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作者: ナツロウ
掲載日:2026/03/18

「昔々、『円』が世界で一番強かったころ」祖母はそう言って、古い木箱から一枚の紙を取り出した。ただの紙ではなかった。少しざらっとした手触りの、黄ばんだ紙幣だった。印刷されている男は怒っても笑ってもいない、遠くを見ているような顔をしていた。「これ、一万円札?」と僕が言うと、祖母は鼻で笑った。


「そう。昔は札ってのが、お金だったの」

 そう言われてもぴんと来ない。僕らは端末の数字で払って、数字で暮らしている。円という単位は残っているが、手触りはない。どこの国の何を買っても、最後は透明な換算網のなかで処理される。円は円のままではいられず、ドルも昔ほど偉そうではない。それでも祖母は円という言葉を口にするときだけ、少し背筋を伸ばした。


「一円で十五ドルだったんだよ」「また始まった」「本当だよ」「一円で?」「そう。一円で十五ドル」

 僕は信じないわけではなかった。ただ、その数字に現実味がなかった。僕の知る円は強い弱いというより、軽いものだった。父は機嫌の悪い日に、「この国は通貨まで腰が低くなった」とよく言った。母はそういう言い方を嫌った。嫌うというより、聞こえないふりをした。洗い物の音をわざと大きくしたり、冷蔵庫を閉める手に少しだけ力を込めたりして。


 祖母は畳の上に札を置き、指先でまっすぐに伸ばした。障子を通った薄い光が、その紙だけを少し古い色に彩った。

「強い通貨があるっていうのはね、世界に向かって大きい顔ができるってことじゃないのよ」「じゃあ何」「未来を前借りできるってこと」

 祖母は少し黙った。

「みんな、先のことを信じてたの。明日は今日より便利で、来年はもう少しきれいで、十年後には面倒の半分は機械がやってくれる。そういうのを本気で信じてた。で、大抵の人はその夢を円で買える気がしてた」


 祖母は若い頃、空港の免税店で働いていたらしい。今では海抜が低すぎて閉じている、旧湾岸第三国際港。防潮壁の内側に遺された建物群は、遠くから見ると鯨の骨みたいだった。

 昔、日本人は外国で値札を見ても怯まなかったらしい。パリでも、ニューヨークでも、香港でも、財布の中の紙切れが他人の言葉を黙らせた。そんな時代があったのだと祖母は言った。


「みんなね、お釣りのコインを小瓶にためて帰ってきたの。マルク、フラン、リラ、ペソ。世界を崩して、ポケットに入れてきたみたいでね」

 僕は若いころの祖母を思い浮かべた。制服のスカーフをきつく締めて、閉店後のバックヤードで商品箱を数えている姿を。休憩室のテレビでは海外ニュースが流れ、その向こうの街がひどく明るく見える。

「で、その強かった円で何を買ったの」

 僕が聞くと、祖母は木箱の中からもう一枚、薄い紙を出した。


 青いインクの滲んだ古いレシートだった。店の名前は消えかけていたが、品名は読めた。ポータブルカセットプレーヤー。

「ラジカセじゃないんだ」「持ち歩けるやつ。イヤホンで聴くの」 「ふうん」「高かったんだから」「でも円が強かったんでしょ」「強い円で買ったからって、庶民に安いわけじゃないよ」

 祖母は笑った。

「ただ、無理すれば届く値段だった。何ヶ月か節約すれば買えた。届きそうっていう距離が大事なのよ」

 そのプレーヤーで何を聴いたのかと聞くと、祖母は「色々」と言い、それから少し声を落とした。


「でも一番聴いたのは、英会話の教材だったかもしれない」「歌じゃなくて?」「歌も聴いたよ。でも、あの頃は外国ってのが、ちゃんと外側にあったの。まだ踏み込んでいない場所として。行けば何か変わる気がする場所として」

 祖母の部屋は昔から、海の匂いがしているような気がした。海辺に住んでいるわけでもないのに、古い木と、防虫剤と、湿気を吸った布の匂いが混ざると、なぜかそうなる。


「結局、行かなかったの?」「一度だけ行ったよ。イタリア」「それだけ」「それだけ」

 祖母は札の端を指でいじった。

「途中で景気が変わって、職場の空気も変わって、祖父ちゃんが現れて、おまえの母さんができて。人生ってのはね、気づくと『いつか』が混んでくるの」

 その言い方が少し可笑しくて、僕は笑った。祖母も笑ったが、すぐに目を伏せた。


 この世代には、そういう顔がある。夢を語るときじゃなく、夢を笑い話に変えるときの顔だ。未来が今より少しましなものとして売られていた時代を、本気で信じられた人たち。

 母もたぶんその端にはいたはずだ。でも母は昔の話をほとんどしない。未来の話もあまりしない。端末の前に一日立って帰ってくると、「今日は換算が荒れてて最悪」とだけ言って、靴下の跡が残った足首を指でさする。ここ数年、点数の変動は大きい。気候と物流と、戦争未満の衝突のせいで、値段は毎日少しずつ揺れる。母は値引きの通知だけを拾う癖がついた。スーパーでは肉のパックを手に取っては戻し、また別の棚を見るようになった。


 前に一度だけ、母は台所で言ったことがある。

「必要なものしか買わないって、慣れると楽だよ」

そのあと少し間を置いて、「欲しいものを見なくて済むから」と、小さく付け足した。あれを僕は、聞かなかったことにした。


 祖母は木箱を僕のほうへ寄せた。中には紙幣とレシートのほかに、古い搭乗券、外国語の新聞の切り抜き、銀色のライター、片方だけのイヤリング、期限の切れたパスポート、小さな透明袋に入ったコインがあった。どれも使い道はないが、がらくたともいえなかった。

「これ、捨てないの」「捨てられないの」「未練?」「そうかもね。でも、未練って言うと贅沢でしょ。だから私は、確認って呼んでる」「確認?」「そういう時代があって、そういう気持ちの自分がいたって確認」


 祖母は一万円札を僕に持たせた。驚くほど軽かった。世界を黙らせた紙とは思えないほど。「ねえ」祖母が言った。「お金って、何だと思う?」

 僕は少し考えてから、「交換できるものかな」と言った。

「何と」「欲しいものと。夢とか、時間とか、遠くの場所とか」

 祖母は目を細めた。

「そうかもね」と言った。「そうかもね。でも、もっと簡単なもんかもしれない」「簡単?」「持っていれば先に行けるって、みんなになんとなく思わせること。円が強かったころ、みんなその魔法にかかってた」

 障子の向こうで風が鳴った。


 僕は札を光に透かした。すかしの模様が浮いた。きれいだった。いまの決済画面にはない美しさだった。数字は便利だが、記憶になりにくい。どの夜にいくら持っていたか、どの店で何を買ったか、別れた帰りに財布に何円残っていたか。紙や硬貨は、そういうことを身体に残すのだろう。


「いまは、そういう魔法ないね」僕が言うと、祖母は首を振った。

「あるよ。形が違うだけ。みんな相変わらず何かを信じてる。もっと賢い仕組みができればうまくいくとか、全部数字にすれば公平になるとか。昔より上品な顔してるけどね」

 その言い方は少し辛辣で、僕は意外だった。

「じゃあ、悪くなっただけ?」「そうでもない」祖母は言った。

「昔の希望はね、景気のいい男みたいなところがあった。肩で風切って、何でも買える顔して、でも家に帰ると案外さびしい。今の希望は、もっと疑い深くて、格好悪い。でも、そのぶん本当かもしれない」


 ちょうどそのとき、玄関の開く音がした。母だろう。靴が床に擦れる音、買い物袋がかさりと鳴る音がした。僕が立ち上がろうとすると、祖母が手で制した。

「その札、持ってっていいよ」

 僕は祖母を見た。「でも」「使えないし」「そういうことじゃなくて」「いいの。若い人の手に一度くらい渡っておいたほうが、札も嬉しいでしょ」

 僕は少し笑った。祖母も笑った。それから真顔になった。

「でもね、勘違いしないで。強かった円が偉かったんじゃない。あの時代の人間が、明日を信じるのが下手じゃなかっただけ。そこを間違えると、ただの年寄りの昔話になる」

 母が居間に顔を出し、僕らを見て「なに、その遺産争いみたいな空気」と言った。祖母は「争うほどのもんないよ」と返した。母は僕の手元の札を見て、「あら、まだそんなの取ってたの」とだけ言い、台所へ消えた。その「あら」の中には、呆れだけじゃないものが混じっている気がした。懐かしさか、苛立ちか、もしかしたら羨ましさか。僕にはよくわからなかった。


 僕は札を財布に入れた。いまどき財布なんて持ち歩く人は少ないが、僕は父のお下がりの革財布を使っていた。ところどころ端の擦り切れた、くたびれた財布。今日はその変さが少し役に立った。いつの間にか外は夕方だった。塾に向かうために外に出ると、風にはどこかの家のカレーの匂いが混じっていた。遠くの高架を、無人配送車が音もなく流れていく。空はなんだか狭く見えた。


 僕は財布の中の一万円札を指先で確かめた。薄くて頼りないのに、妙に存在感がある。世界で一番強かった通貨の記念品なんて、たいしたロマンでもない。金にもならないし、腹も膨れない。ただ、祖母の言う確認にはなるのだろうか。誰かが本気で明日を信じて、外国語の教材を聴きながら、別の人生に手を伸ばそうとした、その確認に。


 店のガラスに自分の顔が映った。父に少し似て、母の疲れも少し早めに受け取っている顔だった。未来を期待している顔には見えなかった。でも、全部を見切っている顔でもなかった。たぶん、そこが僕らの中途半端なところなのだろう。祖母たちのような派手な希望は持てない。けれど、希望を一度も信じないほど利口でもない。


 夕焼けが西の低いところにだけ残っていた。昔の映画みたいな色だった。僕は少し歩いてから立ち止まり、端末を開いた。塾の連絡、相場の通知、どうでもいい短い動画の見出し──それから閉じた。しばらく迷って、閉じた。そのまま、駅とは反対のほうへ歩き出した。

何かを決めたわけではない。将来の方向が突然わかったわけでも、勇気が湧いたわけでもない。ただ、まだ混みきっていない『いつか』のほうへ、一歩だけ、ずれてみたかった。

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