A or C or Dw
「ぷはあ!」
カウンターにある背の高い椅子に座っても、端が床に付きそうなほど長い長いベールを身に纏った女性が、大きなジョッキを口から離した。
つい先ほどまで並々と注がれていたアルコール飲料も、もうほとんど残っていない。
「相変わらず、良い飲みっぷりだねえ」
店の店主が、カウンターに頬杖を付きながら苦笑する。
「む。なんだまだ見たいか? 一杯タダにしてくれるなら見せてやるし占ってやるぞ。百発百中。ピタリと当たる占いだ!」
「それ、もう聞き飽きたわ」
「むむ! 信じていないな! まったく、これだからこの世界は……」
「何言ってんだか」
シシッと店主が笑うと、女性はむすーっと頬を膨らませて、
「ええい! もう良い! もう一杯だもう一杯!」
「タダにはしねえぞ〜」
軽ーく言いながら店主が彼女に背を向けると、分かっている! と彼女はさらに頬を膨らませた。
その時だった。
「あのう。それ、僕に奢らせてくれませんか?」
「む?」
「あ?」
店主と女性が、揃って声のした方に顔を向ける。
そこには、グレーのスーツを纏い、書類鞄を持った人の良さそうな男性が立っていた。
会社帰りのサラリーマンのようだ。
「是非、占ってほしくて」
「なるほど。そう言うことなら大歓迎だぞ!」
「おいおい、正気かい? お客さん」
「店主は黙っていろ! さあ、ここに掛けるが良い!」
ぱっと顔を輝かせて、女性がポンポンと隣の椅子を叩いた。
男性も柔らかく笑い、失礼します、と断って、椅子に腰掛ける。
「ウーロンハイあります?」
「おう。ちょっと待ってな。お前はさっきのと同じで良いか?」
「うむ。お願いしよう」
女性がそう言うと、店主は頷いて飲み物の準備を始めた。
それを横目に、女性はどこからともなくカードの束を取り出し、パッパと手早く切り始めた。
「私は、依頼人の人生を総合的に視ていてな。ひとまず全て占うが、恋愛だとか、仕事だとか、特に気になる事があったら、遠慮無く言ってくれ」
「分かりました」
男性が頷くと、女性はカウンターの上に一枚一枚不規則にカードを配置していく。
そのカードをのぞき込んで、男性は首を傾げた。
「タロット……じゃないですよね」
「ああ。そうだぞ」
女性が一枚一枚広げていくカードは、時折見かける類のものではなかった。
タロットと同じ様な絵札で、一枚一枚違う数字がふられてはいるが、繊細な筆遣いで描かれている絵は幻想的な風景画。
カードの下の方に書かれている文字は、英語でもなく、フランス語などでもなく、かといって、アフリカや中東の方の文字でもないようで、とにかく、男性は読むことが出来なかった。
「うちの一族に伝わる唯一無二のカード。門外不出の術式さ」
気が付くと、全てのカードが並べられたようで、女性の手元には数枚しかカードは残っていなかった。
横に長く、流れる川のように広がるカードを、女性は左の方から順に、手を当てたり、真剣な眼差しでじっと見つめて、時折、ふむふむ、とか頷く。
ふっ、と、二、三枚のカードに手を当てて、女性が、苦く口の端を吊り上げた。
「ずいぶんと、昔はヤンチャだったようだな」
「そんなことまで、分かっちゃいますか」
女性の言葉に、男性は驚きつつも苦笑した。
「行動も人間関係も、悪い意味で派手で、その割に、上手く逃げていたのか大事にはなっていない」
「ううう……。若気の至りと言うか、何と言うか……」
「しかし、その後はずいぶんと平凡な様だな。流れが途中でぶつりと途切れたような感じというか。む、これは……」
「なにか……?」
「近いうちに、とても大きな転機が訪れるようだ。まあ、それをどうするかは、あなたに委ねられているようだが」
「転機……ですか?」
「うむ。その時の選択次第で、この先の人生も大きく変わってくるだろう。この先が、はっきりと占えなくなるほどに」
そう言って、女性はとん、と一番右端に置かれたカードに指を置く。
カードに描かれた絵は、深い霧に包まれた、夜の森のようだった。
それほど大きいカードではないのに、じっと見ていると、どうにもその絵に飲み込まれてしまいそうで、男性は少し背筋が冷たくなるのを感じた。
「先ほども言ったが、この転機の選択は、全てあなたに委ねられている。そしてそれは、霧のように、奥を探ろうとしても何も掴めないものだ」
「じゃ、じゃあ、どうすれば……」
男性が困ったように言うと、女性はふむと顎に手を当てて、
「まあ、これはいちアドバイスにすぎないが、大切なのは、経験則と直感、それと、好奇心……。今持っているものを最大限に生かすことが出来たなら、あなたはきっと、もう間違った選択はしないだろう」
「間違った、選択……」
男性が呟くと、女性も頷いて、左側にあるカードにトントンと叩く。
カードには、中途半端に光るネオンに集う虫たちが印象的な廃墟が描かれていた。
「ほいお待ちどう!」
ドンと二人の前にグラスが置かれた。
女性はパッと顔を上げグラスを手に取ると、中身をキューッと飲んでいく。
「ぷはあ〜……」
「良い飲みっぷりですね」
笑いながら、男性もグラスを手に取り、口元に持って行く。
が、直前で、ふとその手を止めた。
「……これも、飲みます?」
困ったように笑う男性は、そう言って、女性の方に透明な茶色い液体の入ったグラスを掲げて見せる。
早くもグラスを空にしかけていた女性は、きょとんと目を見開いた後、
「わっはっは!」
と豪快に笑った。
「いやはや。嫌なことを思い出させてしまったか」
「……まあ……」
「済まないな、これが生業なのだ」
「いえ、あなたが謝る事じゃありません。全部、自分がやったことです」
男性が、少し俯いて言う。
「初めての酒とたばこは、中学生の頃でした。案外、珍しい事じゃなかったんです」
「嫌な世の中よ」
「……髪も染めて、ピアスの穴も開けたりして。薬の類は、何とか無縁でしたけど」
「不幸中の幸いだな」
「当時は、それがすごくすごい事なんだって、思ってたんです。周りの大人とか学校の先生みたいに、そんなことダメだって言う奴らは、みんな意気地無しなんだって。綺麗事並べ立てて、何を偉そうにって」
「ガキなどそんなものよな」
「……そうです。ガキだったんです。どうしようもない」
男性は、先ほど女性が指して見せた廃墟のカードを見た。
あの頃の自分は、あの汚いネオンに群がる虫のうちの一匹だった。
「高校でも結局そんな感じで、周りがだいたいそうだったから、普通の大学に進学しました」
女性はただ頷いて、トントンとカードを辿っていく。
「それで、特に何もないまま20歳になって、当時のゼミ仲間と一緒に、飲み会に行ったんです。留年して年上って人も何人かいたんですけど、大半は、初めて酒を飲むような連中ばっかりで」
男性がそう言った時、女性の手がピタリと止まった。
下にあるカードには、沈んでいるのか昇っているのか、ビルの向こうに半分だけ顔を出した太陽が描かれている。
「みんなビールとか、カクテルとか注文して、それを一斉に飲んで、顔をしかめたり、美味そうに頷いてたり。いきなり真顔になって、バタッて倒れたりする奴も居て。……それ全部に、すごくびっくりしたんです」
女性は、ただ頷く。
「自分は、もう飲んだって何も感じなくて、美味いともまずいとも思わなくて。必死に、昔のことを思い出そうとしたんです。こういう瞬間が、自分にもあったはずだって」
でも……。と彼は首を振る。
「何も思い出せなくて、次の日気持ち悪かったことくらいしか……。その時気付きました。自分が過ごしてきた時間が、いかに空っぽだったのか。
あいつらみたいに、口に合ったとか、まだまだ美味く感じなかったとか、お前急に倒れて驚いたんだぞとか、誰かと、後から思い出せたり、笑い話になるようなこと、一つも無かった」
彼は、また首を横に振った。
「それ以来、なんだか毎日ぼんやりしてて、酒もたばこも、そんなに飲まなくなって。何となく大学を卒業して、何となく就職して。また、ある日気付きました。
自分が、普通の人になってるって」
バカみたいですよね。でも本当なんです。と男性は苦笑する。
「うちの父は割と厳しい人で、酒もたばこも、するのだったら20歳からって人で――ってまあそれが当然なんですけど――、自分は、そう言う人を嫌って、見下していた。でも、結局自分はそう言う人たちと肩を並べてパソコンの画面を見てたんです。父と同じように」
女性は何も言わない。
ただ、男性の方をじっと見ていた。
「自分は、ただの社会の歯車でした。笑顔作って、走り回って頭下げて。あの頃の自分が格好悪いって思ってたこと、自分がやってました」
男性が顔を上げて、たははと笑う。
「まあ、こうなれただけでも、ましなのかもしれません。あの頃の仲間の中には、もっと悪い方向に転がってった奴も居たって聞いてます」
今、ちゃんと生きてるかどうかも分からない奴だって。
男性は、ふと自分と女性の真ん中にあるグラスを見た。
大きく角張っていた氷はだいぶ小さくなり、心なしか、中の液体の色も薄くなったようで。
「……済みません。なんか変な話」
「構わんさ。世の中、いろんな人間が居るのだから」
「そうですね……」
女性の言葉に頷いて、男性が苦笑してまた俯いた時だった。
ガッシャン!!
「!?」
突然、背後から聞こえてきた大きな音に二人は驚いて振り返る。
カウンターの向こうで料理をしていた店主も、何事かと顔を上げた。
「てめぇ何してくれてんだ! あぁ!?」
「も、申し訳ありません!」
そこには、濁声を張り上げるガラの悪い男と、その男にペコペコと頭を下げる、この店の店員であろう青年が居た。
よく見ると、男の着ている趣味の悪い真紫のジャケットの裾が濡れており、青年はポタポタと滴の垂れる盆を持っている。
ははあ、と二人はそれぞれ納得した。
男は倒れた一本足の丸テーブルの面を思い切り蹴り上げ、大きな音を鳴らす。
周囲には、倒れた椅子と、テーブルから落ちたのであろう、割れたグラスが散乱している。
不幸なことに周りに座っていた人々は、男の雰囲気に動けなくなりながらも、少しでも距離を取ろうと、小さく縮こまっていた。
大声で何かまくし立てる男と、頭を下げ続ける青年。
店主がドタドタと慌ててカウンターから出てきた時、男性が、すっくと椅子から立ち上がった。
そのまま、ツカツカと向こうへと歩き出す。
女性はそれに少々驚きつつも見送り、店主はさらに慌てて男性を追った。
男性が紫ジャケットの男に話しかける。
一瞬驚いた様な顔をした男は、すぐさま怒りの矛先を彼に向け、また大声を出した。
いや、威嚇と言うのが正しいのだろうか。
しかし、彼はそれに怯む様子もなく、男に何事か話して聞かせる。
だが結局、男は納得出来なかったようで、何か喚いたあと、堅く握った拳を振り上げた。
あ、と彼女は口を開ける。
振り下ろされた拳を、彼は素早くかわし、逆に男の腕を掴んで。
「よいしょっ」
それは、実に見事な背負い投げだった。
「昔、ちょっと柔道をかじったんです。案外、覚えてるものですね」
カウンターに帰ってきた彼は、後ろ頭を掻きながら言う。
あの背負い投げで気を失った男は、つい先ほど騒ぎを聞きつけ駆けつけた警官に連れて行かれた。
「……? どうかしましたか?」
彼は、じっと自分に向けられる目線に気付いて、首を傾げた。
そんな彼を、彼女は何も言わず、じーっと見ている。
やがて、ぽつりと呟いた。
「悪くないな……」
「何がですか?」
「ちょっと来てくれ」
カウンターのカードを手早く片づけて、代わりに酒の代金を置いた彼女は、椅子から立ち上がると彼の腕を引っ張って、店を出た。
「ちょ、どこに行くんですか?」
「…………」
彼の腕を引いてズンズンと歩く彼女。
どうにかして抵抗しようとしたのだが、いったいその華奢な体のどこにそんな力があるのかと言うほど、彼の腕を掴む彼女の力は強かった。
ふと男性が足下を見ると、ずるずると引きずられる彼女のベールが目に入る。
不思議な格好をした彼女と、ごく普通のスーツを着た彼は、やはり目立つようで、時折感じる視線に、彼は体をもぞもぞと動かした。
どれほど歩いただろうか。
たどり着いたのは、大通りの喧噪から1本外れた道から伸びる、さらに暗い路地裏だった。
ぱっと、女性は男性の手を離し、くるっと向かい合った。
「どうしたんですか? ここ、どこです?」
男性が首を傾げる。
女性は、ふむ、と一つ頷いて。
「実を言うとだな。私は、この世界の人間では無いのだ」
「…………はい?」
「こことはまた別の世界より、ある目的を持ってやってきたのだ」
「……目的?」
男性は、ただただ混乱した。
彼女はこの世界の人間ではないとは? 別の世界とは? その目的とは?
自分は酔っているのだろうか。
一杯も飲んでいないはずだが。
「私は、その世界にある、とある王国の城に仕える魔法使いでな。国王が溺愛する愛娘の、姫の、護衛を行ってくれる人物を探していたのだ」
「…………」
「大丈夫か?」
「あんまり……」
「まあ、無理もないな」
女性が、くるりと男性に背を向ける。
そこには、雑居ビルの汚い壁。
「姫は、どうも難しい年頃のようでなあ。昔から城にいる騎士たちでは詰まらない! 誰か面白い人物を連れてきて! と。
そうしなければ、他の国の王家や貴族の方へのお披露目となる舞踏会にも出ない! と、ずーっと駄々をこねておられるのだ」
「た、大変ですね」
「まったくだ……」
はあ、と彼女が深いため息を吐いた。
そこに溜まった疲れを、男性は感じ取る。
「それで、僕に白羽の矢が立った訳ですか」
「その通りだ。先ほどの身のこなし、昔かじった程度と言っていたが、それだけで今あの動きが出来るというのは、やはり天性のものであるに違いない。あなたなら、十分勤まると思っておる」
そう言いながら、彼女が雑居ビルの壁に、一枚のカードを押し付けた。
と、次の瞬間、そのカード(どうやら扉の絵が描かれているようだ)を中心に、上下に白い線が一直線に伸びる。
「!!」
ゴッと一瞬強い風が吹いて、男性は腕で顔を覆い、目を細めた。
いつの間にかカードが消えて、白い線がぐぐっと横に開く。
「どうかね」
どこまでも真っ白な大穴を背景に、彼女はじっと彼を見た。
笑うでも、試すようでも無く、ただ真っ直ぐに彼を見た。
ごくり、と、彼がつばを飲み込む。
先ほどの、彼女の占いを思い出した。
「……これは、確かに、大きな転機ですね……」
むしろ大きすぎるぐらいだ。
もっとこう、仕事とか、恋愛とか、金銭面とか、もっと現実的なものだと思っていたのに。
こんな事になるなんて、誰が予想出来ただろう。
ただ、とても不思議なことに、彼はこんなあり得ない出来事を、実に冷静に受け止めていた。
ドキドキと鼓動は速まる一方であるが、ふわふわとした感じはしない。
地面に、足はしっかり着いている。
『大切なのは、経験則と直感、それと、好奇心』
今、自分が持っているもの。
あの頃の自分が、持っていなかったもの。
ピンッと浮かんだ答えに、彼は、口の端を吊り上げた。
この選択はきっと、間違いじゃない。
「占いの代金、結局払ってないですからね」
先ほど、さっさと会計を済ませてしまった彼女。
こんなのは、口実にすぎないけれど。
少し驚いた顔をして、それから楽しそうに笑って見せる。
そんな彼女のもとへ、彼は確かに、一歩踏み出した。