ウエイ攻略戦 BC487 5月~8月
今回はデマラトスの行動です。
北に砦を作って南に向かう。彼にとっては基本理念です。
ギリシャ入植都市はイタリア半島の最南端に集中してますので。
=BC487 5月 ローマ デマラトス=
ローマにおける基盤トラキアーノ地区の起訴整備が終わったが、それだけではローマを動かすことはできない。まだまだ我は名声が不足している。
幸いといってなんだがローマは毎年エトルリア勢力に攻められている。
200年以上前から始まったエトルリア人の興隆でコルシカ島やローマ南方のカンパーニュ地方もエトルリア人の領土になっている。
ウエイやカイスラといったエトルリア12大都市近くに突き刺さった棘、それがローマだ。
エトルリア人の王を追放した後は近隣都市とは険悪の一途を辿り、今ではどちらが生き残るかぐらいに嫌われている。
ローマからウエイまでは約20km、カイスラまでも30knなので、お互い攻めようと思った翌日には攻め込むことができる。
このため常時、徴兵が必要な状態だ。
この年(BC487)の春小麦の収穫はやや遅れた。寒さが若干長引いたのだ。
収穫が終わったのは5月末、イタリアではその程度で済んだが北のゲイル地方はひどい食料不足でケルト族がポー河を超えたという噂が聞こえた来た。
そうなれば、エトルリア人の注目は北に向く、今のうちに打開策を考えておきたい。
史実ではウエイ陥落後のエトルリア勢力の没落がケルト人のローマ侵攻を許すことになるのだが、アーシアではないデマラトスにその知識はない。
全力でウエイを攻略するべく作戦を立てていた。
ローマが防壁であったエトルリア勢力を破った後にケルト人に負けたのは戦術の相性が主な原因である。
ケルト人は軽装のままファランクスを組むことなく縦横に走り、投槍で離れて攻撃し、倒れたものを剣でとどめを刺すという作戦をとった。
このため、山間部や騎兵が少ない場合には敵を捕捉しきれずに、だらだらと軽微な損傷を受け続け、ついには失血死するように戦線が崩壊するといったことが起きていた。
皮肉なことだが、この敵に対してはスパルタ兵は圧倒的な強さを誇る。
彼らは1対1になれば、どこの戦士でも圧倒する自信があった。
ファランクスを組むのは多数対1人の状況を防ぐのが目的といってもいい。
しかも、オリンピック新種目(武装競争)やアーシアの遊び(ムカデ競争)によって部隊の機動性は極端に向上している。
縦隊単位で動かせば、簡単に敵歩兵を捕捉するだろう。
トラキア兵を率いるデマラトスはその違いを実感することになる。
ともあれ、それは先の話である。
ウエイの攻略作戦はデマラトスが有する騎兵2個大隊と5個百人隊が主力で行われることになる。
彼の兵力はウエイの持つ5000の兵力に比較すれば少ないが他の諸都市がケルトの対応に追われ援軍がこないという状況は見逃せない。
デマラトスの百人隊はローマ式ファランクスとギリシャ式ファランクスの混合に近かった。
ローマ式ならば全面は10人程度で深さも10人、ギリシア式だと前面が5人で深さが10人の二つの部隊である。
第1・第2部隊はギリシア式、345部隊はローマ式を採用している。
これは最初の2部隊はトラキアでも戦士だった貴族・市民、残りがローマにきて戦士になった平民や解放奴隷という内訳である。
このため貴族・市民部隊では戦闘力は強いが統制を強くしないと暴走しやすい傾向が有り、指揮官を増やさざるを得なかったためだ。
その結果が若干異なる編成になったのだが、使う武器・防具まで変わったので、2種類の部隊のようであった。
主に防具で差が見られ、重装歩兵というべき鎧をつけているのは後者の3部隊で、前者2部隊は円盾、兜、脛当で綺麗にファランクスを組んでいた。
当然、難易度はこっちの方が高いが、装備が軽い分、機動性と持久力に優位性があった。
一方後者もファランクスを組むのに長時間の訓練がいらず、互角の防御力を与えられるというてんでは市民を徴兵し戦士にするには必要なノウハウとしか言いようがない。
どちらが優れているということではなく、兵士の出身に合わせた結果の装備選択としか言いようがない。
デマラトスのウエイ攻略は基本的には兵糧攻めであった。
この辺りはメッセニアを統治していたスパルタ王族である。少数で多数を押さえつけるにはどのような手段が良いかは熟知していた。
エトルリア人の都市は大きめの丘の上に城壁都市をつくるのが一般的でウエイもまた例にたがわなかった。
そこで彼らは騎兵を主体に丘近郊の農場を襲った。
攻めてくれば逃げる。
勝てそうなそうな時は反撃するで、優位性のある機動性を徹底的に使った戦いを行った。
当然、農場の人々は都市に逃げ込むのだが、彼はそれをわざと見逃した。
ウエイはたちまち人で満ち溢れた。
その後は通商を遮断することに専念し、敵に飢えの兆候が出てくるのをまった。
敵に飢えの兆候が見えた時点でデマラトスはローマに出撃を要請しウエイの丘を包囲した。
包囲2週間でウエイは降伏・開城し、市民の多くは近隣のエトルリア都市に散らばっていった。
占領したウエイのインフラはローマを凌駕していた。
多くのローマ兵がこの地への移住を希望したが、デマラトスは今回の戦いで判った、都市としての脆さを指摘したのでその多くが不満を押さえローマにもどった。
指摘した内容は都市を維持する人数が住むには大きな丘と城壁が必要で、その結果常に丘の下から道を通じて食料を運び込まなくてはいけないことだった。
街道を封鎖されると飢餓に弱い。
今回は初めてなのでウエイは農場の住民を都市が受け入れたが、他のエトルリア都市では兵糧攻めを考え、住民の受け入れを制限するか、食料の備蓄を大量に行うしかない。
前者は防衛に必要な人数の関係で下策である以上、後者しかないが彼らにはできても、ローマにそこまでの余力はない。
しかしローマなら船1隻入港すれば多量の食料を運び込むことができる。
受け入れ口は我々トラキアーノが守っている。
ウエイはインフラを利用しながら防衛基地に作りかえた方が良い。
デマラトスのこの意見にウエイは大きすぎる部分は破却し1000人程度で防衛可能な堅牢な砦に作り直された。
工事が終わったのは8月である。かろうじて農閑期の戦争シーズンに間に合った。
これでカイスラがローマを攻め込むときにはまずウエイを落とさなくてはならないという情況ができたことで、エトルリアの圧迫が弱まり、史実と異なるローマの南下政策が決定づけられたのである。
そのことは結果としてエトルリア勢力の延命をもたらし、彼らとケルト人たちとの泥沼の抗争に入ることを告げていた。
このままいけばデマラトスの思惑通り、ローマは大きな勢力がいないローマ南のラテン・カンパーニュ地方を席巻する。
そしてそのまま、つま先のさきにはシチリア島、土踏まずにはタラントが待っている。
ようやくヘレネスにぶつかれる。




