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杏子さん  作者: 佐井 識
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第1話

 家にたどり着く四つ角を曲がったら、ふわり、と異国の匂いがした気がした。

 17歳の瑠依に、海外渡航経験はない。だから異国というのは想像上の外国でしかないが、それはヨーロッパやアメリカではなくて、雑居ビルの2階にある、お香や布が雑然と売られているアジア雑貨屋や、父親がときどき土曜日のランチに連れて行ってくれるインド料理屋(でもここの店員はみんなネパール人だよ、インド人はカースト制度の関係で、日本にコックとして出稼ぎに来る人はあんまりいないから、と父親が教えてくれた)で漂っているような匂いが、瑠依にとっての「異国の匂い」だ。

 それを、四国の地方都市の、何の変哲もない住宅地で感じた。瑠依がひとつの予感を胸に抱きながら一軒家の門扉をくぐると、庭のビワの木のそばに、柴犬のマーシーがちょこんと座っていた。

「マーシー、ただいま」

 いつもなら瑠依に駆け寄って、スーパーの袋に顔を突っ込もうとしてくるのに、今日のマーシーは物言いたげな顔でこちらを見ている。この家に、何かいつもと違うことが起きている。

 玄関ドアを開けると、たたきに転がった、真っ赤なハイヒールが視界に飛び込んできた。この色と、このヒールの高さ。そして折角の綺麗な靴を、きちんと揃えられない大人……そんな女は、瑠依の周囲にひとりしかいない。予感は確信に変わる。杏子さんが帰ってきたのだ。


「おかえり、瑠依」

 ハイヒールに気を取られていて、廊下から出てきた人影に一瞬気付かなかった。瑠依がハッとして目線をあげると、そこに杏子さんがいた。杏子さんは軽く腕を組みながら微笑を浮かべていた。いつも、毎回そうするように。

「それ、こっちのセリフ」

 瑠依はスーパーの袋を握りしめながら言った。

「日本に帰ってきたの、いつ以来?」

「さあ。2年ぶりくらいじゃない?」

 正確には2年と2か月ぶりだ。瑠依は頭の中で計算した。

 ローファーを脱ぎ、家の中に入る。ずかずかと歩く瑠依のうしろを、杏子さんが楽しそうについてくる。杏子さんは黒のタートルニットに黒のスキニーデニムをはいていて、猫のようにすらりとした肢体が際立っている。耳たぶには、大きな石のピアスがぶら下がっていた。

「今日の夕飯はなあに?」

「ピーマンと豚肉で、ホイコーロー」

 キッチンの調理台に、スーパーで買ってきた材料を取り出しながら答える。

「ほうれん草と人参の白和え。じゃこ入り卵焼きと、大根と大葉の味噌汁」

「大葉入りの味噌汁!」

 杏子さんが目を輝かせた。

「嬉しい~。わかめとかねぎの味噌汁は向こうでも食べられるんだけど、やっぱりインスタントだから、手作りのとは違うのよ。しかも大葉が入ってるのは、ここの家ならではよね」

「まあね」と淡々と言いながら、瑠依は冷蔵庫とダイニングテーブルを行き来する。キッチンの時計は18時15分を指している。父親が帰ってくるまであと1時間だ。まず冷凍庫に小分けしてあるほうれん草を解凍して、絹豆腐の水切りをする。そのあと豚肉に酒と片栗粉で下味をつけて、味噌汁に取り掛かろう。

 冷蔵庫を開ける。あ、と瑠依は顔をしかめた。杏子さんが帰ってくるなんて思わなかったから、卵が2個しか残っていない。3人分の卵焼きには足りない。冷蔵庫の中身をざっと見る。仕方ない、追加で干物でも焼こうか――。続けて冷凍庫を開けようとしたら、杏子さんの手が視界に入った。身を固くする暇もなく、杏子さんの白い手は、瑠依のプリーツスカートの裾をつまみ上げた。

「まず、着替えてきたら? 可愛いセーラー服が汚れないように」

 杏子さんがにっこりと笑った。

「わかってるよ」

 瑠依は顔をそむけて、杏子さんの言うとおり二階へと向かう。

 自分はまったく料理を手伝う気がないのに、こういうときだけ大人ぶる杏子さんはずるい。でも知っている。昔からずっとこういう女なのだ、杏子さんは。


 杏子さんは、瑠依が9歳の時に家にやって来て、父親と結婚し、2年間暮らしてまた出て行った女の人だ。その後、1~2年おきにやって来ては、しばらく家にいて、出ていくのを繰り返している。端的に言えば、瑠依の「元・義理のおかあさん」だ。

 瑠依の本当の母親は、瑠依が2歳のときに病気で亡くなったらしい。そのあと、すでに40歳を超えていた年配の父親と、さらに年を取っている父方の祖母に育てられてきた。その祖母も亡くなって、入れ替わるようにやって来たのが杏子さんだった。

 杏子さんはベリーダンスの踊り手をやっている。その筋ではなかなか有名な人らしいが、ほとんど国外で活動しているので、瑠依は詳しいことをよく知らない。というか、詳しく知らないようにしている。

 夕飯の支度があらかた終わったところに、父親が帰ってきた。18時に退社し、1時間15分かけて家に戻ってくる。父親がその習慣を乱すことは有り得なかった。

「おお、杏子さん、おかえり」

 2年半ぶりにちゃぶ台のそばでくつろいでいる杏子さんを見た父親は、特に驚きもせずに挨拶した。

「元気だったかい」

「もちろん。辰彦さんは?」

「私は何も変わらないよ」

 杏子さんは40歳を過ぎているはずだが、小柄で童顔で、30代前半と言っても通用しそうな見た目をしている。対して父親は60歳目前。後頭部はなかなかマズいことになっているし、細い一重の目と、目の横の皺がつながりそうになっている。娘の瑠依から見ても、このふたりがかつて夫婦だったというのは不思議だ。

 杏子さんと父親はとっくに離婚しているが、杏子さんが日本に戻ってきたときは、この石神家に滞在するのが常になっている。父親は、杏子さんを受け入れ、むしろ歓迎しているように見える。そして杏子さんがふらりとまた出て行っても、それが当然のことかのように、淡々と日常に戻るのだった。


 3人でちゃぶ台を囲み、夕飯が始まる。杏子さんは、いちいち「おいしい」と繰り返しながら、食事を口に運んでいた。

「杏子さん、最近の調子はどう?」

 杏子さんのグラスが空になったのを見て、すかさず父親がビールを注いだ。杏子さんはごくごくとおいしそうに飲み、ぷはーと息を吐いた。

「とっても楽しい」

 杏子さんは、いつも「楽しい」と言う。それ以外の感想は聞いたことがない。

「瑠依は? 学校どう?」

 覗き込むようにして、杏子さんが尋ねた。少し頬が赤い。

「別に普通」

「あら、冷たい」

 特に気分を害した様子もなく、杏子さんはくすくすと笑う。

「昔は学校から帰ってくるとすぐ、『おかあさん、聞いて聞いて』って言ってたのに」

「それは小学生の頃の話でしょ。もうそんな年じゃないし」

 瑠依は味噌汁をぐいっと飲んだ。

「あ、そうそう、お土産」

 杏子さんはそう言って、ボストンバッグからごそごそとビニール袋を取り出した。海苔のようだった。表には、ハングル文字が大きく書かれている。大きさの割に、手に持つと軽い。

「なんで、韓国海苔?」

「帰りに釜山の友達のところ寄ったから。瑠依、海苔好きでしょ?」

 続いて杏子さんが取り出したのは、白い服で、髭をたくわえた男性が踊っている絵が描かれているお皿だった。

「……これ、世界史の授業で見たことある。イスラムの宗教の人たちでしょ」

「さすが瑠依。これはね、スーフィーっていう神秘主義の人たちなの。イスタンブールの土産物屋で見つけたんだ。可愛いでしょ?」

 正直なところ、女子高生のセンスからすると、素直に可愛いとは言い難かった。杏子さんは瑠依が黙っているのを気にする様子もなく、箸をおいて立ちあがると、食事中にもかかわらず、部屋の中心でくるくると踊り始めた。

「一時間以上回り続けることで、神に近づくのよ」

 スーフィーのダンスを真似しているらしい。呆れる瑠依を横目に、杏子さんは楽しそうに回転する。

「瑠依も踊る?」

「何言ってんの、いいよ」

 ふざけた雰囲気だが、さすがダンサーだけあって、軸がまっすぐで綺麗だった。今の杏子さんからは想像できないが、子供の頃にクラシックバレエを習っていたと聞いたことがある。

 それでもビールで少し酔っぱらっているのか、6回転目くらいでよろけてしまった。

「杏子さん、危ないから」

 助けようと思った瑠依より先に、杏子さんに手を伸ばしたのは父親だった。

「はーい」

 杏子さんが父親の手を取り、小首をかしげて微笑む。父親と杏子さん、ふたりの間に親密な空気が流れた気がした。元夫婦だから当然といえば当然なのだが、瑠依はなんともいえない気持ちになる。

「お土産、これで終わり?」

 空気を断ち切るように瑠依が言うと、杏子さんは背筋を伸ばし、パンッと手のひらをあわせた。

「そうそう、ちょっといいものがあるの、瑠依に」

 杏子さんは、今度は小さなショルダーバッグをあさり始めた。ボストンバッグとショルダーバッグ、これだけが杏子さんの荷物らしい。世界中を飛び回っているらしいのに、彼女が大きなスーツケースを持っているのを、瑠依はいまだに見たことがない。

「あげる」

 ごろり、と低い音がした。ちゃぶ台の上に転がされたものを見て、瑠依は思わず目を見開く。

 ダイヤモンドみたいにキラキラした指輪、ではなかった。正真正銘、大ぶりのダイヤモンドの指輪だった。

「何これ」

「こないだ、初めてブルネイに招かれてね」

 怪訝な顔をする瑠依をおいて、杏子さんはマイペースに語り始めた。

「セレブが集まるパーティーで踊ったの。そこで王族の男性と出会って、仲良くなって。日本に娘がいるって話したら、ぜひ彼女へのお土産にしてくれって言って、もらったのよ」

 よかったね瑠依、と杏子さんは言った。

「今はまだつける機会がないかもしれないけど、ちゃんと保管して、大人になったらつけなさいね」

「いや、ちょっと待って」

 瑠依は高速で首を横に振った。

「こんな高価なものもらえないよ。いくらその人がセレブで、ちょっと仲良くなったって言っても、普通はくれないでしょ?」

 女子高生の瑠依から見ても、相当高価なものだということがわかる。少なくとも、食べかけのホイコーローの隣に並べるのはふさわしくない。

「私もそう言ったんだけど、彼が『これから私の娘も同然になるわけだから』って。あっちの王族って信じられないくらいお金持ちだから、まあもらっときなさい」

「今なんて言った?」

 杏子さんはきょとんとした。

「あっちの王族は……」

「そこじゃなくて!」

 瑠依は思わず大きな声を出した。杏子さんは思い出したように言った。

「ごめん、言い忘れてた。私その人と結婚するの」


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