第2話
「はぁ……意味わからん」
「どしたの瑠依選手」
駅の改札を通りながら思わず瑠依の口から漏れた言葉を、恵奈は聞き逃さなかった。
恵奈は高校の同級生で、住んでいる街が一緒だ。高校1年のときに仲良くなり、クラスが離れた今も、こうして時々一緒に帰ったりする。
父子家庭だということは話していたが、それ以上のことは伝えていなかった。
「いや、ずっと言ってなかったんだけど、おとうさんの再婚相手の杏子さんって人がいてさ。3日前から家にいるんだけど、来週ブルネイに行って、向こうの王族と結婚するとか言ってて……」
「ちょっと何その面白い話。くわしく」
普通のクラスメイトには話しづらい話題だが、あっさりした性格の恵奈ならば、引かずに聞いてくれるかもしれない。ふたりで駅前の植え込みに腰を下ろし、瑠依は事情を説明した。
「よくわかんないけど、凄いねその人」
話が突飛すぎたのか、恵奈は半笑いを浮かべたが、瑠依だって信じられない。
「でも、昔はおかあさん役をやってたわけでしょ?」
「一応ね。それまでお祖母ちゃんに厳しく育てられてたから、杏子さんのゆるいノリが新鮮だったけど、今考えたらだいぶテキトーな育児だったよ。料理も裁縫も苦手だったし」
そのぶん、たまに焼いてくれる外国風のお菓子や、思いついたように買ってくる大胆な色使いの子供服に胸をときめかせ、杏子さんを「キレイで格好いいおかあさん」と思っていたものだった。我ながら、ずいぶん幼かったのだと思う。
「その人、今日は何してるの?」
「さあ。仕事関係の人と会ったりしてるみたいだけど、ほとんど遊びみたいなもんじゃないかなー。昨日も酔っぱらってタクシーで帰ってきたし」
「おとうさん、なんも言わないんだ?」
「なんも。むしろ嬉しそう。おとうさんも杏子さんも、何考えてるんだか……」
そのとき改札から出てくる人波の中に、その人を見つけてしまった。
「げっ、杏子さん」
隠れようと思ったが、しっかり目が合ってしまった。大勢の中にいても、その肌の白さは際立っている。杏子さんは大きく手を振り、ヒールブーツで颯爽と駆けてきた。
「こんにちは。お友達?」
「あ、はい。磐田恵奈です」
「恵奈ちゃん、はじめまして。杏子です」
杏子さんはレザージャケットの中に、丈の短いレースのトップスを着ていて、素肌がチラリとのぞいている。ベリーダンスで鍛えられた細いくびれの中央には、形のいいへそがあり、細いゴールドのピアスがはまっていた。見てはいけないものを見てしまったようで、瑠依が視線を横にずらすと、恵奈の視線もチラチラとくびれに向いていることに気づき、ますます落ち着かない気持ちになる。
「あなたたち短いスカートはいてるから、外にいたら冷えるよ。どっかお店に入らない? 私、ごちそうする」
自分のほうがよほど冷えそうな格好をしているくせに、杏子さんはそう言うと、駅前をぐるりと見回して青とピンクの看板に目を付けた。
「あ、いつの間にかサーティーワンができてる! アイスクリーム食べようよ」
「アイス食べたら、余計冷えるじゃん」
「あったかいお店で食べるアイスなら話は別。私、ラブポーション食べたいな」
言っていることとやっていることが全然違う。呆れていたら、隣にいたはずの恵奈も、「いいですね!」とついて行ってしまった。
瑠依が慌ててふたりを追うと、ショーケースの前できゃっきゃと楽しそうにフレーバーを選んでいた。
「あーん、限定フレーバーも美味しそう。3個入りにしたら食べ過ぎかな?」
「杏子さん、めちゃくちゃスタイルいいから大丈夫ですよ」
「ありがとう」
ふたりの会話をぼうっと見ていると、ふと杏子さんが振り返った。
「瑠依はどうする?」
カールされた長い髪がふわりと揺れて、甘い果実のような、いい匂いがした。瑠依は一歩後ずさりした。
「私はいいよ」
「どうして? 一緒に食べたい」
杏子さんが瑠依の手を取り、有無を言わさずショーケース杏子さんの指先は、やわらかくて、少し湿っていた。
「……じゃあ、大納言あずき」
「素敵。私も大好き」
杏子さんの財布は、パンパンに膨れていた。お会計で財布からお札を抜き取ったが、瑠依の知らない偉人が青い線で描かれた、見たこともない紙幣だった。
「間違えた、こっちじゃない」
くしゃっとつぶすように紙幣を財布に押し込んで、杏子さんは改めて、千円札を2枚抜き出した。
アイスを食べながら、恵奈は矢継ぎ早に、今まで行った国の中でどこ一番良かったか、どんな有名人と会ったのか、などを質問した。
国王の前で踊った、乗っていた船がインドネシア沖で海賊に襲われかけた、といった杏子さんの話に、恵奈は「うそー」「ホントですか!?」と前のめりで反応している。
「この人の言うこと、全部信じないほうがいいよ。どこまでほんとかわからないから」
食べ終わった口元をナフキンで拭いて、瑠依は恵奈に助言した。
「えっ、そうなの?」
「私もいろいろ聞かされて信じ込んでたけど、あとで結構盛ってることが判明したもん。大げさに話すの、この人の得意技なんだよ」
昔から、杏子さんの話は荒唐無稽だった。本人がわざと嘘をついているようには見えないが、実体験も想像も、彼女の脳内では一緒になっているのではないかと思う。だからブルネイの王族との結婚話も、正直なところ、まだ100パーセント信じてはいなかった。
「でも、めっちゃ面白いです!」
恵奈は、瑠依ではなく杏子さんに向かって答えた。
杏子さんはふたりのやり取りを見ながら、静かに微笑んでいた。
恵奈と別れて、杏子さんと一緒に帰り道を歩く。
杏子さんが「恵奈ちゃん、楽しい子ね」と感想を述べていたが、瑠依はなんとなく上の空だった。
交通量の多い交差点に差し掛かる。青信号になったので渡ろうとすると、ふと「横断歩道じゃなくて、あっちの陸橋を渡りましょうか」と、杏子さんが瑠依の袖を引いた。
杏子さんの目線の先には、後ろから小走りに駆けてきた、小学生の男の子と女の子がいた。瑠依が通っていた小学校の制服を着ている。
ここは瑠依が通っていた小学校の通学路だった。生徒は、面倒でも信号ではなく陸橋を渡りなさいと指導されていたことを思い出す。
陸橋を上っていると、子供たちが追い越して行った。杏子さんが「こんにちは」と声をかけると、振り返って元気に「こんにちは!」と返してくれた。
微笑ましく子供たちを見送りながら、杏子さんは懐かしそうに言った。
「瑠依のこと思い出した。高学年にもなると、面倒くさいからルールを守らない子のほうが多かったのに、瑠依はちゃんと毎回守っていたよね」
「そうだったっけ?」
わざと瑠依はとぼけた。
「憶えてるよ。たまたま通学時間に通りかかったときに、ほかの子が信号を渡ってるのに、瑠依だけ陸橋を使っていたの。忘れられない」
「お祖母ちゃんに厳しくしつけられてたからね」
大正生まれの祖母は、昔気質で、とてもシャンした人だった。瑠依が生まれてからずっと同居していて、母親が亡くなったあとは、母親代わりとなって世話をしてくれた。礼儀作法に人一倍厳しく、恐ろしいと思うこともあったが、祖母に家事を仕込まれたおかげで、今ひととおりのことができている。
杏子さんはどこか遠くを見るように微笑んだ。
「昔からしっかりした子だった。初めて挨拶したとき、『おかあさん、これからよろしくお願いします』ってお辞儀したのよ。なんて素直でいい子なんだろうってビックリしたもの」
杏子さんが初めて家に来た日のことは、瑠依もよく憶えている。祖母が亡くなって憔悴していた父親が、あるときから急に元気を取り戻して、「紹介したい人がいる」と連れてきたのが杏子さんだった。古い一軒家に現れた杏子さんは、大きな花柄の、胸元が開いている、くるぶし丈のワンピースを着ていた。小柄で髪が長くて、色が白かった。差し出された指先には、水色のネイルが塗られていた。
こんな妖精みたいな女の人が、おかあさんになってくれるなんて。当時の瑠依にとっては夢のようだった。
「今はこんなだけどね」
「相変わらずいい子だわよ」
「今、『素直』っていう部分、外したでしょ?」
瑠依が突っ込むと、杏子さんは悪びれもせず、「ばれた?」といたずらそうに笑った。思わず、瑠依も一緒に笑った。
素直じゃないと言われて、素直に笑えるなんて、不思議だ。
「私とは正反対ね」
ひとしきり笑ったあと、杏子さんが独り言のようにつぶやいた。
杏子さんは陸橋の上から、海のほうを眺めていた。髪と肌が夕陽に透けて、表情がよく見えない。すぐ隣にいるのに、なぜだか違う世界にいるようだと瑠依は思った。