ミステリがまた美味しくなりだした~松本清張のはなし~
大人向けの作品が大人向けたる所以がこの年になってようやくわかりました。
子供のころ見ていた作品を大人になってから見返すと、いろいろな発見がある――これは割とあるあるな話なのだが、最近になって自分にもそのお鉢が回ってきた。もっとも、作品自体は最初っから大人向けの松本清張。
幼少期、テレ東の系列局のない悲しさで刺激的な子供向け番組に飢えていた自分を埋めてくれたのが、再放送の二時間ものや一時間の連続ドラマ、そしてBSでかかる長編映画。特に大好きだったのは「古畑任三郎」や火曜サスペンス、土曜ワイドだったのだが、そこでよく見かける「原作」のひとつが松本清張作品であった。ビートたけしが出た「点と線」に、連続ものとして作られた「黒革の手帳」や映画の「ゼロの焦点」、「張り込み」「わるいやつら」等々……。わからない部分のほうが勿論多いのだが、それでもやっぱり、お膳立てされたお子様向きよりはずいぶんと刺激的だった。よくいう「大人の世界を背伸びして覗き見」ている感じが、ちょっとした背徳感のようなものも与えてくれたのかもしれない。
そんなわけだから、原作である小説のほうへと手を伸ばすのは自然な流れだった。ことに、清張の文章が割合に平易だったので読みにくさをあまり感じなかったのも大きかったかもしれない。あれこれ難しい事象の出てくる作品が多いから、そこが非常にありがたかった。
で、原作に手を出し始めたのがだいたい中学後半くらいからだから、かれこれ十数年の付き合いということになる。何度も映像化されている有名どころ、映像化されることがないままのマイナーどころも込みでいろいろと読んできたのだが、最近ふとしたきっかけで「黒い画集」を読み直すことになった。
そのきっかけというのが、古本屋で見かけた中公新書「清張ミステリーと昭和三十年代」という本。劇中に出てくる、映画館や個人商店、官僚の汚職などの話を作品発表当時の世相や事情なども交えて解説してゆく、という変わった切り口に刺激されて、本棚の肥やしになっていた「黒い画集」を皮切りに清張作品群と手を伸ばしたというわけ(新書の中で触れられていたのもあったが)。
ところが、再読をしてすっかり驚いてしまった。昔読んだ時よりも情報量が多い――つまり、「わかる」部分が多くなっていて読後の印象がすっかり変わってしまったのだ。
第一にズシリと来るようになったのが企業、官公庁などでの不正やら派閥闘争がらみの話が身につまされるようになったこと。断っておくが別に、自分自身がワルやってたとかそういうわけではない。昔は「そんなしょうもないことで……」と思ったような犯行のキッカケが、「……いや、あり得る話だよなぁ。閑職にずっといたら鬱憤も溜まるよなあ」といやーに鮮明に感じられるようになってきたのだ。この辺りは清張自身が某新聞社勤務時代に味わった諸々の体験などが切実に反映されているような気がする。彼ほどの苦労人じゃあないけれど、いろいろ職業を転々として覗いてきたものがある分、「わかるなあ……」と感じる部分が多いわけ。これは気楽な学生時代にはわからなかった、新しい味わいである。
そして二番手に来るのが男と女のハナシ。昔は「まあ、こういうこともあるよねえ。この手のジャンルの作品の定番だよねえハイハイ」という具合で割とスルーしていたのが、「……こんな生活が続いてりゃ、そりゃあ魔が差すよなあ」と、これまたイヤな方に「わかる」ようになってしまった。
残念ながら自分自身には浮気しようたってそもそも本命たる交際相手がいない。単に「そういうこと」があった、とか「なかった」とかいう話が否応なしに飛び込むような年齢になってしまったのである(雑多に読む週刊誌趣味で目が肥えたともいうがそれはまた別の話)。
そんな経験が短期間であったところへ、ふと頭をよぎったのが学生時代の恩師の言葉。
「推理小説っていうのは、大人の小説なんだよ」
別に当時意味が分からなかったわけではない。だが、今になって振り返るとこれほど的を射た言葉もないと思う。
要するに、作品のリアリティを高めてくれる人と人との間の諸々、浮世の雑事のあれやこれは、ある程度トシを食わないと実感をもって書けないし、読めない――というワケ。
二〇二五年は、そのどっちも上手いことできるように精進したいな……というのは、偽らざる本心である。
もっとも、まだ何十年かは否応なしに生きそうなので、読んで感じるところはいろいろと変わりそうです、多分……。