第3話
その週の土曜日、瑠依が居間で父親と話していると、「おはよう。お腹すいた」と杏子さんが二階から降りてきた。
低血圧の杏子さんは、午前中はめったに起きてこない。この日もすでに12時近くだった。平日、瑠依と父親が学校と会社に出かけたあとも、こんな時間に起きているのだろう。
杏子さんは黒いスリップの上に、細かい刺繍の入ったシルクガウンを羽織っていた。ピーチジョンのカタログみたいだと瑠依は思った。瑠依の部屋着兼パジャマは、GUのスウェットの上下だ。それに比べて杏子さんは、部屋着ですら生活感がない。
「午後からお客さんが来るから、着替えといて」
瑠依が言うと、杏子さんは首をかしげた。
「お客さん?」
瑠依はちゃぶ台の上に置かれた図面を指差す。
「お父さん、来年定年でしょ。嘱託でまだ働くけど、とりあえずいい機会だから、このタイミングで家をリノベーションしようと思ってるんだ。それで、建築事務所の人が打ち合わせに来るの」
具体的には、居間と和室の仕切りを取り払って、段差をならし、大きなリビングにする。今使っているちゃぶ台は捨て、ダイニングテーブルと椅子を置く。トイレと風呂場には手すりを付け、廊下の段差をなくし、バリアフリー化する予定だ。工期は1か月半、費用は数百万円かかる大掛かりなものになる。
「お前が大学を卒業するまでは、無駄なお金を使うわけにはいかない」と渋る父親を説得して、リノベーションを勧めたのは瑠依だった。父親は欲がないので、自分のことはすぐほったらかしになってしまう。定年退職を機会に、家くらいは父親の好きなようにしてもらいたいと瑠依は思っていた。
「そうなんだ。確かにこの家、年季入ってるもんね」
杏子さんが、傷だらけの柱をそっとなでる。
「うん。あと、庭のビワの木も切ろうって話してて」
杏子さんの指先の動きが止まった。
「切っちゃうの? あの木、雰囲気があってすごく素敵なのに」
杏子さんが珍しく悲しそうな顔をした。
「大きすぎて、枝で影ができちゃってるでしょ? リビングに光が入りにくいし、カラスが来るのも嫌だから、切ったほうがいいんじゃないかって、建築事務所の人に言われて……」
瑠依は焦って事情を説明した。間違ったことをしているわけではないのに、言い訳しているような気になる。
それでも杏子さんは納得がいかないようで、「そっかあ。まあ、辰彦さんがそうしたいなら、いいけど……」と、父親を見た。父親はあいまいな顔をして黙っている。
気まずい空気をそらすために、瑠依はよけて置いてあった封筒を取り上げた。
「杏子さん、これ、今朝届いたよ。杏子さん宛ての手紙でしょ?」
国際便として、郵便局の人が配達してくれた。差出人の名前が書かれていたが、英語以外の言語だったので、何の手紙か瑠依には解読できなかった。
差出人の名前を見るなり、杏子さんは「ラーマン!」と声をあげた。ハサミも使わず、指で封を破る。中に入っていた手紙とチケットのようなものを読むと、杏子さんは胸にぎゅっと抱きしめた。
「もう、なんてスウィートなの」
杏子さんは頬をバラ色に上気させて、うっとりと手紙を見つめている。
「いったい、何の手紙?」
さっきまで眠そうな顔をしていたというのに、急なテンションの上がりっぷりについていけない。杏子さんは嬉しそうに、瑠依たちにチケットを見せた。
「例の、ブルネイの婚約者よ。向こうの結婚準備が整って、ブルネイ行きの航空券を贈ってくれたの」
航空会社のロゴの下に、FIRST CLASSという文字が印字されていた。それがとても高価なものだということは、地方に住む高校生である瑠依にもわかる。王族と結婚するというのは、本当の話だったのか。
「ちょっと、彼に電話してくるわ」
唖然としている瑠依たちを残して、杏子さんは足取り軽く、二階へと上がってしまった。
「……おとうさんは本当にいいと思ってるの?」
「何が?」
父親はあいまいな笑みを浮かべたままの顔をしていた。
「何がって、いろいろ。そもそも、婚約者からの手紙がうちにくるって、普通ありえなくない?」
「杏子さんが、日本の滞在先をうちだって伝えてるんなら、それでいいじゃないか。今までも、仕事の書類が海外から届いたことはあったし」
「仕事とは違うでしょ、これは」
そうだけど、と父親は口ごもってしまった。
薄い天井を通じて、二階から、何やら外国語で楽しそうにしゃべる声が聞こえてくる。
「言ってもダメだから、しず」
父親はハッとして訂正した。
「言ってもダメだから、杏子さんは」
おとうさん、と呼びかけようとしたとき、杏子さんが二階から降りてきた。足取りが軽いだけなのに、杏子さんの場合、空気をまとって踊っているように見える。
父親が気まずい雰囲気を打ち消すように、明るく尋ねた。
「それで、ブルネイにはいつ行くんだ?」
杏子さんが言った。
「来週の火曜日!」
瑠依と父親は顔を見合わせた。