平穏
「―起きなさいムツ。ムツってば!」
微睡みの中にある意識が揺さぶられる。遠くで、僕の名を呼ぶ声が聞こえる。
その声に引き上げられるように、僕は目を覚ました。
「ぅ、ん。…何?」
重たいまぶたを擦り、声のする右の方に目を凝らしてみれば、お隣さんで僕より一つ年上の幼馴染の自称お姉さん―ヤエの姿が目に入る。その顔は、どうみても起こっている。ぷっくりと頬を膨らませ、腰に両手を当て、せわしなく右脚で踏み鳴らしている。
「何、じゃないわよ!今日は一週間に一度の、先生の授業の日じゃない!早くしないと遅刻するわよ!」
「…?今って…」
「もうとっくにお天道様が真上に上ってるわよ!分かる!?もうすぐ先生来ちゃうわよ!?」
「わ、分かった、分かったからぁ…あとちょっとだけ…」
「こらーッ!」
そうして怒られながら、僕はベッドから追い出されてしまった。ああ、あの温もりが懐かしくも恋しい。まぁ一日が終われば嫌でも戻る事になるのだけど。
******
「そういえば、あれってただの夢、だったのかなぁ…?」
ふと、そんな疑問が頭の中に思い浮かぶ…どころか、口に出してしまう。
「夢?」
そんな事を口走ってしまえば、当然ヤエも食いついてくる。
「ええっと。なんて言えばいいのかな…夢の中で僕は小さくなってて…そう、六歳かその辺り、かな。で、誰かと話をしてて…それから…」
それから、僕は言葉を紡げなくなってしまった。あの後、夢の最後に何かを見たはずだ。だが、それを思い出せない。けれど、これだけは覚えている。なんだかそれは、とてつもなく恐ろしくて、でも、きっと僕にとって、無関係じゃない。そんなよく分からない確信を抱いた事。
「それぐらいよくある夢じゃない。で?それからどうなったのよ?」
「…うん、ちょっと思い出せない、かな」
とりあえずはにかんで誤魔化したけど、きっと怪しんでるだろうな…何故だか知らないけど、カティは凄く僕の世話を焼きたがるんだ。
「なにそれ」と首を捻りながら、ヤエは先に一階のリビングへと降りて行った。
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「メリダさーん。ムツ、起こしてきましたよー」
「おはよう。母さん」
「あらあら、ようやく起きたのね、このお寝坊さんは」
「ま、ちょっとね」
寝たのは月が昇りきらない頃だったのだが、あの夢のせいなのか、起きたのが遅くなってしまったらしい。
同じ女性でもヤエとは異なる、西部の人間特有の顔立ちをした母さんが、いつものように柔らかな笑みと共に僕を迎えた。周りの人達、それこそ子供から大人まで、みんな母さんの事を美人だと持て囃すけれど、僕が彼女の子供だからなのか、金色の髪をした母が美人かどうか、正直よく分からないでいた。
父さんの話によれば、一昔前の母さんはとんでもなく美人だったらしい。淡泊な顔立ちとでも言えばいいのだろうか、男だろうと女だろうとそういうのばかりなこの東部の方では、母さんのような西部からやってきた人間と言うのは憧れの的なのだそうだ。
余談だが、これが逆に西部の方になると、東部の人間を見た時の反応は様々らしい。良いと感じる人もいるし、あまり良い感情を抱かない人も少なからずいるようだ。勿論、母さんは前者だったそうだ。
「ほら、朝ご飯作ったから、早く召し上がりなさいな。今日は授業があるんでしょ?」
「あ、うん。わかった」
朝ご飯とは言うが、もうとっくに時間はお昼を回っているのだから、お昼ご飯の方が正しい。って、そんな事一々言う必要もないか。
あ、急いで食べようとしたら「まだ『イタダキマス』って言ってないでしょ!」と怒られてしまった。どうでもいいけど、なんでそこだけ片言なんだろう…?
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食卓に並べられた、どこか西部風の料理の数々を平らげると、僕とヤエは外に飛び出していった。無論、「ご馳走様でした」とちゃんと言った。
「お、ムツ坊!ようやく起きたのか?」
「はは…ちょっと寝坊しちゃって…」
「ムっちゃん!こないだは鶏小屋の修理、ありがとね!」
「いえいえ。困った時はお互い様ですって」
「タキやぁ…朝飯はまだかい?」
「フト爺、僕はタキじゃなくてムツだよ。それと、もう朝は過ぎてるよ」
家を出ると、村の皆が親しげに話しかけてくる。というのも、僕がしょっちゅう、困っている村の人達を助けているからだ。まぁ、つまるところお節介焼きだ。
やりたい、という欲望とは違う。何と言えばいいのか、やらなくちゃいけない、という使命感のような…。
昔からそうだ。誰かが困っているのを見ると、なんだか助けずにはいられない。
そこでふと思う。これってもしかして、あの夢と何か関係があるのかも?と。もしそうだとしたら…
「相変わらず、アンタってば村の皆から大人気ね」
「あはは…ただ当たり前の事をしてるだけだって…」
「それが普通の男衆にはできないもんだから不思議なのよ。アイツら、いつかメリダさんみたいに西部から美人が来た時の為とか言ってさ。西部の人間気取りでカッコつけたがって、その上乱暴者のクセして、誰かが困ってても助けようとしないし。あ、でも女の子相手には優しいわねアイツら…」
「ヤエちゃんだって、なんやかんやで人気あるからね」
「そうなのかしら…ん?何よ『なんやかんや』って!」
…もしかしなくても、言葉選びを間違えたかな。僕は呑気にそんな事を考えながら、「待ちなさい!」と僕を捕まえようとするヤエから逃げるように、授業が行われるグンジョウの森に向かって駆け出した。着いた頃にはもう先生も来てるだろうし、先生が来ればヤエも僕に怒ろうとしないだろうし。
そんな風に走っていると、さっきまで心の中でつっかえていた何かを、すっかり忘れてしまっていた。はて、一体何に悩んでいたんだったか…。