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『片鱗』




『凄いじゃないか、■■!』


 急に後ろから声を掛けられる。誰か、いや、『僕』を呼んでいるのだろうか。名前を呼んでいるらしい部分は、どうも雑音混じりでよく聞き取れないのだが。


 振り返ってみれば、亜麻色の見慣れない服を着た男が、ニコニコしながらこちらに走ってくる。…いや、見慣れないと言ったのは嘘だ。見覚えがある。見覚えはあるのに、それが何なのかは明確には分からない。

 男がニヤニヤ笑うと、顔に小皺が浮かび上がる。


『ああ、荻谷さん。どうかしたんですか?』


 僕の口から、今の僕のものとも、前に見た夢の時の『僕』とも違う声が出てきた。だが、何故かそれが僕自身の声なのだと、理解できてしまう。どうやら以前見た時の夢から何年も経ち、『僕』は大人になっているようだ。


『おいおい、なんだいそんな他人事みたいに。紛れもなくお前さんの事だってのに』

『それが分からないんですって』


 「オギヤさん」と呼ばれた男が、朗らかに話しかけてくる。だが、『僕』には何の事か、よく分かっていないようだ。困惑する『僕』の心境が、僕自身にも伝わってくる。


『お前さんが書いたあの記事。写真も含めてな、なかなか好評だったんだぞ!』

『…ああ、あれね』


 何か思い当たる事があったのか、『僕』がそう返事すると、脳裏に別の光景が思い浮かんでくる。




******




 それは、あまり見ていて気分のいいものではなかった。


 そこは、混沌の真っ只中。

 白い縦長の直方体の塔が乱立し、黒く固い地面が伸びる道のど真ん中で、人々が互いに暴力を振るい合い、血を流す。その内の一人の男が雄叫びを上げ、黒い車輪が付いた、金属質の奇妙な馬車擬きを叩きまくると、嫌な音と共にひしゃげていく。鉄のような臭いと煙の臭いが混じり、そこにいるわけでもないのに吐き気を催しそうになる。

 これが、ただの人間に起こせるものなのだろうか。そう感じざるを得ない。


 そんな中において、『僕』はただひたすら、手ごろな大きさの黒い物体を構えて、『撮っている』。それが一体何なのか分からないし、『撮る』という事も何を意味するのかわからないが、知識としてではなく、感覚でそれが理解できる。これは多分、絵を描いたり、文章に起こすよりも早く、目に映る光景を写し取るもの。そんな確信が僕にはあった。

 

『お母さん!お母さん!』


 突然、女の子の声が聞こえてくる。その涙混じりの声が聞こえてきた方を見てみれば、黒い地面に倒れ伏す女の人と、そんな女の人を泣きながら揺する幼い女の子がいた。

 何故、こんな所に。そんな疑問が頭をもたげたが、考える暇はなさそうだった。その近くに、目を血走らせた、見るからに危なそうな男がいたのだから。


『イヒヒ…ヒヒーッ!』


 頭に血が上っているせいなのか、男は奇声を上げながら、手に持った棍棒のような物で、親子らしきその二人に襲い掛かる。

 危ない。そう思った瞬間、『僕』は勢いよく走りだし、男の腹を蹴り上げる。男がもんどりうって倒れそうになるが、今だに闘志があるのか、再び棍棒を手にし、今度は此方に向かって襲い掛かってくる。だが、『僕』はその棍棒の一撃を避けると、その首元に向かって手刀を振り下ろす。すると、男は糸の切れた人形のように、地面に倒れた。当身、というやつだろうか。

 暴れていた男がまだ息があるのを確認し、『僕』は親子の元へ向かう。


『君、大丈夫か?』


 僕がそう訊けば、女の子は泣きながら、地に伏せた女性を見下ろす。そして、『僕』が倒れた女性の首元を指で触れる。どうやら頭を打っているらしく、黒い地面に真っ赤な血がドクドクと流れてはいるが、奇跡的に命に別状はないようだ。だが、早く医者のところに連れて行かなければ。

 『僕』は女性を担ぎ上げ、女の子に「歩けるかい?」と、その手をしっかりと握る。だが、女の子は動こうとしない。いや、動けないのだろう。恐怖で。

 仕方がないから、もう片方の腕で女の子を持ち上げ、胸元でしっかりと抱える。


 そして、振り返り、燃える街並みを見て思う。


「こんな事に、何の意味があるんだ」と。





******




『■■さん、大変!荻谷さんが!』


 唐突に場面が移り変わったかと思うと、『僕』に向かって話しかけてくる女の人が目に映る。


『牧野さん?荻谷さんが…荻谷さんがどうしたっていうんです?』


 そして再び場面が移る。雷鳴が轟き、豪雨が降りしきる。

 そこは、暗くジメジメとした場所だった。悪臭を放つゴミが透明な袋に入れられて山のように積み上げられている中、その内の一部が、不自然に崩れている。そこにもたれかかっていたのは、見覚えのある男の顔。最初に見た男、オギヤさんと呼ばれていた男だ。

 だが、今のオギヤさんの姿には、朗らかに笑っていた男の見る影もない。顔中が痣だらけなだけでなく、亜麻色の衣服はどこもかしこも破れ、破れた箇所のことごとくが赤黒く染まっており、見るも無残な姿となっている。


『荻谷さん?荻谷さん!』


 慌てて駆け寄る『僕』。きっとその顔は、真っ青になっていた事だろう。

 そしてオギヤさんの口元に手をかざしてみると、微かにだが生温かい吐息が感じられる。辛うじてだが、生きているのだ。


『荻谷さん、しっかり!今救急車を…』

『いや、いい、いいんだ…俺はもう、駄目だ…』

『何言ってるんですか、荻谷さん!』


 焦りの募る『僕』の声を聞かずとも、『僕』の気持ちが強く伝わってくる。まるで我が事のように。

 だが、今回ばかりはオギヤさんの方が正しいだろう。その目からはほとんど光が消え、握った手の平から温度が失われつつあるのは、単に今雨が降って体温が下がっているというだけではないのだろう。

 はっきり言える事は、オギヤさんの命は、風前の灯火であるという事。身体中から流れる血を見れば、誰にだって分かる事だ。寧ろ、今意識を保っているのが不思議なぐらいだ。それ程までに生への執着心が強いか。それとも…。


『いいから、聞け!■■!ゴホッゴホッ…』


 そこからオギヤさんの口から聞かされたのは、『僕』が本当は、暴力沙汰を『撮る』事が嫌いなのを分かっていた事。だから、とある筋から手に入れた、怪しげな『組織』の話の証拠を手に入れても、『僕』を巻き込まなかった事。


―そして、『組織』を探っていたところ、あまりにも首を突っ込み過ぎた事で、『組織』に狙われたという事。


『ククッ…なんとまぁ、情けねぇ話、だな…世界の裏の真実突き止める、つってさ…結局俺は、危ない事が大好きな、イカレ、野郎だったんだ…』

『そんな…違いますよ!貴方は…』

『…取り繕う必要は、ない。自分でも分かって、たん、だ…ゲホォ!』


 途端に、オギヤさんは口から大量の血を吐き出した。


 もういい。もう喋らないでくれ。それは『僕』の切実な願いであり、僕自身もそう願っている。


…だがそれでもオギヤさんは、意識を失う事無く、喋り続ける。まるで、『僕』に何かを伝えたいかのように。あるいは、この世に何かを残したいかのように。


『…いいか、■■。『組織《奴ら》』は、ありとあらゆる場所に、潜んでいる…そして、虎視眈々と、この国を、いや、世界を、征服せんと、狙って、いる…』


 世界征服。そんな馬鹿な。そう言い出したくなるのを、『僕』は必死に我慢する。一秒でも長く、彼を生かさねばならないと。何故かそうしなければいけない気がするから。


『俺がこの事を教えるのは、な。■■。俺は、お前という人間の、正義感を、信じている、からだ』


 突然何を、と思う中で、僕の中で二つの想いがせめぎ合いだす。


『…お前はきっと、否定すると思う。だが…俺の意見は、前に話した時と、何ら、変わりやしない』




******




 それは、かつてオギヤさんと疎遠になった切っ掛け。


 とある酒場―看板には『Bar』と書かれている―で一晩語り合った時の事。

 切っ掛けは些細な事だった。「お前、何か悩んでないか」という、ありきたりな質問。

…ただ、それを訊かれた時期がまずかった。人間同士が無意味に争いあうのを目の当たりにし、そしてとある親子を助けた、その僅か二日、三日後。『僕』の脳裏に、まだあの時の光景が焼き付いて離れないでいた時。

 結果、酒をあおっていたせいでもあるのだろうが、『僕』は激昂した。すると、オギヤさんは静かに、僕に向かって語りだした。

 その時、『僕』は彼に、何もかも見透かされたような気がした。


『お前さんの目を見れば分かるさ。戦いが嫌いとは言っているが…それ以上に憎んでいるものがある。そうだろ?』

『…そんな、事は』

『なら何で、俺の頼みを引き受けたんだ?おっと、俺が恩人だから、だなんて言わせねぇぞ。お前は、嫌な事は嫌だって、はっきり言う男だからな』


 その時、『僕』はただ、押し黙るだけだった。何一つとして、言い返せないでいた。だって―実際、その通りだったのだから。


『本当に平和主義だって言うんなら…何故お前は武道なんて嗜んでいる?ただ体を強くしたいから?違うね。俺はお前程、健康優良児と呼ぶに相応しい男を知らん』


 『ブドウ』。それにも聞き覚えがある。それは、自分の身を護る為のもの。そして『僕』が嗜んでいたのは、『アイキドウ』という名前のブドウだ。どんなものだったかは、記憶が靄がかっていてよく思い出せないが。


『合気道を学ぶ事、かれこれ十数年。しかしある事件…俺とお前が出会う、二年ぐらい前だったかな。それが切っ掛けで、お前は三段への昇段試験を間近にして、自ら道場を去った』


 不意に彼の口から語られたのは、『僕』の過去。


『だがお前は…それに後悔していない。違うか?』


 そして紡がれるのは、『僕』の心。


『あの時お前は、汚職をやっているともっぱら噂の政治家が、女性に暴行しようとしていたのを偶然目撃し、そいつを叩きのめした。ま、そんな事やっちまえば、お前が逮捕されるのも無理ないが…』


…そうだ、思い出した。その後、暴行されそうになった女性の証言から、そのセイジカの裏の顔が暴露され、そいつはそのまま御用となったのだ。


『元々信用なんて地に堕ちていたようなもんだったからな。金でどうこうする前に、何者かがその金を全て奪ってトンズラこいちまった。そう。結果的にお前が、事件を解決したって事だな』

『…だけど、あんなのはたまたまだ』

『そう。たまたま。普通なら、こうも上手くはいくまい。世の中の悪党って呼ばれる連中は、どいつもこいつも狡賢い奴らばっかりだ』


 その言葉が意味するところは即ち、「この世は暴力で物事を解決できる程甘くはない」か、あるいは「暴力での解決なんて、今の人間にとって時代遅れだ」といったところか。幾らでも捉えようはある。


『…だがな。お前、政治家をぶん殴った時…そんな事、欠片でも考えたか?』


…いいや、考えていなかっただろう。『僕』も。そして僕自身も。


『人はきっと…お前の事を、「バカな奴だ」とかと虚仮にするだろうよ。そうだな。他人から見れば、なんて浅はかな奴だって、そう思うに決まってる』


―だけどな。


『だけど、俺はお前を、誇りに思っている』

『…慰めのつもり、ですか?』

『そうじゃない。俺は大真面目だ。その事件の事を聞いた時、俺は思ったよ。「バカ共がバカやってお先真っ暗なこの世でも、まだ捨てたもんじゃない」ってな』


 『僕』は、思わず目を伏せた。そう、『僕』はそんな、上等な人間などでは決してない。


『分かっているとも。それぐらい。寧ろ俺は、お前の事を凄く、人間らしい奴だと思ってるさ。…ああ、そうとも』


―お前には、人間としてあるべきものが、ちゃんと備わっている。


 違う。そうじゃない。『僕』は心の中で、強く否定する。


『どんな人間にだって、それぞれにとっての正しさがあり、そして義の心がある。それらが合わさって、正義となる。だが、そんな正義を理不尽に弾圧し、蹂躙しようとする奴らもまた存在する。人は「それもまた正義」と言うが…俺にはそうは思えない。正しさも、ましてや義もないそれを、はたして正義と呼んでいいのか、ってな』


 だから、と、オギヤさんは僕の方を向く。その瞳は、真っ直ぐと僕の目に向けられ―


『今の世に必要なのは、そんな理不尽にさらされる本当の正しさを守れる人間…『正義の味方』が必要なんだ』

『…それで、俺に何を求めているんです?』

『俺と一緒に、記事を書こう。この社会に潜む悪党共に、今度は拳ではなく、紙とペンで挑むんだ』

『…結局、戦うんですね』

『じゃあ、戦わずして悪党共を更生させる方法があると思うか?いいや、無いね。いいか、■■。本当の悪党ってのはな、人でなしの一歩手前の奴らなんだよ。奴らに、反省なんて言葉はない。そも、言葉というもの自体の有り様を正しく理解していない。子供の頃、相手が傷ついていようとお構いなく酷い事を口走ったりする、そういう虐めっ子がいただろう?アレと同じだ。奴らはな、言葉の使い方を知ってるだけの猿、いや、もはや悪魔だと言ってもいい。言葉をどう使えば相手がどういう反応するかを知り尽くし、私欲の為に言葉を操り、人を堕とし、そうして快楽を得る悪魔のような奴ら。それが悪党だ。それが、悪なんだよ』


 つまり、彼はこう言いたいのだ。「そんな奴らとまともに戦えるのは、『僕』のような人間しかいない」と。


『今の社会は…腐敗の一途を辿っている。お前さんがこないだ写真を撮ってきた、あの現場がそれを物語っている。だが、彼らのようなやり方じゃ、逆に悪党の動きを助長させるだけだ。奴らを徹底的に叩きのめすのに、暴力では駄目だ。だから俺達は、『真実』を武器に立ち向かわなきゃならないんだ』


 そこから、『僕』は何一つ返せなかった。返せないままに、『僕』は振り返る事無く、その場を去った。何故、その場から逃げ出すように去ったのだろうか。暴力沙汰になんてならない方法なのに。


…いや、きっとそんな理由ではないのだ。『僕』が逃げ出したのは。自分の中に渦巻く感情、思い、何もかもから目を逸らしながら逃げたのは―



『俺は信じているぞ、■■。お前の中の、正義の心を。本当に正しい事を成したいという、お前の義の心を』



―『僕』が、意気地なしだったからだ。



 その後、彼はとある悪徳資産家についての記事を書いた後、行方を眩ませた。そして、あの路地裏で、変わり果てた姿になった彼と再会した。


 僕の脳裏には、酒場から去っていく『僕』に掛けられたオギヤさんのあの言葉が、残響のように響いていた。




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