セベク
調べた感じでは、このころのナイルデルタ域の頂点はカバだったようです。
ゾウもサイも分布がしていませんし、ワニは食いちぎりますし、ライオン、ハイエナでは勝てません。
主食は草、まれにインパラやワニといった所なのですが、最大3トン、体高1.6m、体長3-4mの巨体ですので水辺では最強です。
3トンって4トン積みトラックの車体の重さとほぼ一緒というと巨大さがわかってもらえると思います。
「残り1スタディオン(180m)、次の水路まで湿地6キュビット(3m)!」
「両舷全速、乗り越えろ!」
キモンの大声が響く。一斉に櫂の動きが早まる。
ここナイルのデルタ地域は迷路になっていた。
右左に曲がりくねっているだけではない、幅も広く、細くなっている。
広い水路が突然浅くなって水がなくなるなどは日常茶飯事である。
搭載していたカッター4隻が先行して水路を探しながらの遡行である。
時には勢いに任せ、泥の上を滑るという荒技も使わざるを得ない。
アカイア号は大きな水音を立てて次の水路に飛び込む。
「櫂上げ、フォアジブ左一杯、メインジブは右一杯、急げ。」
左右に帆を展開して移動するが、この形なら微風でも3ノットは確保できる。
「キモン、今日は大丈夫そう?」
「なんとか本流に近いとこに来てるみたいですね。姉さん」
ホルスを抱いたままレイチェルが船室から上がってきた。
すぐ後ろに護衛のためコリーダがついてきていた。
「時々船底で何かを轢いてるのが、気になりますが・・・ワニは固いですから・・・」
キモンは鰐で船底を削るのをものすごく気にしていた。
「ラムヌース2世で来れればよかったんだけどね。」
こういう場面に最適のラムヌース2世はマケドニア戦役が落ち着いた時点でドック入りしている。
今回は水面下の銅板張りの様子も確認するので3か月はドック入りするだろう。
「下での浸水はいつもぐらいだったから、あとで汲みださないと。」
「はい、姉さん。」
イオニア級は従来のガレー船と違って、アルキメデスポンプによる排水装置がついている。
排水作業は格段に楽になっている。
「それにしても、厄介ですね。」
遠くの方で人の叫ぶ声が聞こえる。
レイチェルは耳を澄まし、あたりの声をひろった。
「聞こえてる範囲では見つかった報告はないわね。」
コプト語で響き渡る声はレイチェルにしか内容はわからない。
とはいえ、見つかりにくいのはよくわかる。
以前のアカイア号を知っている人間がいたならその激変ぶりに驚いたはずだ。
船の舷側や帆は泥の焦げ茶色になり、舷側にはツタが這わせてある。
マストに至っては横に木の枝を出す偽装ぶりだ。
じっとしていればまず見つからないと思う。
「蹴散らすのは簡単なんですが・・・」
「そうねー、御父上のことを考えると、そうもいかないのよね。」
アカイア号には52名のサルピズマが全員乗っている。当然隊長のサンチョも乗っており、さらにはコリーダとタルゲリアである。偵察兵の100や200なら一瞬で蹴散らす自信はある。
「義父上は今何してます?」
「いまメンフィスに着いて、あたしたちのことを聞いて慌ててるわ。こっちに向かってるはず。」
「じゃあ、来るまで見つからないようにゆっくり遡上ですね。」
キモンの言葉にレイチェルは頷いた。
「ワルファラ族とマガリハ族のみ捜索担当、レオスは他部族でメンフィスで兵站線を維持して、あとペルシアの偵察。ワジは通訳でこっちに回って。」
わたわたと指示を出し、メンフィスにいたのは15分もなかったんじゃないだろうか。
8人漕ぎの小舟を仮の指揮艦にして乗り込むと、下流に下りながらの指示になった。
ワジの話ではこの時期のナイルの流れは毎日変わるとのことだ。
昨日までできていなかった流れができたり、干上がっていたりということで喫水の浅い川舟以外はほとんど移動の予測が不可能らしい。
その話を聞くと100隻もペルシア軍艦が遡上してきたことは、まずありえなさそうだが・・・
姫様が幻覚でも見せたか?
捜索に投入するのは200艇、約1000人だが彼らには大型船は味方だと伝えてある。
行く先々で先行の捜索隊にそれを伝えてもらうので、時間がたつにつれレイチェル達の安全は高まるはずだ。
この地域は、夜間はワニ、カバが怖いので捜索できない。
特に怖いのがカバだ。
この時期カバは気が荒く、ガゼルくらいなら引きずり込んで食べてしまう。
10月はちょうど出産が始まるのだ。
デルタ地域ほぼ全域で警戒が必要である。
他にも蛇や虫など毒のある生物の点からも、早めの野営準備と大人数での夜営が必須である。
このあたりは俺が指示出すより現地の方が知っているので一任だが。
ということで俺が捜索開始の一日目の夜は、メンフィスから10kmも離れていない地域にいたのは仕方ないと思う。
最も、それが幸いしたのではあるが・・・
ワルファラ族とマガリハ族を八方向に分けて指示を出し、早めの野営準備に取り掛かったときにはまだ周囲は林といえる状態で、川岸も近く硬かった。
このため岸に上り焚火をしながら夜営していた。
夕食については野営準備中にとらえた蛇、兎等を塩焼きすることで間に合わせた。
(・・・香辛料持ってくればよかったな・・・)
夕食の材料は考えてなかったこともあって、小麦のパンと焼肉のサンドという名前だけは非常に豪華な食事をとっていた。
夜も更けた頃である、地響きのような足音が近づいてくるのをかんじた。
「パトラ様、カバが近づいてくるようです。静かに離れましょう。」
小声で指示するワジに導かれるままに避難した。
やがて月明かりの中、とんでもない巨体のカバが現われた。
3トンを超えるオスのようだ。
どうもキャンプ地のあたりが餌場だったらしく、そこらじゅうの草を掘り返すように食べていた。
(まいったな、食事終わるまでは帰れそうにないぞ)
(あそこだけなら1時間もしないうちに食べつくしますから移動すると思いますよ)
小声で会話しているとカバの動きがぴたりと止まった。
カバはこちらに気付いたのではなく近寄ってくる何かを警戒したようだ。
林の奥から人影が現われた、身長は2mを超えていると思う、頭がワニになっている点ですでに正体はわかった・・・こうしてみると尾のないリザードマンみたいだな。
その人影は一息に距離を詰め、剣を抜くとカバに向かって切り付けた。
傷を負ったカバが突進する。
スラリと横に避けると首筋に嚙みついた。
そのまま肉を嚙みちぎる。
カバの断末魔の悲鳴が響き渡る。
・・・え?あの頭、本物なの。
人影はそのままカバを貪り食うと、直ぐに林の中に消えた。
残されたカバの死体は腹に大きな穴が開いていた。
「セベク」「セベク」「セベク」
漕ぎ手たちが口々にセベク神の名を唱え始めた。
「パトラ様、あれはセベク神でしょうか?」
ワジがぽつりと聞いてきた。
「いやもっとマズい・・・俺たちの宿敵だ。」
「宿敵ですか?」
「ああ、デマラトスの成れの果てだ。」