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プロローグ

いよいよローマ編開始です。開始時点はBC487年3月を想定してます。

この時点でデマラトスとアーシアの外観は17、8位、レイチエルは15才、ピュロス、コリーダが20台前半、タルゲリアが20台後半、パンドラは30台前半の外観を想定しています。デイアネイラは15才のままです。

=BC487 3月 ローマ デマラトス=


カンプス・マルティウス(マルス広場)、これが我々に与えられた土地だった。

20年ほど前までは小麦畑だったが、所有者の王の追放に伴い、焼き討ち放置され、我々が来た時には、この地は西はテヴェレ河、東はクィリナーレの丘、南はカピトリーノの丘に囲まれた湿地にすぎなかった。

軍隊の訓練場として用いられていただけあって、下ばえの草の根は強く張り、鍬の歯をたやすく受け入れてはくれなかった。


セルヴィウス城壁で囲まれた7つの丘から見れば町の外の低地にすぎない、この土地は彼らにとってはフラミニア街道の南側という程度の認識でしかないただの荒れ地である。

城壁内のフォロ・ロマーノや大競技場チルクス・マキシマムスの荘厳な石造りの建物に比べれば練習用の古い武具の入る木製の小屋しかない、この土地は到底同じローマとみなされることはないだろう。

しかし、こここそが我らトラキアーノ一族の新しい拠点であり、ローマ人たちの想像を超える街ができあがる場所である。

待っていろヘレネス、再び帰るときは、我らが王となりその地を席巻せん。


=BC487 3月 ローマ ブブリウス=


嬉しいことにローマに新しい一族が入植してきた。

最後の王、尊大なるタルクィニウスが追放されて20年ほどが過ぎていた。

共和制に移行して以来、エトルリア人の王国との抗争に明け暮れ、国内の貴族と平民の対立も激しくなり、5年前に護民官の設立で、ようやく平民と貴族の対立に一息ついた状態だったが、まだまだ先行きは混沌としている。

私、マニウス・ブブリコラ・ヴァレリウスは平民派と呼ばれる一派に属している。

これから先の時代に重要な戦力である平民の権利と富の保護は国防への重要な要素となる。

このため貴族の権益の一部については平民に譲るのも仕方なしという考えである。

これに対抗するのがファビウス家やクラウディウス家などの貴族派である。

彼らは国防での実績を元に話を行ってくる。実際に幼い後継者以外一族全滅して戦線を支えたファビウス家(成人男子318名が玉砕している)、代々の当主が戦死しかしてないクラウディウス家などは平民にそのマネができるかと平気で言う。

たしかにその功績を考えると一考はさせられるが、しかしローマを守るために、常に新しい血を入れ続けざるを得ない現状では、貴族になる当主以外の郎党つまり平民についても充分な配慮を行わなくてはならない。我々はそう主張し続けてきた。

そして、今回やってきたのはトラキア人の部族である。

今後、引き続きギリシア人が入植してくれればいいが・・・


彼らに与えられたのは塀の外のマルス広場である。

広場といえば聞こえはいいが・・・野原というのが正しい。

というのも、彼らを率いていた人物に問題があった。


彼らを率いていたのは10台半ばのマルスのように美しい少年だった。

彼は自分をスパルタ王デマラトスの甥と名乗った。

周りの兵士団といい、連れていた女性の美しさといい、誰もがその素性を疑わなかった。

そしてそのことがローマに距離を置かれた原因というのは、まったくもって彼には不運であろう。

ローマ共和国は王政に関して非常に強いアレルギーのような反応を示す。

王政につながりそうなものはすべて悪という判断がされる。

これは善悪の問題ではなく、この数十年のローマの歴史がもたらしたローマ市民の道徳的なものだ。

幸い彼にはスパルタでの反戦平和主義者のようなものだ。といった瞬間に理解してくれた。

それゆえ城壁の中でなく外で一定の功績を立てて、市民感情をなだめる必要があることを了解してくれた。


彼らは自分たちトラキアーノをローマ市民として認めてもらうために、ローマの横に市場を含む街の建設を始めた。それが一年前だ。

完成後はローマ共和国に市場等の公共部分を寄贈することを条件にだ。


そして、その建設は多くの都市を建設してきたギリシア人の叡智を見せつけられる結果になった。建設現場へエトルリア人の技師たちが教えを請いに行くのも珍しくなかった。

彼らの街づくりは非常に合理的で神々への畏敬に満ちていた。


彼らはまずマルス広場の雉と兎を狩ると神々への贄とし占いを行った。

主に肝臓について調べ、生贄が健康であることを確認すると神々への儀式を行った。


彼らの特筆すべき点は、まず将来の街の人口を決めてから街の設計に入ったことだろう。

街の名前は部族名のトラキアーノを使いトラキアーノ地区と定め、最大人口を1万人に決めた。

現時点で2000名であるので5倍の大きさである。

彼らの話では単独の都市なら5万人を設定したはずだが、ローマの機能を活用することを考えると1万人程度の通商都市が適当と判断したとのことだ。

その人数に合わせて決められた街の周囲の大きさに沿って白牡牛と牝牛の引く鋤で溝を掘っていた。

門の部分は鋤を上げて溝を切らないようにしていた。


その後に中心部分に市場となる区画を決めると、そこを中心に直行する道路を決めていった。

本来ならフォーラムを中心にするのだがフォロ・ロマーノがあるためこの街には政治施設・防衛施設は設けないとのことだった。

市場の中心に祀られた神はヘルメス、我々で言えばメルクリウスだ。

4年前に作られたアバンティ―ノの丘のメルクリウス神殿から神官が赴き分祀された。


直行する道はグローマと呼ばれる器具を使って測量されていた。

これは木の棒の頭に十字架がついていてその十字架にはそれぞれ糸で吊るした分銅がついたものである。

これで地面の水平を取りながら道路の直交を確かめることができた。

このため彼らの道は何キロ伸ばしても曲がらない直線を維持することができた。


マルス広場には道に沿って深い側溝が切られていた。

これは元々湿地だった土地の水はけを改善し、染み出た水はフォロ・ロマーノの地下で下水道を通じてテヴェレ河の下流に流した。


市場から伸びる道はフラミニア街道とカピトリーノの門を通じてアウレリア街道につながっていた。

その道は石畳が採用され、小アジア近辺から切り出された平たい石が大量に運び込まれた。

それらは海路ペルシアから送られてきたらしい。

それを物語るように川には桟橋を作り河口のオスティア港との交通を確保していた。


どれだけの富が消費されたのかはわからないが、1年ほどでマルス広場は湿地の野原から石造の建物の整然と並ぶ美しい都市トラキアーノ地区に変わっていた。


トラキアーノ地区に城壁は存在しない、防禦設備としては広くて深い水堀が周囲を取り囲んでいる。

それゆえに明るく開放的なイメージを受ける。


この城壁が無いことが工期が短かった理由ではあるだろうが、なによりも建築に赴いたローマ兵が優れて工事に向いていた事が大きな理由であろう。

この点は彼らも口をそろえてほめたたえていた。

同時に彼らのすすんだ道具を用いることができたことは言うまでもない。

あの回し車を用いたクレーンというものは高所作業を一変させた。


この工期の間に彼らの意識も大きく変貌していた。

もともとの彼らにとって兵士とはすなわち戦士であり、その他の雑事を行うのは、従者である奴隷という認識であった。

トラキアーノもローマ式に兵士を再訓練した結果、従来は従者扱いだったものが戦士となり、戦士は百兵長へ、そして族長は軍団長へと組み替えられた。


彼らの富は第1階級に所属するものであると証明され、騎兵200、兵士500がトラキア軍団として認められた。

これにより彼らは7票の投票権を持つ第5の勢力としてローマに受け入れられることになった。

彼らの経済活動で市民に富の蓄積を進めることができるようになり平民派は勢力を増すことができた。

あと数年もすれば彼らから執政官コンスルが出るかもしれない。

特にあの少年は成人になれば不可能ではないだろう。

ローマでは30才をもって政治的には成人とされる。まだ10年以上あるのだ、旧王家のブルータスの再来となってくれればいいのだが。


=BC487 4月 ローマ デマラトス=


デマラトスはカピトリーノの丘のユピテル神殿補修を指示しながら、自分が作った街を眺めていた。

彼の目からすると高度差が少ないこの土地では城壁よりも堀での防禦の方が良いと思うのだがローマ人は違ったようだ。

もっとも城壁を作ることで石工や建築技術がのびた点のあるので一概には言えないのだが。


デマラトスの美意識に沿ってもポリスは壁で囲まれるべきものではない。スパルタのように。

それをまざまざと見せつけられたのはマケドニアの地だった。

アーシアは河と地形を最大限利用した堤と柵で防衛線を築いて見せた。

要所要所に兵の駐屯地を交えながら・・・強力でなおかつ自然な防禦構造だった。

攻め込もうにも隙が無く、結局アルゴスの強欲を誘導して一時的な突破口にするのが精いっぱいだった。

今もマケドニア方面からペルシアは進行できずにいる。

我がトラキア総督になってもあの防禦線は抜ける気がしなかった。

今でもその気持ちに変化はない。


だが、人は学ぶものだ。


お前から学んだ手法をそっくりぶつけ返してやろう。

お前がペルシアとの抗争にポリスを巻き込んだように、ローマをじりじりとヘレネスとの抗争に引きずり込む、イタリア戦役の開始だ。

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