと言おうと思ったが、確かにそうかもしれなかった。杏子さんに、そんなおしとやかな名前は似合わない。なんだかおかしくなって、ようやく笑った。杏子さんも笑っていた。
でも、杏子さんの笑顔を見ていると、また悲しくなってしまう。
「杏子さん」
瑠依は必死に涙をこらえて言った。
「杏子さんは杏子さんのままでいい。今更おかあさんになって、なんて言わない。だから、ほかの人と結婚してほしくない」
「瑠依」
杏子さんにやさしく抱きしめられる。嬉しかった。それでも同時に、瑠依には今から言われることがわかってしまった。
「離れてても心はここにあるって、言うべきでしょうね。でも言えない。私、好きになってしまったの。未来のことはわからない。また別れるかもしれない。でも今は、彼のところに行かないという選択肢はないの」
また涙がこぼれてしまう。自分がこんなに弱いなんて思っていなかった。
「杏子さん、私とお父さんのこと、嫌いにならないで」
「嫌いになんてなるわけがないでしょう。大丈夫、またすぐに会える」
涙でぐずぐずになりながら、瑠依は確認するように、何度もうなずいた。
翌日、5時間目の授業は英語だった。瑠依はさっきからずっと時計を気にしていた。
昨日は泣き疲れたせいか、遅い夕飯の後、いつの間にか寝てしまっていた。今朝は今朝で、朝の弱い杏子さんにとっては、父親や瑠依が出かける時間に起きるのはずいぶんつらいようで、なんとか挨拶だけはしたが、ちゃんと話せたとは言い難かった。
今日、杏子さんは14時半のフェリーに乗って神戸に向かい、それから関空に行くはずだ。
瑠依は授業など心ここにあらずで、昨晩の会話を思い返していた。
杏子さんはいろいろと言っていたけど、瑠依と父親をおいて去っていくという事実は、やっぱり変わらない。瑠依が、杏子さんが実の母親だと知っていることを伝えてもなお、彼女はその信念を曲げなかった。
家族だから、母親だから、大人だから。そういった「常識」は、杏子さんの前では無力だ。
杏子さんの自分勝手に、瑠依は何度も傷ついてきた。成長してからは、杏子さんに呆れるふりをして本心を隠していたけど、本当はやっぱり、さみしかったのだと思う。今だってさみしい。こんな気持ちのまま、離れてしまうなんて。
杏子さんに会いたい。
また会えると言われたけど、次がいつになるかなんてわからない。それに、今のこの瞬間の気持ちは、今しか味わえないのであって、今大事にできなくては意味がない。
そう思って、瑠依はハッとした。これが、もしかしたら、杏子さんが言っていたことなのだろうか。
他人が見たら自分勝手だろうとなんだろうと、杏子さんの気持ちも言葉も、杏子さんのものだ。そして同じように、瑠依の気持ちも言葉も、瑠依だけのものだ。
自分勝手にやって傷つくなら、それも仕方ない。たぶん、それでいい。
「先生、すみません。家庭の事情で早退します」
教師が許可する前に、瑠依はカバンを持って立ち上がっていた。教室がしんとして、クラスメイトがあんぐりと瑠依を見ていた。教室を出るとき、何か言う声が聞こえたが、振り返る余裕はなかった。
カバンを胸の前に抱いて、階段を駆け下りる。今まで、割と真面目なキャラクターで通っていたのに、自分がこんなことをしているなんて信じられない。ドキドキしているが、どこか開放感もあった。もしかしたら、杏子さんはこういう気持ちを味わいたくて、常に動き続けているのだろうか。
校門を出て、大通りに出た。見よう見まねで、空車の表示が出ているタクシーを止める。ドアが開くやいなや、後部座席に転がり込んだ。
「あの、港までお願いします」
「ルートはどうします?」
運転手が聞いてきたが、そんなのわからない。何しろ、ひとりでタクシーに乗ること自体が初めてなのだ。
「なんでもいいです! 一番はやい道で」
運転手は返事の代わりに、アクセルを踏んだ。瑠依はひとまず息を落ち着かせる。こっそり財布を開くと、五千円札が1枚あった。昨日、今週の食材費として入れておいてよかった。でも、これで足りるだろうか。足りなかったら、土下座でもなんでもして借りるしかない。
瑠依の不安をよそに、タクシーはぐんぐんと速度を上げていく。
4500円かけて、タクシーは港に着いた。
時刻は14時25分だった。平日昼間とはいえ、フェリー乗り場はそれなりににぎわっている。入場券を買い、道行く人たちにぶつかりかけながら、瑠依は波止場へと走った。
フェリーは最終案内中だった。乗客列の最後尾に、杏子さんの姿が見えた。ふわりと広がる長い髪。真っ赤なストール。ショルダーバッグとボストンバッグ。後姿でもすぐにわかる。だって杏子さんは。
おかあさん。
心に浮かんだこの単語ひとつで、どうしてこんなに切なくなるんだろう。
泣かないと決めたのに、やっぱり泣きそうになる。でも、感傷的になるのはあとでいい。今はそれ以上に伝えたいことがあった。
瑠依は、思いきり大声で呼んだ。
「杏子さん」
杏子さんが振り返った。どうしてここに、という顔をしている。いつもは瑠依が驚かされる立場なので、杏子さんを驚かせたことが、なんだか嬉しかった。
瑠依は手のひらをメガホンのようにして、さらに大声で叫んだ。
「大好き!」
杏子さんはアーモンド形の目を見開いた。でも次の瞬間には、唇の端を引き上げ、とびきりのウィンクをくれた。まるでキラキラ輝く星のかけらが散ったように、瑠依には見えた。
最後まで、杏子さんは杏子さんらしかった。そういうところがずるくて、格好良くて、どうしようもなく愛おしい。
去っていくフェリーを見送って、瑠依は涙を拭いた。
ちょっと早いけど、家に帰って夕飯をつくろう。マーシーに餌をやって、お父さんと一緒に食卓を囲んで、学校の話をして、テレビの話をして、リノベーションの話をして、そして杏子さんの話をする。
そうやってきっと、私は少しずつ大人になる。
お読みいただきありがとうございました。
本作は、「結婚」をテーマにした作品集に収録したものです。本来なら男女の結婚を真正面から書きたかったのですが、そのときは筆力が及ばず。ツイストをきかせて、家族の話になんとか着地させたのが、この『杏子さん』です。
瑠依は、10代の頃の成海璃子をイメージしていました。最近の女優さんだと、三吉彩花なんかもいいですね。杏子さんは、知り合いの踊り子の方をベースにしつつ、想像をふくらませて書きました。実際に家族にいたら大変かもしれないけど、少し離れて見てるぶんには華やかで面白いよねこういう人……という感じが出せていると嬉しいです。
初出時は終盤の描写が駆け足になってしまったので、今回加筆修正しました。それでも全体的にあっさりした話ではありますが、日本のどこかにこういう家族がいるかもしれないなあ、と思っていただけたら嬉しいです。
余談ですが、最初に書きたかった男女の結婚の話は、先日ひとつの作品として発表しました。いずれ「なろう」にも掲載したいと思っています。
ご意見やご感想がありましたら、お待ちしております。どうもありがとうございました。