第4話
いよいよ、明日は杏子さんが出発する日となった。
あっという間すぎて、実感がわかない。なんだか落ち着かず、休憩時間もクラスメイトをおしゃべりする気になれなかった。早めに弁当を済ませ、窓際でスマートホンをなんともなしにいじっていると、「瑠依!」と声をかけられた。恵奈が、廊下から手招きしていた。
「恵奈、なんか用?」
教科書を忘れたから貸してほしいとでも言うのかと思いきや、恵奈は小さな白い紙袋を、「これ、杏子さんに渡してくれない?」と差し出した。
「こないだのアイスのお礼っていうか、結婚祝いっていうか」
袋にCHANELとロゴが入っている。
「これ、シャネルじゃん」
「うん、グロス。杏子さんの好みかどうかわかんないんだけど」
驚いた瑠依が返そうとしたが、恵奈は紙袋を押し付けてきた。
「いいから」
「だって、アイスなんて500円くらいじゃん。こんな高いものもらえないよ」
「いいの、気持ちなの。あたしファンになっちゃったっていうか……。あのあと、あたしのこと何か話してた? また会いたいけど、もう行っちゃうんだよね? よろしく伝えてね」
恵奈は言うだけ言うと、頬を上気させて去って行った。
学校から帰ると、家にはマーシーしかいなかった。
念のため杏子さんの部屋をのぞいたが、無人だった。ボストンバッグの口は大きく開いたままで、横断するように洋服や化粧品が散乱している。明日去ってしまうとはとても思えない。
何もかも実感がわかない。それでも、料理だけは普段通りに作り始めた。心ここにあらずでも、料理は勝手に手が動いてくれるからいい。
食事の準備があらかた終わり、ちゃぶ台で一息ついていたところ、マーシーが吠えた。父親かと思ったら、帰ってきたのは杏子さんだった。
「なんだ。今日も予定が入ってるのかと思ったのに」
三人分の食事を用意していたにもかかわらず、平静を装って瑠依は言った。
「最後の夜だから、瑠依のごはんを食べたかったんだもん」
無邪気に答える杏子さんに、瑠依は胸がチクリとする。ざわざわした気持ちを抑えながら、瑠依はつとめて冷静に恵奈からのプレゼントを渡した。
「恵奈、杏子さんのファンになったらしいよ」
ちょっとは皮肉を込めたつもりだったが、杏子さんは驚いた様子もなく、自然にプレゼントを受け取った。
「嬉しいな。恵奈ちゃんにありがとうって伝えてね」
「……うん」
会話がうまく続かない。手持ち無沙汰で、皿や箸を並べ直した。
「おとうさん、遅いね」
「そうね」
そうこうしているうちに、時計の針は19時半過ぎを指していた。
19時15分を過ぎても、父親が帰宅しないなんて、珍しい。何かあったのだろうかと携帯電話で連絡しようと思った矢先、玄関先でマーシーが吠える声とともに、「ただいま」と父親が帰ってきた。
居間に入ってきた父親は、杏子さんの姿を認めると、「ああ、杏子さん、いた」と顔をほころばせた。
「今日は遅かったね。どうしたの?」
瑠依が尋ねると、父親は照れながら、後ろ手で持っていた花束を杏子さんに差し出した。
「ちょっと、花屋さんに寄っていて」
バラ、カラー、トルコキキョウなど、白い花を中心とした、溢れんばかりの大きな花束だった。杏子さんが立ち上がって受け取る。
「わあ、すごく綺麗」
「会社の女の子に、オシャレな花屋さんを教えてもらって。混んでたから、帰るのが遅くなってしまった。ほら、杏子さんがいる最後の夜だから。お祝いと餞別を兼ねて」
杏子さんはすーっと花の香りを吸い込み、感極まった表情を浮かべた。
「嬉しい、ありがとう。踊り子はね、花束かシャンパンをもらうのが一番嬉しい生き物なの」
杏子さんは花束を抱きしめ、幸せそうに笑った。父親も、満足そうに微笑んでいる。
一方で瑠依だけがひとり、白けた気持ちになるのを止められずにいた。
おとうさんは、杏子さんが明日出ていくのを、本当に心から喜んでいるとでもいうのだろうか。おとうさんは、まだ杏子さんのことが好きなくせに。好きな女の人が別の人と結婚して、もう二度と戻ってこないかもしれないというのに。
「それでな杏子さん、リノベーションの話だけど、ビワの木、やっぱり残そうと思うんだ」
父親が突然切り出した話に、瑠依は耳を疑った。
「待って待って。おとうさん、本気?」
思わず立ち上がる。
「杏子さんに言われて考えてたんだけど、確かにあの木がなくなると、マーシーが涼むところがなくなるし……」
「それは、犬小屋を移動させることで解決しましょうっていう話だったじゃん。ビワの木以外にも、木は生えてるし」
言い返したが、父親は申し訳なさそうにしつつも、さらに理屈をこねてきた。
「まあでも、お父さんもお前も、昼間は出かけているから、日当たりは別にいいのかなと。それよりも、昔からある、この家の象徴みたいな木を切るほうがもったいない気がする」
父親が杏子さんを見て、控えめに笑った。
「杏子さんも特に気に入ってるわけだし」
杏子さんは、まるで父親がそう言うのを知っていたように、静かにたたずんでいた。それに比べて、父親の笑顔は生々しく、卑屈にすら見えた。
ついに瑠依の堪忍袋の緒が切れた。
「杏子さん杏子さんって、なんでみんな、杏子さんのことを甘やかすわけ?」
情けなくて、悔しくて、瑠依は猛烈に腹が立っていた。
「この人、これからほかの男と結婚するんだよ? もうおとうさんとは関係ないじゃん。なのになんで媚を売るようなことばっかりするの」
「瑠依、そういう言い方をするんじゃない」
この期に及んで杏子さんをかばうのか。それに見合うほど、杏子さんがこの家に何かを与えてくれているというのか。
「そもそも、杏子さんはずるいよ」
ずっと思っていたことが、ついに瑠依の声に出た。
「たまにしか帰ってこないくせに、自分の家みたいに振る舞って。こっちの迷惑とか考えたことないでしょ?」
矛先を向けられた杏子さんは、意外そうな顔をした。まるで、初めて知ったかのようなイノセントな表情だった。そのことにまた、瑠依の感情が刺激される。
「普段はロクに連絡もよこさないくせに、帰りたいときだけ帰ってきて、そしたらいきなり結婚するとか言って、何考えてんのか全然わかんない」
「瑠依、やめなさい」
「私はおとうさんの代わりに怒ってるの」
父親の言葉を乱暴に制する。すると、それまで黙っていた杏子さんが口を開いた。
「怒ってるのは、瑠依自身でしょう。私に怒るのは別にいいのよ。でも、自分の気持ちの口実に他人を使うのはダメよ」
「ほら。そうやって、都合のいいときだけ母親面するの、やめてよ。普段は何もしてくれないくせに」
杏子さんの言うことが、正論であればあるほど腹が立つ。瑠依の感情は止まらなくなっていた。
「杏子さんはずるい。だって、私、知ってるから、本当のこと」
父親の表情が曇り、おびえが伝わった。大好きな父親から、急に老人の気配を感じた。その瞬間、自分が握っている情報が真実だと瑠依は悟った。
老いた父を攻撃するのは、ひどく残酷な気分がする。それでも、もう我慢できなかった。私だってもう子どもじゃない。大人だけの好きにはさせない。
今こそ、言うときだと思った。両親のために黙っておいた真実を。
「杏子さんが、本当のおかあさんだってこと」
興奮して息が上がっていたが、瑠依は勝ち誇ったような気分だった。
父親は明らかに狼狽していた。何かを言いかけて、言葉を飲み込んで無力に立っていた。そこまでは瑠依の想定の範囲内だった。
ただ、杏子さんだけは、静かにそこに立っていた。
「瑠依ってば、さすが」
口元に微笑みすら浮かべて杏子さんは言った。
「いずれ気付かれる日が来るとは思っていたんだけど、正直、予想より早かったかな。いつ気づいたの?」
質問で返されると思っていなかったので、瑠依は不意を突かれてしまった。
「今年、の春。リノベーションの話が始まったから、荷物を整理しとこうと思って……」
話しながら、瑠依は急速に自信をなくし始めていた。切り札を持っていたのはこちらのはずだったのに、開いた途端、大したカードじゃなかったと言われているようだ。
「押入に入れっぱなしだったお祖母ちゃんの荷物を開けたら、戸籍謄本が出てきて」
何の目的があったのかわからないが、戸籍謄本を取って、使わないままになっていたのだろう。そこでは、2歳のときに亡くなったと聞いていた静香という母親は、「死亡」ではなく「離婚」となっていた。
「気になって、調べて……。最終的には、お祖母ちゃんの親戚の人が教えてくれた。お祖母ちゃんがダンスに反対して、それで離婚したんだってね」
瑠依を生んだあと、ダンスに専念するために、静香、もとい杏子さんは父親と離婚した。瑠依には「死んだ」ということにして。それが、瑠依がつかんだ出生の真実だった。
コソコソと興信所みたいなことをしたことに今更罪悪感をおぼえて、瑠依は目を伏せた。だが、杏子さんは怒らなかった。
「気づいてたのに今まで黙っててくれたんだ。本当に、瑠依はいい子だね」
杏子さんは、どこかさみしそうな顔で笑った。
瑠依の心臓がぎゅっとなる。そんなんじゃない。そんなことを言われたいわけじゃないのに。
「もういい!」
父親と杏子さんを押しのけて、瑠依は居間から飛び出した。ぶつかった勢いで、花束が落ちた音がした。