第25話:悪い大人
「……ふっ……んぅ…………ん…………。」
チュパ……チャプ…………。
奇妙な水音と唇の違和感が、眠っていた意識を起こす。
「……んぅ…………あっ、ケンイチさん。起きたんですね?」
「ルリ、さん…………?」
目を開けると、ルリが馬乗りになってこちらを見下ろしていた。
「良かったぁ……。大人の男の人だからって思ってアスカちゃんの時より多めに入れたら、なかなか目を覚まさなくて。このまま起きないかと思っちゃいました。」
「どういう、こと……?えっ……?」
くらくらする頭で起き上がる——ことはできなかった。
両手両足がベッドに拘束されていたのだ。
「ルリさん、これはどういう……?」
「……ケンイチさんが悪いんですよ?」
拘束の真意を問うと、ルリは妖しく笑う。
「ケンイチさん、私の事好きって言ってくれたのに、シズカ先生の事を抱きしめて……。」
「いや、あれは——んぅ!」
言い訳しようと口を開くが、ルリに唇を奪われ何も言い返すことができない。
「私はこんなにケンイチさんが好きなのに、そうやって気だけ持たせて知らんぷりなんて…………。ケンイチさんは悪い大人ですね。」
「ル、ルリさん、落ち着いて!」
何とか拘束を外そうともがくが、縄はしっかりと括り付けられており、ベッドを揺らすことしかできない。
「あんなに秘密を共有しあったのに……。ケンイチさんが私の事好きだって言ってくれたから、こんなに頑張ってきたのに……。」
しばらくあがいていると、視界の端で何かが光る。恐る恐る見上げると、ルリの手には布を裁断するための大きなハサミが握られていた。
「私の事、嫌いになっちゃいました?どうしたらまた愛してくれますか?」
ルリの濁った目がケンイチを見下ろす。この状況を切り抜けるための言い訳を必死で考えた。
「お、俺が好きなのはルリさんだけだよ!シズカさんのあれはそういう流れだったというか、なんというか……。」
「……………………。」
ルリは動かない。無言でケンイチを見下ろしたまま何かを考えているようだ。
死の宣告を待っているかのような沈黙に、痛いほど鼓動が鳴る。
「………………ウフフッ。」
突如ルリが笑いだした。
「…………アハハッ。」
思わず笑いが出る。どうやら許してもらえたようだ。
「……やっぱり、先生は悪い大人ですね。」
「……へっ?」
——そんなことは無かったようだ。ルリの顔から表情が消えた。
「そうやって『好きだよ』とか『ルリさんが一番だよ』とか言っておけば、うまく丸め込めるとか思ってたんでしょう?私の事子どもだって馬鹿にして、心にもないこと言って、私の事利用してたんでしょう?」
「…………何が利用してただよ。」
ルリの勝手な言い分に腹が立ってきて、思わず言い返す。
「俺を利用してたのは君じゃないか!好きだのなんだのって言って近づいてきたのも!俺の秘密に勝手に出しゃばって来て協力したのも、全部君だ!おかげで散々だよ。人間の解体を二度もする羽目になるし、それがバレるんじゃないかって毎日怯える羽目にもなるし!挙句の果てには愛してるとか言ってくる気持ち悪いガキに脅される羽目になる……。もう放っといてくれよ……。」
一気に捲し立てると、気持ちが軽くなった。ここまで言えるものなのだと感心さえしてくる。
「……ケンイチさんは、私の事、嫌いだったんですか?」
「……そこまでは言わないよ。でも君はここの子どもでしかないし、俺は大人の女性が好きなんだ。」
が、さすがに言い過ぎた。冷静になってみると、この状況であんなことを言うのは悪手だ。
「とにかく、これを解いてよ。今まで通り秘密には協力するからさ——。」
「…………………………アハッ!」
拘束を解くよう促すと、ルリが笑いだした。
「アハハハハハッ!アハハハハハハハハッ!アハハ……アァァァァァァァァ!」
やがて、それは絶叫に変わっていく。心の内を吐き出すような声が、ケンイチの危機感を煽る。
「ルリさん、その、落ち着いて……。」
「…………全部、私の勘違い?私は、愛されてなかった?」
ケンイチの声はルリの耳には入っていないようだ。呆然と何事かを呟いている。
「じゃあ、愛って何?私はどうしたら良かったの?何がいけなかったの?私はまた一人になるの?みんなから見向きもされなくなるの?いやだいやだいやだ……。」
頭を抱えて泣き出すルリ。しかし、突如動きを止めてケンイチを見下ろす。
「……もういい。私を愛してくれないなら、死んで……。」
「ま、待ってルリさん!話を——ぐああああああああ!」
その夜最後の絶叫が響き渡り、館はようやく静寂を取り戻すのであった。
気が付くと、真っ暗な空間に立っていた。
自分の体を見下ろすと、色も形もはっきりと認識でき、これが夢なのだと自覚する。
いつの間にか、目の前に両手で顔を覆ったサヨが立っていた。
「……ごめんね、カリンちゃん。」
サヨは指の隙間からこちらを見つめている。
「……なんでアンタが謝るのよ?」
「私はメグちゃんの願いには逆らえないから、こうなる運命は変えられなかったの。だから、ごめんなさい……。」
サヨの目から黒い涙がこぼれた。雫は手を伝って足元の暗闇に消えていく。
「……アンタは、最初からこうなるって知ってたってこと?」
「私の祈祷は、信徒の未来を占うためのもの。あの館は教祖様の別荘だったから、あそこで暮らすみんなを信徒として占うことができたの……。」
サヨの涙は止まらない。暗闇がどんどん深くなっていき、二人の足を飲み込んでいく。
「サヨは悪くないわ。悪いのは、行動を起こしたアイツ等よ。」
「…………そうかな?」
流れる涙でサヨの目も黒く染まっている。それが自分の未来の姿な気がして自嘲するように笑った。
「アタシもすぐにそっちに行くわ。悪口でも言いながらアイツ等を待ちましょ?」
カリンの言葉に、サヨは力なく腕を下ろした。隠れていた表情が露わになる。
その顔は口の端を歪めるように吊り上げ、笑っていた。
「そうだね…………。これで私達、一つになれるね……。」
「…………ハッ!…………夢……?」
目が覚めてはっきりしない意識を覚ますために頭を振る。どうやら炭焼き小屋にいるようだ。
「…………最悪……。」
立ち上がろうとしたが、体が椅子に縛り付けられていて動くことができなかった。
「……おはよう、カリンちゃん。」
「……ルリ…………。」
声のした方を見ると、少し離れたところにルリが座っていた。手に持っていた本を閉じ、こちらに微笑む。
「やっぱりアンタが黒幕ってわけね?」
「……なんのこと?」
「とぼけないでっ!アスカ達をけしかけて、アタシ達を襲わせたのはアンタなんでしょっ?!」
「…………アハッ。そう、なるのかな?けしかけたつもりはないんだけど。」
ルリは表情を変えないまま答えた。
「他に聞きたいことはある?最後だから、私が答えられることならなんでも答えてあげる。」
そう言ってこちらに促すような所作をする。
「……なんでこんなことしたの?」
「大人たちに縛られた日常から逃げるため、かな。ここでの生活は窮屈だったから。」
「そんなことのために……。殺す必要なんてなかったでしょ?」
「孤児院から子どもが逃げたら、それなりに騒ぎになるでしょ?だから痕跡を消す必要があったの。目撃者を生かしておくわけにはいかない。子どもだろうと、大人だろうとね。」
……目の前にいるのは、本当にルリなのか?
長い間共に暮らしてきた家族を手にかけておきながら平然と笑っているルリを見て、カリンは目の前にいるのが得体の知れない何かのような気がして怖くなった。
「サヨもアンタが殺したの?」
「……あぁ、あれは事故だったの…………。」
「事故…………?」
ルリは椅子から立ち上がると、机に近づいて愛おしそうに撫でた。
「あの頃のサヨちゃん、ケンイチさんを驚かすのが大好きで……。あの日もケンイチさんを脅かしたみたい。そうしたらケンイチさん、驚きすぎてサヨちゃんを突き飛ばしちゃったんだって。そのまま机の角に頭をぶつけて、死んじゃった。」
ルリは机の上に本を置くと、近くの壁に掛けられた斧を手に取ってじっと見つめる。
「ケンイチさん、気が動転してたみたいで、サヨちゃんを隠そうとしてた。私は偶然そこに居合わせて、手伝うことにしたの。」
「……サヨをどこに隠したの?」
ルリが振り返った。微笑んではいるが、その目からは何の表情も読み取れない。
「解体してこの窯の中に入れたよ。一緒に服も切り刻んでね。骨は焼いて砕けば畑の肥料になるし。でも肉の方は量が多かったのと、水分を含んでて燃やしきれなかったから、カリンちゃん達にも手伝ってもらうことにしたの。」
「……は?」
ルリはそんなことを言うが、当然サヨの遺体を処理した覚えなど無い。
「人間のお肉は臭みが強かったから、臭いを消すのに苦労した。結局、香草をすりこんで無理やり臭いを消すことになっちゃった。」
「それって…………!」
思い出されるのは、2年前のことではない。ほんの数日前の事だ。
「ミドリ先生が上手くやってくれたおかげで、みんな美味しく食べてくれた。サヨちゃんも…………サクラちゃんもね。」
「……お前ええええぇぇぇぇええ!!」
怒りで目の前がチカチカと点滅する。知らず知らずの内に犯行に加担していた事実にルリを殴りつけたい衝動にかられたが、拘束された体はガタガタと椅子を揺らすだけで動けない。
「ふざけんな!ふざけんなよぉ…………!」
どうしようもない無力感と何もできない自分に涙が出てきた。
「アスカちゃんがサクラちゃんを殺しちゃったって言いに来たときはびっくりしたけど、死体の処理はサヨちゃんの時に経験してたからそんなに苦労はしなかったよ。ケンイチさんも協力してくれたしね。」
ルリの独白も遠くに聞こえる。
「……もう、殺してよ………………。」
もう何もかもがどうでも良かった。目の前の邪悪を睨みつける気力も残っていない。
「その前に、カリンちゃんに聞きたいことがあるの。」
近くで降りかかる声に顔を上げると、いつの間にかルリが近づいてきていた。
「聞きたいこと…………?」
「うん。……ねぇ、カリンちゃん。…………愛ってなんだと思う?」
「…………愛……?」
質問の意味が分からず、聞き返す。
「私があんなに沢山尽くしてあげたのに、ケンイチさんは私の事なんてなんとも思ってなくて……。むしろ私がサヨちゃんの事バラしちゃうんじゃないかって、私のご機嫌取りで好きになったフリしてて……。」
ルリは悲しそうに目を伏せた。
「私はどうすればよかったのかな?もっとケンイチさんを愛してあげたら良かった?そうしたら、ケンイチさんはもっと私を愛してくれた?」
「…………なんでそんなこと、アタシに聞くのよ?」
「カリンちゃんなら、はっきり答えてくれるかなって。」
——これは最後のチャンスだ。体は動かなくとも口は動かせる。目の前でこちらを覗き込む邪悪に一矢報いることができるのは、きっとこれが最後なのだ。
「まず、前提が間違っているのよ。アンタは……。」
「前提?」
そう考えると力が湧いてきた。首を傾げるルリを睨みつけ、力の限りに叫ぶ。
「アンタみたいな人間未満のバケモノが!思い上がって『愛してあげる』とか『尽くしてあげる』とかヌかしてんじゃないわよ!」
「………………………………。」
「人間は人間しか愛せない!アンタ達バケモノが誰かに愛されることなんてあるわけないのよ!」
肩で息をしながら、ルリと向かい合う。ルリは驚いたように目を見開いていたが、やがてゆっくりと息を吐いた。
「ひどいなぁ。…………………もういいや。」
そう呟くと、手に持った斧を振り上げる。
「さよなら、カリンちゃん。」
「…………さっさとくたばれ、バケモノ。」
斧が振り下ろされた。一瞬の事のはずなのに、時間が引き延ばされたようにゆっくりと斧の軌跡が見える。
しかし目は逸らさない。それが、目の前で死んでいった家族のための最後の抵抗だった。




